閑話 慎太郎と奏“ファーストコンタクト”

 


 ——社会人として初めての夏を迎えた。


 この3ヶ月は本当にあっという間で、息をするのを忘れるぐらい目まぐるしい日々を送っていた。

 仕事に行き、家事をして……その往復だ。


 学生とは違って、お金の自由度は増えたかもしれないけど、時間の自由度は減ったと思う。


 でも、嫁のためを思えば頑張れる。

 帰ってから会話をするだけで癒される……。


 だから頑張ろう。

 今日も!



 俺はふぅと息を吐き、額の汗を拭う。

 日陰から出て、道行く人たちに声を掛けてゆく。


 そう、俺は新たに任されることになった新規校舎の募集のため、ビラ配りをしていた。



「こんにちわー! 個別指導のプラスグリーンですっ! 良かったら来てください!!」


「いえ、結構です」


「………………」



 だが、人生気合いを入れたからと言って、どうにかなるものでもない。チラシを貰ってもらえず、伸ばした手が悲しく放置される。


 いや……ほんと、ビラ配りって心を折りにくる作業だよなぁ。



 夏期講習からオープンする個別指導の教室。


 開校まで約1ヶ月。

 経費を削減ということもあり、一人で配るしかない状況である。


 新規で人を集めなくてはいけないのに、この仕打ち……。

 つまり、俺が勤めている個別塾は所謂ブラック企業と言えるところだった。


 ただこの職種にマシな点があるとすれば……。

 自分の裁量で教室を運営できることと。

 人数を集めることによって給料が割と多く上がる。


 この二点があげられることだろう。

 と、言っても休みが少ないのはいただけないが……。



「せめて広報費とか出してくれよ……。バイトを雇う金もケチるなんてさぁ」




 2時間ほど配り、俺は一度退散することにした。

 暑くて暑くて、このままだと死ぬ……。


 炎天下の中、長い時間ビラ配りをしていた俺は、駅同士を繋ぐ歩道橋の隅にあるベンチへ腰を下ろして、缶コーヒーを片手に息をついた。


 中々上手くいかないなぁ。

 新天地で生徒数を確保するのも、楽じゃないわ……。


 そんなことを考えて項垂れていると、ふと視界の端にゴミ箱の前で立つ女子高生の姿が入ってきた。


 随分と綺麗な子だな……。


 背の半ばまである艶やかなストレートの黒髪に切れ長の目。

 ひかえめに言っても“美人”の分類に入る子だろう。

 制服は程よく着崩して、遊び慣れてそうな雰囲気もあった。


 そんな目を惹く見た目に、つい視線が誘導されてしまう。



「いいね、ああいう学生は。まさに青春中って雰囲気でさ」



 でも……何をしてるんだ?

 そんな子がゴミ箱をじっと見つめ立っていたら、嫌でも気になってしまう。


 俺が仕事を忘れて眺めていると、彼女は鞄の中から辞書みたいな参考書を取り出す。それから片方の耳に髪をかけ、野球の投球のように振り被ると参考書をゴミ箱へ勢いよく投げ入れたのだ。



「おいおい、勿体ないじゃないか……。あの参考書って意外と高いんだぞ……。いらないなら欲しいぐらいだ」



 俺のそんな声に女子高生が反応し、つまらなそうな冷めた目を向け、ゴミ箱を指差した。



「それならお好きにどうぞ。私にはいらないので」


「いらないって……」



 俺はゴミ箱から参考書を拾い、パンパンと叩く。

 幸いなことにゴミ箱の中は空で、参考書に汚れはついていなかった。


 勢いよく投げたから……少し破けてるけど。

 まぁ、それでも使えなくはないだろう。



「ほら、まだ使えなくはないから。勿体ないだろ?」


「いりませんけど。拾ったなら貰えばいいじゃないですかー」


「いやいや、有り難く貰ってしまおうとしたけどさ。君って高校生だろ? これ、分かり易い教材だし必要じゃ……あ、もしかして大学の推薦がほぼ決まってていらないとかかな?」


