聖なる夜には14番を。

Ley

「14番…………」


 彼は自身を傍に立たせてそのピアノの蓋を開いた。



 低く沈むような低音が厳かに始まり存在感を主張する。 彼の指が鍵盤に触れた瞬間、目を閉じ音を奏でた瞬間。世界が暗転した。どこからも光というものが当たらずいるのに、自分と彼とピアノのみが浮き上がっていた。一定のリズムで刻まれる音が静かに響く。闇が続く。

 5節目からやっと始まる旋律。ふわりと視界に映ったきらやかな星。かのヴェートーベンが黒い調性と呼んだこのロ短調は、一瞬の儚さを表しているようで。一時のこの美しさは闇という大きく抗いようもないこの摂理に反抗し、主張し、そして飲み込まれる。物悲しい筈のこの旋律に1層不安感のような冷たさが加わり、背筋が正される。澄んだ音は遠く響いて静寂な半宵に融けて消えた。

 月が照る。波がゆためく。反射する。深く深く沈んでいく。

 どこからか現れた月光がピアノの黒く艶かしい曲線を照らし出して、彼の頬を白く染めた。彼の目元に反射光が当たっているがその瞳を閉じている彼は気づかないだろう。閉じられた睫毛はふらりと黒塗りに揺れていると言うのに、自分以外は誰も見ることは出来ない。その事が自身を興奮させる。冷たさの残る音と、自身の感情がミスマッチして温度差が身体を震わせた。

 細く透明な音が、彼の細い指から奏でられる。指は月光を通すかのように白く、鍵盤に触れてるのかを疑うくらいの繊細さで、それを追う目線をどこかに移すことが出来ない。鍵盤の上で指が滑っている。発光している。ゆらりと揺らめく光は苦しくなるほどに美しく、泡沫のようだった。

 ピアノの正面にまで鏡のように反射する彼の手も、最早そこだけが切り取られた芸術品であり、そこに音と光以外の情報は存在しない。そして、この楽章最後であり、最も弱い音。夜が、本格的に始まる音。全てがふと、幻想だったように消え、闇に葬られた。


一瞬の間。


 柔らかい。レガートとスタッカートが煌めきの温かさを表して光が暖かく頬を照らし直す。冷たく鋭くしんしんとしていた光が穏やかになる。同じリズムでありながらスタッカートや強弱は人によって演奏の仕方の変わる部分。彼は譜面通りではなく一部スタッカートを使わないことで光を断続的で永遠に送り続けていた。

 硬直していた筋肉が解されて、やっと体が動かせるようになったのが分かる。月はいつの間にか発生していた湖に映り全体を鈍く照らす。別の月。自分と彼とピアノは別のところに移動している。遠くに街の灯りが透けて届いて、黄色、赤、橙、白。様々な淡い光が月光と共にここを照らした。

 周りの木々へ音が伸びて木の葉を揺らす。上に上に広がっていく音は先程の厳かさは抜けて優しく緩やかになっていた。最後のピアニッシモからのダカーポではallegretto(陽気)に。軽やかになった音は月まで跳んで地上からいなくなっていく。小さくなった音はもう離れてしまった音を愛しむかのようで、自ずと上を見上げた。


 刹那、駆け抜ける音。それは上だけでなく横にも拡張し、自身の頬を擽った。音が髪をなぞり上げる。風がふいてきたのかと錯覚するほどに。

 もう瞬きなんぞ出来ようがない。先程までの儚さはもうここにはなく、激しく華麗なる美しさだけが存在していた。そして彼とピアノは地上にはいない。星と月と共に空中に居て宴を楽しんでいる。彼らしか参加できないその宴は高尚で雅趣に富んでいた。勿論常人が足の踏み入れられる場所では到底、無かった。

 煌めいた星、星座。

 現在の鍵盤の数は88つ。ヴェートーベンがこの曲を作ったころにこの個数になり始めたそうだ。そして今彼と共にいるあの星座の数も88つ。88もの星と音が彼と戯れている。誰も邪魔は出来ない、それが太陽であってもだ。そして月は眺める。その様子を静かに愉しそうに。

 楽譜の指示は多くがピアノ、であり弱くという指定なのにもかかわらずどうしてこんなにも音は激しく熱情的なのか。時折現れるこの音を特に強くという指令に則って彼は、音に緩急をつけて強弱をつけて高揚感をあらわにする。半夜という冷静さ儚げさは、月光と星によって打ち破られ絶妙なコントラストを描いて自身を揺さぶってくる。昂らせた感情はお預けを食らい、停止させられ物言えぬ不安感を誘って静まったころにまた感情をなぶってくる。

