沐浴中に入ってくるな!

 元々ホテル施設だったことを想起させるに足る広い浴場の中で、俺は風呂用のプラスチックの椅子に腰かけて全身を洗っていた。

 頭から爪先にかけて、隈なく汚れを落とす。

 一部位でも怠ると、肌から直接に血を吸う四人をなんだか汚してしまうようない気がして、いつも念入りに洗っている。


 それにしても、この浴場を一人で使うには勿体ない気がする。

 煌々とした天井の照明、大浴槽に張られた湯水、など毎回どれほどのお金がかかっているのだろうか。

 電気も水道も、支払は俺の口座から引き落とされる。

 電気料金を抜いた先月分の水道の支払いが、俺の自宅の電気と水道の金額と同じぐらいなのだから、バイトしか稼ぎのない俺は、おかげで雀の涙ほどしか貯金できていない。

 風呂から上がったら四人に金銭事情を相談しようかな、と思い始めた時、背後の曇りガラスの戸を隔てた脱衣所から、慎重な足音が聞こえてきた。


「あの、祐介さん。湯加減はどうですか?」


 戸の向こうで立ち止まった靄のかかったシルエットが下手に尋ねてくる。口調からしてパシフィーだろう。


「良好だ。気持ちいい」

「そうですか。よかったです」


 パシフィーはほっとしたような声を漏らした。

 湯沸かしの時に手違いでもあったのか?

 今のところは入浴してて問題もなかったから、心配いらないと思うけどな。

 俺が一人で納得していると、パシフィーのシルエットは戸から離れて、脱衣所から出ていく足音が遠のいていく。

 身体を洗うのを再開しようと洗剤の泡が乗った右手を左腕に当てた時、急に脱衣所の方から入り乱れた足音が響いてきた。


 なんだ、人数が多いぞ?


 訳がわからず手が止まっていると、戸の向こうに複数のシルエットが立った。


 みんなして、なんだろう?


「祐介さん、お邪魔します」


 は?

 妙に嬉々としたパシフィーの声がすると、この後の展開を予測しようとする俺を無視して、ゆっくりと戸が開かれる。


「ちょっ、まっ」


 俺は慌てて桶の縁にかけてあったタオルを手に取り、入ってくる四人に見られたくない部分をタオルを腰に巻くことで隠した。とはいえ、少し下がったら見えてしまいそうだ。


「突然、ごめんなさい」


 謝る気もなさげに謝るパシフィーの声に振り向く。

 浴場に入ったすぐのところでパシフィーとシェルがいて、二人の左右にメリアとペテシアが立っている。

 彼女たちの全身が目に入った瞬間、羞恥が脊髄を貫いた。

 大判タオルが彼女たちの優美な姿態を締め付けるように巻かれていて、胸元から股下までを覆っているだけだ。


「な、なんでそんな恰好?」

「ふふっ。ここはお風呂ですから。着衣したままじゃまずいですよ」


 口元に手を当てて小さく笑いながら、パシフィーは気にかけた風もなく答える。

 服を着たままではまずい、とか問題はそこじゃないような。


「そもそも、どうして入ってきた?」

「お礼がしたかったんです」

「お礼?」

「はい。前にお出掛けさせてくれたことへのお礼です」


 そういえば。四人それぞれが好きであろう場所へ、自己判断で連れていったな。

 なるほど、この状況はその時の礼だと。

 って、納得してる場合じゃない!


「お礼してくれるのは嬉しいけど、お礼の仕方が違くないか?」


 出て行ってほしい旨を暗に含ませて、俺は言葉を返した

 するとパシフィーは頬をほんのりと赤らめて、上目遣いに見つめてくる。


「仕方とか様式とかは気にしません。私達の感謝の思いが伝わればいいんです」


 少しは気にしてくれ。お礼がしたいなら、せめて相手の気持ちに配慮しような。

 と、心の中で突っ込む。

 口に出したらすごく申し訳なくされそうで、そんな顔を見てしまうと、こっちが悪いことした気分になっちゃうかも。

 キツく拒絶できない自分が恨めしい。


「それで……お礼って何をするつもりなんだ?」

「さあ、なんでしょうね?」


 質問する俺に、パシフィーはおどけたように首を傾げた。

 先程まで俺が座っていたシャワーチェアーを指さす。


「とりあえず、椅子に座っててください」

「わかった」


 俺は説得を諦めて、言われた通りに四人へ背中が向くようにチェストに腰かける。

 なんだろう。背中を洗ってくれる、とか?


「ちょっとだけ待っててください。私達は身体を温めてきますから」

 パシフィーは微笑んでそう言うと、手近にあった桶を掴んで浴槽へ足を向けた。

 後に続くようにして、メリア、ペテシア、シェルも桶を手にして、浴槽に歩み寄る。


何をする気だ?