「まだ高2です」


「それなら、なおのことやらないとだろ〜。まぁ、もし勉強のことで困ってるなら“お兄さん”が力になるぞ! これでも塾の先生だからなっ」



 あからさまな嫌悪感を示した顔から、きょとんと不思議そうな顔に変わった。



「なんだその顔は……?」


「えっと、お兄さん……いえ、おじさんって塾をやっているんですか?」


「そうだよ。って、おじさん呼ばわりかよ……」



 しかも、わざわざ言い直すなよなぁ。

 これでもまだ若いんだぞ。


 『落ち着いてるから若く見られない』っていうのは昔からあるけどさ。

 女子高生にまで言われると、わりと傷つくって……。



「別にどっちでもいいじゃないですか。私からしたら、学生以外は等しくおじさんです」


「よくないわ! 俺はまだ22歳!! 断じておじさんではない! ぴちぴちの新卒だから!!」


「はいはーい。新卒さんは頑張ってくださーい」



 これが女子高生のスルースキル…… うまく、いなされたなぁ……。

 興味なさげに手をひらつかせて返事をする彼女に、俺は嘆息した。



「あ〜いたいた塾の人! あの、チラシ見せてもらってもいいですか〜。私の友人が見たいと言ってるのよ〜」


「はい! 今、お持ちします!!」


「あっちにいるから、早く持ってきてちょうだいね〜」


「わかりました! 少々お待ち下さい」



 主婦に話しかけられ、俺は慌ててチラシを用意し始める。

 友人達の集団が少し離れたところに見え、顧客のゲットチャンスと胸を高鳴らせた。



「じゃあ、女子高生! 俺は仕事中だし行くからな〜」


「はいはい。どうぞどうぞ……」



 そのまま立ち去ろうと俺は背中を向ける。

 だが、その時の彼女の冷めた表情が妙に気になり、後ろ髪を引かれる思いで振り返った。



「ま、今は悩むことはあるかもしれないけど……。勉強も頑張りながら、将来のために青春を謳歌しろよ」


「青春ですか……。青春って興味ないんですよね」


「青春はいいぞ〜。悩むことも楽しむことも、何でも青春だ! 今は泥臭くて、青臭くても、大人になったらいい思い出になる!! 何もないよりマシさ」


「そういうものですか……」


「そういうもんだよ」



 ニカッと笑いかける俺に対して、彼女はめんどくさそうにして視線を逸らした。



「相談なら気軽に乗るからさ。あー、勿論。塾生になるなら、いつでもウェルカムだ」


「はは、なにそれ。そんなこと言うと甘えますよ?」


「おうおう。甘えろ甘えろ。学生の内は甘えとけ! 大人になったら甘えれなくなるしね」


「そっか……確かにそうかもですね。でも、そう簡単に行かないのが世の中ですって。出来ないこともあるし、認められないことも……」


「ま、理不尽さはあるよなぁ」



 “言うは易し”とはよく言ったもので、行動に起こすのは中々に難しさはある。

 けど——



「言わなきゃ始まらないし、何もしなければ変わらないんだよな。ダメだったら考えればいいし、高校生って立場だからこそ、動けることは結構あるんだぞ?」


「はは……そうですか?」


「おう! だって、親は養わなければいけないからな! こんな言い方をすれば、語弊があるかもだけど、親だってなんでも理解しているわけではない。同じ人で、万能じゃないんだ。だから、しっかり気持ちを伝えてゆくことが大事だね」


「……私、親のことなんて言ってませんでしたけど?」


「あ……そうか。悪い悪い、てっきりそう思っちゃったわ」


「……勘違いしないでください」


「ごめんって。でもさ、これってどんな悩みでも共通なとこはあるんだよ」


「共通点?」


「簡単なことだよ。『何もしなければ何も始まらない』、『何もしなければ、いい結果も得られない』という至極、真っ当な極論だよ」


「…………」


「まぁ大体、文句を言う人は言うだけで何もしてないことが多いんだ。だから君もね?」



 女子高生は不機嫌そうに目を伏せ、それから俺を睨んできた。



「動いていても……どうせ認められないし、意味のないことはありますよ。もう、わかってることです……」



 自嘲気味にそう言い、睨みながらも目は微かに潤んでいるようだった。

 ……高校生ならではの悩みってあるよな。


 将来のことで悩んで、やりたいこと、言いたいことがあっても否定されるのが怖くて言えないくて動けない。


 きっと、彼女もそうなのだろう。



「よしっ! わかった!! それならこのお兄さんも一緒に親御さんに話してやろう!」


「え……」


「君が動いて、どうしてもダメで……そんな時は、協力するよ。俺が代弁して、ビシッと言ってやる!」


「で、でも……どうして?」


「俺は、夢を持って悩んでる学生の味方だからなっ! ハッハッハ〜〜っ!」



 俺はわざとらしく笑い、彼女の気分を晴らしてやろうとする。

 少しだけでも、彼女の助けになればいい……そう思って。

 周りから奇異な目で見られても、この際、無視だ無視!


 そんな俺の気持ちが僅かでも届いたのか、彼女は苦笑して呆れたように笑った。



「なんだか、お気楽な人を見ていたら。馬鹿馬鹿しくなってきました」


「酷いなぁ〜」


「お兄さんって、なんか……先生みたいですね」


「だから塾の先生だよっ!」



 俺のツッコミに初めて、この女子高生がくすりと笑った。

 笑うと可愛いのに…………って、やばっ!?

 早く渡しに行かないと……。



「早く行ってきたら? 待ってるよ、主婦の方々」


「そうだな……んじゃ、頑張れよ」


「うん……ばいばい、おじさん。……ありがと」



 最後までおじさん扱いかよ!

 という、ツッコミたい気持ちをぐっと飲み込み。


 俺は、その場を離れたのだった。




 これが、俺と奏の初めての出会い。

 長い付き合いの、最初の1ページだ。

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