第5話 宅飲み
「お邪魔しま〜す!」
元気のいい挨拶が誰もいない部屋に響く。
奏は靴を脱ぐとそれを踵を揃えて置き、「ちょっと待て」という俺の静止を無視して、奥へと進んでしまった。
「奏を初めて家にあげてしまった……」
昔から、奏は何かと理由をつけては家に来たがっていた。
嫁がいたからという理由もあるが、生徒と仲が良くてもそれはあくまで仕事上のもの——公私混同はしない。
そう決めていたから、招くことはなかったのだ。
それなのに……。
「……再び嫁を見たら、心が揺らぐなんてなぁ」
若い男と一緒だった。
前にコンビニで見た時と同じ男だろう。
思い返すだけで、胃から何か苦いものが上がってきてしまう。
でも、俺にできることは何もない。
嫁に言われた時には、既に
全ては手遅れ……。
まぁ、届を出されなかったところで、夫婦関係の修復なんて叶わなかったかもしれないけど。
……はぁ。
寂しさを紛らわすために甘えるなんて、大人として情けなさすぎる。
自己嫌悪に陥りそうだよ……。
俺が、自分の靴を磨きながらそんなことを考えていると、背中にずっしりとした重みがかかった。
重い筈なのに柔らかく、どこかいい匂いが鼻孔をくすぐってくる。
「重いぞ……」
「あ~。女性に重いって言うのは禁句だって。それに私は軽いから抱っことかしてみる??」
「しねぇよ。子供じゃないんだし」
「そうそう! 私はもう大人だもんねぇ〜」
奏は猫みたいに目を細めて俺の方を見てニヤリと笑った。
それから、俺の腕をちょんと突いてリビングを指さす。
「ほ〜ら、有賀っち! そんなところにボケーっとしてないで、早く晩酌しようよ。今なら私がついであげるからッ」
「ははっ、それはいいかもな。でも、奏が言うと、まるでキャバクラみたいに聞こえるけど」
「行ったことあるんだ!」
「ないよ。ただの想像だ。何かを頼む度に、やたらと金がかかるイメージしかない」
「ふふ。どハマりしてもいいんだよぉ〜? 何なら指名も可!」
「指名料とか高そうだなぁ」
「有賀っちならタダです」
「おっ! それなら毎日指名できるなっ!」
彼女の高めなテンションに合わせ、気を紛らわせながらリビングに入る。
明かりをつけると、当然誰もいるわけもなく、男の一人暮らしのような惨状が視界に入ってきた。
やば……片付けてないの忘れてたわ。
こんな状態を見られたら、『妻がいない』ことがバレてしまう。
そんな思いから変な汗が額に滲んでいた。
「ははっ。部屋汚いね~」
「……掃除忘れてたわ」
「そっかそっか~」
部屋が汚れている理由など興味がないのか。
部屋をきょろきょろと見て回り、それから微笑んできた。
「とうとう有賀っちの家に来ちゃった」
微笑みを向けながら、そう無邪気に言う彼女の言葉が実に心臓に悪く感じる。
俺はそんな自分の背徳感を誤魔化すように、ソファーへ腰掛け、コンビニで買ってきた酒を並べていった。
だが、ここで重要なことに気が付く。
「やば、酒を買ったのに“つまみ”を買ってない」
「え~っ。何やってんの~」
「すまん……」
「しょうがないなぁ……ねー有賀っち。冷蔵庫になんかある?」
「まぁ料理はするから、色々入ってるが……まさか」
「そ。私が何か作ってあげるよっ」
「………………」
「ちょっと!? 何、その目は!?!?」
「いや……料理とか出来んのかなって」
「はぁ!? なめんなし。これでも練習してるんだからねっ!!!」
頰を膨らませ、不服を訴える彼女を見て俺は思わず苦笑した。
自信たっぷりな様子だけど……大丈夫なのか?
俺のそんな視線に、奏は更にぷくっと頰を膨らませて不機嫌そうにキッチンに向かう。
「とりあえず作ってくるから、待っててよ。ちなみにどういうのがいい?」
「なんか肉系がいいなぁ。揚げ物系も捨てがたく……」
「なるほど……肉系で揚げ物系か。んじゃ、作るから待っててね」
軽い足取りでキッチンに向かい、手際よく料理を始める奏。
俺はその様子をぼーっと眺めていた。
懐かしいな。
俺以外がキッチンに立っている姿は……。
嫁も結婚して最初の方は、いくら帰りが遅くても待ってくれたし、夜ご飯やお弁当だって準備してくれていた。
献身的で、そんな妻が大好きで毎日が楽しく、仕事も辛さなんて忘れてしまうほどだ。
けど、それはもう過去のこと。
結婚して半年ぐらいしてから、家事なんてほとんどやってくれなくなって。
最低限はこなしてくれるが、お弁当なんて全く作ってくれなくなった。
自分の帰りが遅いのはわかっている。
生活リズムが合わず、話す時間が減り、意欲が下がってしまうのも申し訳なく思う。
でもさ。
だけど、たまにでいいいから……。
『いつもお疲れ様』の一言でも欲しかったな。
「いつもお疲れ様」
考えていた内容の言葉を不意に言われ、俺はびくっと身体を跳ねさせてしまった。
それが恥ずかしくて、顔が熱くなるのを感じる……。
「大丈夫? 有賀っち??」
「お、おう。問題ない。ノープロブレムだ……」
「ふふ、何それ。とりあえずお疲れ様~、これはお望み通りの料理ですっ。題して『コンビニのか〇あげクン風の唐揚げ』だよ!!」
「名前長いなぁ……でも、普通に美味そう」
「ささっ。食べよ食べよ」
「でも、夜中に揚げ物って太るよな」
「作らせておいて、それ言うなし!!」
俺は作ってもらった唐揚げを口に入れ、噛みしめてゆく。
柔らかくて、あったかくて…………。
「やべ……」
俺は慌てて目元を拭う。
まだ20代なのに涙腺が緩むのが早すぎるだろ……。
いくら久しぶりの手料理だからって泣くなよ俺!!
奏に見えないように顔を背けていると、「えいっ」と急に可愛らしい声がして肩に奏が寄り掛かってきた。
「たまにはいいでしょ。こういうのも」
「……そうだな」
「色々と我慢してるんだから、羽を伸ばした方がいいんだよ。伸ばしてたまに飛んであげないと、飛び方を忘れちゃうからね」
「……そっか。たしかに……そうかもな」
今まで我慢して生活してきた。
だったらいいよね、今日ぐらい。
羽伸ばして、楽しく過ごしても……。
俺はふぅと息を吐き、それから缶ビールを持った。
「じゃあ、飲むか。……って、20歳にもうなってたか……?」
「大丈夫だし! ってか、そうじゃないと家にあがらないよ~。有賀っちを犯罪者にしたくないからね」
「……教え子にそんな気遣いされるとは……年をとったなぁ」
「ははっ。じじくさ~」
お互いに笑い合う。
そして——
「「乾杯!」」
缶酎ハイと缶ビール。
それをコツンとぶつけ、宅飲みはスタートしたのだった。
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