 俺が疑問に思っている間に、四人は浴槽に張られた湯を桶で掬い、桶を肩の上まで持ち上げた。

そのまま桶を傾けて、タオル一枚の身体に肩から湯を浴びる。


「あー、温かい」


 メリアが心地よさげな声を漏らす。

 ポやポタ水滴を落とす湯が染み込んだ白地のタオルが、彼女たちの穢れない肌へ吸い付いて、それぞれに異なった曲線美が露になる。

 特にペテシアなんて、パシフィーには劣るが想像していた以上に胸部にボリュームがある。

 D以上にしか懐かない虎吉が懐くのも、なんか判るような気がする。


「鼻の下伸ばして……気持ちワル」


 ペテシアの艶姿に釘付けになっていた俺を、眉根を顰めたメリアが忌憚なく罵った。

 そういうメリアだって上半身の迫力は物足りないが、腰から爪先までの脚線が目が覚めるほどに美しい。

 ――なんで俺、講評してるんだろう?


「ユウスケを悪く言うことないと思うぞ、メリア」


 シェルがニヤリと笑って、俺を庇うように言う。

 おおっ、シェルが優しい。


「さっきメリアの脚をガン見してたからな」


 全然、優しくなかった。

 シェルの言葉を聞いたメリアは、俺でもわかるほどに顔を赤くし、タオルの裾を無理矢理に下へ引っ張って俺を睨む。

 そんなことしても、ほとんど意味ないような。

 俺が困惑と気恥ずかしさを覚えて四人を眺めていると、パシフィーがはにかむように控えめに挙手した。


「祐介さんの背中を、私に洗わせてください」


 やっぱり。椅子に座らせられた時点で、ちょっぴり予想してた。

 俺が嫌な顔をしなかったからか、パシフィーが喜悦の浮かぶ表情で、俺の背中側へ回ってくる。


「私は頭」


 パシフィーに倣うように、ペテシアが微かに口元を緩ませて言った。


「じゃあ、あたし右腕!」


 張り合う勢いでメリアが声を上げる。


「ワタシは残った左腕でいいぞ」


 シェルまで便乗する。


 身体の部位四カ所を同時に洗われる、というのは、一体どんな気分なんだ?


 状況を頭の中で想像すると、瞬く間に焦りを覚えた。

 パシフィーが背中、ペテシアが頭、メリアが右腕、シェルが左腕を洗う。となれば俺は身動きが取れなくなる。

 さらには肘を曲げたままで手の届く範囲に、タオル一枚を身につけただけの艶麗な女体が四人分あるわけだ。


 吸血する際に密着するのに少しは慣れたとはいえ毎度緊張しているのに、一気に裸に近い状態の四人と密着するのはハードル高くないか?


 二人なら大丈夫か、とかそういう問題でもないし。

 脳内の渦巻くような焦燥で、是非の判断もなく逃げるという選択をして、腰を上げ――


「立ち上がっちゃダメですよ。洗いにくいじゃないですか」


 優しい声音で言うパシフィーに、背後から両肩に手を置いて押しとどめられた。

 退路が断たれた!


「やるからには綺麗にする」


 左横に立つペテシアが、抑えつけるように俺の頭に掌を載せてくる。

 彼女たちが満足して洗い終わる前に、俺は浴場の室温以外の理由でのぼせてしまうかもしれん。


「あんまり長く洗ってると、祐介がのぼせるわよ」


 メリアが俺の右腕を下から支えるように掴むと、パシフィーとペテシアに注意する口調で言った。


「そうなんですか、祐介さん?」


 パシフィーが俺に確かめるように訊く。

 どれぐらいの時間でのぼせるか、自分の身体なのに俺にもわからないんだよな。

 のぼせそうになるほど長い時間、暑い所に留まったことないし。


「大丈夫。私達の血盟者は簡単にのぼせるほど弱くない」


 請け合うような口ぶりでペテシアが言う。

 信頼されてるみたいで悪い気分じゃないけど、素直にのぼせたと申告しにくくなるじゃないか。

 少しげんなりする俺の意思に寄らず、四人は洗うと取り決めた俺の身体の部位をボディソープをつけた手で擦りはじめた。

 ちょっと腕を動かしただけで、四人の誰かの柔肌に当たってしまいそうで、容易に身じろぎもできない。

 坐像のような気分で、俺は四人の手に洗われるに任せた。

 しばらくすると、背中を洗う手が止まる。


「痒いところはないですか?」

「特には」


 パシフィー問いに、俺はすげなく返答した。

 早くこの状況から逃れたいのに、わざわざ追加注文するかい。


「そうですか。残念です」


 パシフィーの声があきらかに落ち込む。

 ごめんなパシフィー、ほんとに痒いところないんだ。むしろ君達のお礼のせいで、男としての心がむず痒くなってきてるよ。


「……物足りません」


 呟くようにパシフィーがか細い声を出す。


「背中を洗ってあげるだけじゃ、感謝の気持ちが伝えきれてません」

「充分、伝わってるよ」

「祐介さんは優しいから、そうやって遠慮するんです」


 遠慮してるっていうか、これ以上のことされたら、お礼の範囲を超えると言いますか、男としての抑制が保てなくなると言いますか。

 頭の中で言い訳じみた考えを巡らせていると、背中に妙に柔らかく弾力のあるものが押し付けられる。


 まままま、まさか。パシフィーの巨乳?


