第2話 家に泊めてよ

 

 ——離婚してから数週間が経った。


 まだ心の傷は癒えておらず、仕事に打ち込むことで俺は忘れようとしていた。


 この個別指導塾に勤めて4年。今では校舎を任せられていて、夏募集の始まりというこの季節は、繁忙期で塾生が1番多く増える。

 だから忙しくて、仕事に自然と打ち込めるから、辛いことを忘れるのにもってこいだった。



 「えっと、まずは体験の生徒のデータを入力して……それから、面談表の準備か……。明日のも用意しないとなぁ」



 俺が忙しなく動いていると、帰る支度を終えたアルバイト達が控え室からぞろぞろと出てきた。



「塾長! 先にあがりますっ」


「お疲れっす!」


「はいはーい、お疲れ〜。また今度もよろしくね」


「はい! あ、えっと……まだ帰んないっすか?」


「やることあるからね。仕方ない仕方ない」


「いやいや無理しちゃダメっすよ〜っ! 奥さんもいるんだし、帰らないと怒られちゃいますよ!」


「そうそう!」


「うん……そうだね。まぁ頑張るよ」



 俺は手を振り、去って行く大学生達の背中を眺める。

 まだ若く、期待に満ち溢れた姿を見ると先日の若い男と消えた元嫁を思い出してしまい、口からは自然とため息が漏れ出ていた。


 ……今の言葉は、ぐさりと心臓に刺さったなぁ。


 俺はアルバイト達に離婚したことを言っていない。

 人とかなり接する職場だし、仮に俺のことが広まって保護者に嫌な印象を与えることにしたくないからだ。


 だから、帰り際の言葉は、アルバイトの彼等が嫌味を言ったわけではない。

 それはわかってるけど——。



「マジでクリーンヒットだわ……」



 コーヒーを一気に飲み干し、それから顔を何度か叩く。

 気合を入れて仕事に移ろうとすると、まだ帰ってなかったアルバイトのひとりが話しかけてきた。



「あれ、有賀っち。帰んないの?」



 不意に声が聞こえ、振り返る。

 相変わらずのタメ口にギャルっぽい見た目……。



「雨宮ー。いつも言ってるだろ? 俺は塾長で社会人には“さん”付けだ」


「あー、ごめんごめん。いつもの癖でついね〜」


「ったく、そこら辺は成長しないな本当。まぁ、今は生徒がいないから、呼び方なんて別にいいけど」


「ほんと? じゃあいつも通りで呼ぶね有賀っち」



 回る椅子に腰掛け、俺の目の前でくるくると回る。

 俺が煩わしそうに視線を向けると、にかっと笑いかけてきた。


 彼女の名前は、雨宮奏あめみやかなで

 ウチのアルバイトの一人で、元教え子だ。


 塾に大した規則はなく、髪は赤に近い茶髪で派手目な印象を受ける。

 ゆるーい格好は、まるで男を誘っているようだ。


 見るからにチャラチャラとしていて、一見“軽そう”に見えるが実際は違う。

 格好は、ダンスをやる関係でラフなのが好きなだけで、他に軽く見られる要因も本人の趣味がそう見させてしまうだけ……らしい。


 これはあくまで、本人からの伝聞で実際はどうかわからないが、納得できる部分もある。


 確か、初めて会った時は実に物静かで、素っ気なく反応が薄い生徒だった。

 まぁ……これを言っても信じられないだろうけど。

 今は馴れ馴れしい態度に、遠慮する様子は微塵もないからなぁ。


 この仕事を始めて最初の生徒が奏で、当時は高2。

 そこから、4年も付き合いがあるから……。

 態度も砕けたものになり、俺に対して遠慮が全くなくなってしまったのも仕方ない気もする。



「これは成長というべきなのか……?」


「いやいや〜私は、間違いなく成長したでしょ? 来た時、成績とかマジでヤバかったから……ははっ」


「笑い事じゃないよ。俺がどんだけ苦労したか……」


「アハハッ! あの時はありがとね、有賀っち!」



 俺の背中をバンバンと叩き、大笑いをする。

 ちょっとうざく見えるこの態度も、元気がない今では楽しく感じてくる、なんか元気をもらえるようで、正直なところ悪くない。



「あ、そうだ。今日、雨宮先生が見てた体験生なんだが」


「ちょっと有賀っち! 先生呼びはやめてよ〜。背中が痒くなっちゃうから」


「はいはい、奏。それで今日の体験生なんだけど、『入塾する』ってさ」


「おっ! やったね〜。手応えあったと思ったんだ〜っ! 流石は私だねぇ、ぶいっ!」


「はは、マジで凄いよ。これで今月5人目だし、毎度ながら助かるわ」


「ふっふっふ〜、これは有賀っちの教えの賜物ですッ」


「よせよ、照れるだろ?」


「学んだ雑談スキルで任せておいて!」


「そっちかよ!? って、授業で引っ張れよなぁ、おい……」



 これだと俺が授業中に雑談ばっかだと思われるじゃないか……。

 確かに、そう言う話もしたけどさ。


 塾長としては『教え方がよかった』と言って欲しいじゃん?

 ま、でも俺の教え方が云々というよりは、単純に彼女のポテンシャルが高いんだよな。


 コミニュケーション能力は異様に高いし、それで教えるのも上手かったら、それは人気が出るよね。

 特に彼女は、ほぼ毎日バイトとしているし、生徒からしても嬉しい存在なのだろう。


 って……本当に毎日いない?

 シフト作ってるの俺だけどさ、『大学の授業とか大丈夫なの?』って心配になるんだけど。


 いくら若いと言っても、連日のバイトで疲れてる筈から……ここは早めに帰してあげた方がいいか?



「奏。俺はまだかかるから、帰っていいぞ? 明日、1限がある日だろ?」


「えー、私まだ話してたいんだけど〜」


「仕事が終わらなくなるだろー」


「帰りに肉まん食べたいのに」


「おいおい、また俺に奢らせるつもりかぁ……? って、ここんとこ毎日たかってない?」


「にしし、そこはちゃんとお礼するって〜。でもそれには、お願いがあって」


「うん? ……お礼なのに、お願い??」



 俺は首を傾げ、ニヤニヤとしている奏を見てため息をついた。


 ……うわぁ。

『なんの悪戯してやろう』って魂胆が見え隠れしてるよ。




「今日、有賀っちの家に泊めてよ」



「へ?」と間抜けな声が俺の口から出た後、しーんと静かになった夜中の職場。


 そこに彼女の澄んだ声だけが、余韻として響いているように感じた。


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