 鳥肌が立ち続け膝が笑う。この興奮は何にも例えがたい。瞬きも息継ぎだって出来ない。息を殺して目をかっぴらいて彼の手元を観る。古のある人はこの曲を「スイスのルツェルン湖の月光の波に揺らぐ小舟のよう」と称し、別のある人は「夜景、遥か彼方から魂の悲しげな声が聞こえる」と称したが、そんな生半可なものではない。第三楽章は情動を揺らし感情を心を振動させる。

 落ち着いた音とともに宴は終わる。彼がゆっくりゆっくりと降りてくる。星が、月が見送る中、彼の音は彼らとの別れを惜しむように謝礼の音色を届けて、そして止む。

 一瞬たりとも伸ばさない最後の音は、空にすっと響いてそして空気は静寂を取り戻した。


 彼の瞳がゆっくりと持ち上がり、世界が戻ってくる。明るい蛍光灯の光がやけに眩しい。自分も何度も触れてきたピアノと見飽きたこの部屋で、コトリと彼が椅子を動かすと無が有になった。


 腰が抜けへたり込んだ自分の傍に彼は座る。冷たいから立っていろと言っても聞かない様子で、仕方なく姿勢を変え膝の上に乗せる。

 15分ちょっとの演奏の間に夜は進み、窓の外に映る町もこの聖夜故に多少ではあるが賑わいを見せていた。そしてこの興奮はちょっとやそっとで収まる訳もなく、彼の無垢な手をむにむにと弄りながら反芻する。端から崩れていって朧気になった記憶も、音という情報だけは律儀に保存しているようで彼の最初に聞いた音と聞き比べる。

 彼が自分の前で初めて弾いた曲はヴェートーベンのピアノソナタ13番、ちなみに今しがた弾いたのはピアノソナタ14番。ヴェートーベン自身はこの二つの楽曲を幻想曲風ソナタとして一つの作品で発表したらしいがレルシュターブによって14番だけが月光として有名になってしまったという裏話がある。ところで何故彼はこの曲を選択したのだろうか。

 ピアノソナタの中でも難しい方に分類されるこの曲を選び、なぜ今日演奏したのか。

 感情に反して頭はくっきりと冷静で、こんなことを考え出し、自ずと彼の手を握っていた手が止まっているのにも気づかずに思考する。単純に疑問なのだ、上手い下手は置いておいても自主的にこんな曲を選ぶ小学生は珍しいのだから。そして初めて聞いた彼の音とは段違いの音を今日奏でてきたのだから。


「どうしてこの曲を?」


 つい口をついて出てしまった疑問に彼はうんうんと唸りながら答えを出してくる。


「前13番に指摘くれたからかな」


 あの日、彼が弾いた1楽章は良くも悪くも型通りと言わざるを得なかった。練習したてだったようだから躓いたり抜けたりするのはいいとしても、所謂楽譜通りに忠実にし過ぎていた部分があった。否、あの時の彼はきっとどんな音を奏でたらいいのかを彼自身が知らなかったのだと思う。ただ闇雲に楽譜を読み楽譜をなぞるという作業をしていたにすぎない。そこに音色という概念は無いし、寧ろ劣等感や喪失感のような何かが透けて見えていたのだ。

 自身が彼に言ったのは、どんな音にしたいのかという問い。それは調律師として奏者に必ず聞くものであり、そこにそんなに深い意味を持たせたつもりはなかったのだが、彼にとっては深く心に残った言葉らしい。


「ありがとう、素晴らしかった」


 あれは彼の曲だった。誰のものでもない、楽譜をなぞるだけでない彼のもの。幻想を見せた彼は穏やかに華麗に笑う。どういたしまして、と。



 少し窓を開ければ軽やかな祝いの音楽が流れ、街の賑やかさが耳を擽る。各家庭ではケーキやら豪華な食事やらで団欒を過ごしているのだろうか。小さな子はサンタクロースに手紙を書き暖炉の傍に置いて、親は微笑ましくそれを眺めて彼彼女の欲するプレゼントをこっそりと枕の横に置く算段を立てているのだろうか。

 自分達は大きなグランドピアノの前で2人きり。

 彼の手が上がり、座ったまま次は何かと身構えた。

 目を瞑るとそこにあるのは自分と彼とピアノと、月光。暗転した世界に映る美しい星空。


 聖なる夜には14番を。

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聖なる夜には14番を。 Ley @Ley0421

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