 動揺を必死に隠していると、首の後ろから両腕が回ってきて、何をされるのか推測できないうちに抱擁された。


「祐介さん……」


 突然に抱きつかれて驚き竦む俺の耳に、パシフィーの切なげな声が聞こえる。


「私達のところに来てくれて、ありがとうございます。大好きです」


 一瞬で邪な気持ちが消えていく。

 なんでだろう。感謝されているはずなのに、どういたしましての一言すら口から出てこない。

 感謝を素直に受け入れていないのか?


「私も同じ気持ち。大好き」


 横からペテシアの静かな声がすると、頭を包まれるようにして抱擁された。

 急に増えた柔らかな感触に、忘れていた背中に押し付けられた双丘を思い出す。


 ななななななな、なんだ? これってお礼だよな? お礼にしては過激ではないか? 

 ああっ、でも。得も言われぬこの弾力と柔らかさ。しかしあえて例えるなら、パシフィーは餅みたいで、ペテシアは白玉団子――


「鼻の下を伸ばすなっ!」

「いてぇ」


 突如、右腕に刺されたような痛みが襲う。

 目を怒らせたメリアが、俺の右腕に爪を突き立てていた。

 痛みに呻いた俺の声にはっと驚いたパシフィーとペテシアが、身を引くように抱擁を解いた。

 役得による温もりが消えていくのを感じていると、場の空気が急に白ける。

 目の前には俺の右腕に爪を立てたまま、憤怒で眦を吊り上げているメリアの姿がある。


「ほんっとにあり得ない!」


 メリアの怒声が唐突に訪れた沈黙を破る。


「パシフィーもペテシアも二人揃って、祐介に抱き着いて」

「ごめんなさい、リアちゃん。でも私は……」


 パシフィーが泣きそうな声を出す。


「言い訳なんて聞きたく……」

「私は自分の気持ちに素直になっただけ」


 訳を話そうとするパシフィーに被せようとしたメリアを遮って、ペテシアが泰然として言い切った。


「な、なによ。開き直るの?」

「素直になれないあなたに言われたくない」

「うっ」


 抗弁しがたく顔を歪めて、メリアが押し黙った。

 仮借ないペテシアの言い返しに、メリアの赤い瞳に悔しさが色濃く宿っている。

 思いも寄らない急に生じた険悪な展開に、俺は口を挟む余裕もない。


「ユウスケ」


 左方向からしたシェルの声に、俺はそちらを振り向く。


「聞かない方がいいぞ」


 厳しい顔つきで言われて、両手で挟まれるようにして耳を覆われた。


「祐介に――したら、今までの関係――じゃない」


 メリアが苛立った表情でペテシアに言い返しているが、塞がれた耳では明瞭に聞き取れない。

 シェルがメリアに向かって、小声で宥めるように何事かを伝えた。

 メリアは口を閉じると、憤懣を無理に押し込めた瞳で俺を凝視する。

 何だ、と目顔で俺は問いかけたが、避けるように逸らされてしまった。

 どうやら、怒りの端緒は俺にもあるらしい。

 タイルの壁に顔を向けたまま、メリアの口が動く。

 多分、部屋に戻ると告げたのだろう。ペテシアと和解した様子もないまま、メリアは一度もこちらを振り返らずに浴場から出ていった。

 脱衣所のドアにメリアのシルエットが見えなくなると、ようやく塞がれていた耳からシェルが手を退ける。


「会話が聞こえてなかったっか?」

「あ、ああ」


 耳を覆われてからは何を話しているのか表情で推測するぐらいしかできなかった

 祐介に――したら、今までの関係――じゃない、とメリアは口にしていた。

 聞き取れた部分だけで考えるに、俺が四人に何かをすると今までの関係に変化が出る、みたいなことだろう。


「祐介さん、血が出てます」


 メリアの言葉に考えを巡らしていると、パシフィーが戸惑ったように口を開ける。

 え、血?


「鼻です。鼻から出てます」


 パシフィーの声に教えられる形で、慌てて出血した部位に手を被せた。

 掌から漏れた赤い血が、腕を伝っていく。

 うわ、ほんとだ。鼻から血が出てる。


「のぼせたかな。ワタシらが途中から来て長居したからな」


 笑った顔をしつつも少しすまなさそうにシェルが言った。

 そのことは別に構わないんだけど、止まるかな鼻血?


「戻ろう」


 ペテシアが唐突に提案して、パシフィーとシェルを見る。

 三人は頷き合って、揃って俺に顔を向けた。


「私達は先に上がりますね」

「邪魔した。ごめん」

「くれぐれも吸血前に倒れるなよ」


 三人は気遣うように俺に言葉を掛けると、胸元でタオルを手で押さえながら浴場から歩き去った。

 三人が脱衣所からいなくなったら、俺も上がることにしよう。

 シャワーから冷水を出して桶に溜め、頭から被った。

 四人がいた時の騒がしさとともに、身体の火照りが潮引くように抜けていった。

 ああ、鼻血が止まらん。

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