第8話 幸せな朝を感じた

 


 ふわりと、堪能したくなるような甘い香りが鼻孔に侵入してきた。



「んっ……?」



 ぼんやりと目を開けると、窓の外はもう明るく鳥の囀りが聞こえてきた。

 ただ、窓から入る日差しは朝の優しい雰囲気ではなく、やや強いものになっている。



「頭いてぇ……何時だ、今」



 ぼやける目を擦り、ポケットに入ったままのスマホを見る。



「10時か……。よかった、まだ出社の時間じゃないか」



 俺は体を伸ばし、ソファーから体を起こそうと動かすと手にぷにっとした柔らかい感触があった。



「おっは〜。有賀っち良い朝だね〜」


「……お、おう。おはよう……」



 挨拶を交わすと、途端に昨日話した内容が頭に蘇ってきた。


 酒の勢いだから仕方ない。

 そう割り切るのは簡単だが……。

 離婚のことを話し、情けない姿を晒した自分の姿を思い出すだけで顔から火が出る思いだった。


 きっと、俺の顔は赤くなっていることだろう。

 そんな俺の様子がおかしかったのか。

 ふふっと笑う声が聞こえてきた。



「……何がおかしい?」


「違うよ。ただ、くすぐったいなぁーって。女子大生の脚がそんなに気持ちいい?」


「あ、すまん……!」



 俺は慌てて手を離す。

 そして、今度は触れないようにして体を起こした。



「まさか、ずっと膝枕してたのか……?」


「ううん。そんなことないよ。途中で何度か立ったし」


「そうか……それならよかった……って、でもその度にまた膝枕をしに戻ってきたのかよ」


「そうだよー。中々いい極上の枕だったでしょ〜?」


「それは……まぁ。結構なお手前で……」


「ハハッ! 何その反応〜。ウケるねっ!」



 腹を抱えて笑い、足をばたつかせる。


 ……あれ?

 脳が覚醒し始め、思考がクリアになってきたからか。

 目の前の変化に気づき、俺の顔が引きつってゆくのを感じた。



「なぁ、そのジャージって……」


「あ、これ? 有賀っちのを借りたよ。ダメだったー?」


「いや、それは別にいいんだけさ。寝る時に私服の方が寝づらいとかあるだろうし」


「そうそう! 私はそんな感じなんだよね。私服だとなんか寝苦しくてさぁー」


「なるほど……」


「納得した?? ま、とりあえずさ。シャワーだけでも浴びてきたら? 私は借りたけど、さっぱりしたよ〜」


「男の家で流石に無警戒すぎるだろー……って、は? 今、シャワーって言ったか?」


「うん、借りたよ。あ、ごめんごめん。着替えなかったから、有賀っちのジャージを借りちゃった」


「ジャージは別にいいんだが……」



 シャワーを浴びた?

 ってことは……そのジャージの下は?


 馬鹿か!

 惑わされやがって、変なこと考えるよ!

 煩悩……消えてくれー……。



「あー、もしかしてだけどぉ。有賀っちは下着のこととか気にしてる??」



 そんな俺の心を読んだのかと思えるようなことを聞いてきて、曖昧な笑みを浮かべる。

 胸には嫌な高鳴りを覚えた。


 ってか、エスパーかよ!!



「し、してねぇよ……」


「ぷぷ……何、その男子中学生みたいな思春期特有の反応〜。大人なのに、ドキドキしちゃってる?? もしかしてー、このジャージのファスナーを上まで上げてる理由とか気になっちゃう感じ〜っ?」


「うぜぇ……」


「ねぇねぇー、教えてよぉ〜? その辺どうなのー?」



 くそ……。

 面白おかしくめっちゃ煽ってくるな。


 目をキラキラと輝かせて、奏はまるで好奇心の権化となっているようだった。


 こうなると昔からしつこいからなぁ……。

 白状しとかないと、外で思い出したように聞かれる方が最悪だ。


 俺はため息をつき、肩をがっくしと落とした。



「うるせー。仕方ないだろ」


「仕方ないの?」


「あくまで言い訳だけどな。こちとら結婚してから何年もご無沙汰なんだから……。仕事も忙しかったし、その手の話題に免疫がなくなってきてんだよ」


「あー、だからかぁ……納得納得」


「おい、なんでこのタイミングでで顔を赤くする……?」


「………………」



 何故か無言。

 ほんのりと赤く染まった恥じらいの表情を見て、じわじわと背中に冷や汗が浮かんでくるのを感じた。



「まさか……俺。酒の勢いで襲ったりしてないよね」



 俺の問いに、奏はこちらをじっと見るだけで返事がない。


 やばい。

 これは非常に嫌な予感がする。


 嫁に浮気され、自暴自棄、酒の勢い。

 人生を棒に振る行動をとってもおかしくない要素が揃っている。

 昨夜の状況から考えて、いっときの盛り上がりで……ってこともあり得てしまう。



「か、奏……?」



 冷や汗をダラダラとかきながら俺が言うと、奏の頰がぷくっと膨らみ、それかプッと吹き出して笑い始めた。



「大丈夫大丈夫。してないよー」


「またからかいやがって……! 寿命が縮むだろうが!!」


「あはは、ごめんごめん。有賀っちを見てるとつい悪戯したくなるんだよね〜」



 可笑しそうに肩を揺らして、奏は言葉を続けた。



「あ、でも。私の太ももは撫でてたよ? すっごく、いやらし〜い手つきで」


「すいませんでした! 警察だけは勘弁してください」



 人生で初めての土下座。

 セクハラで確実にアウト、きっと指紋までべったりだろうから……。


 一瞬でも、ホッとした自分を責めたい気分だ。



「まぁまぁ。私は気にしないけどね〜。でも、有賀っちの“弱み”はゲットだね?」



 奏は可笑しそうにけらけらと笑っていた。

 やばい、完全に奏のペースだ。

 めっちゃからかわれている。



「ちなみに奏は……俺になんか悪戯してないよな?」


「普通は女性側が心配するところだよね、それ」


「いや、ほら、奏って何するかわからんところあるし。あっ! もしかして……よかった、パンツは履いてる」


「……有賀っちの私のイメージについて、よーく話し合う必要があるかもね〜??」



 奏は、ジト目でこちらを見てくる。

 子供のように不機嫌そうな様子を見せたが、俺の冗談だとわかっているのだろう。

 すぐにいつも通りの人懐っこい笑顔に変わる。



「朝ごはん、時間的には昼?? ま、どっちでもいいよね。ご飯を準備しとくから、早くシャワー浴びてきなよ。今日も仕事でしよー?」


「お前は俺のオカンか」



 俺がツッコミを入れると、ほぼ同時くらいに俺の腹がぐぅと鳴った。

 腹の音を聞いて、奏は微笑んできた。



「飯……作ってくれるのか?」


「いらないのー?」


「いや、めっちゃいる」


「ははっ。だったら、ほぉら早く行ってきなよ〜っ!」


「……おう」



 着替えを渡され、洗面所へと押される。

「なんで俺の着替え出してんの!?」という疑問は残るが……。


 それ以上に、こんな朝のやりとりにちょっとした幸せを感じた俺がいたのだった。


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