夜のデートに連れて行きます2
パシフィーを猫喫茶に連れて行った夜から、一週間が過ぎた。
あの夜にパシフィーの愛猫となった虎吉は、メリアの話に聞くにどさくさに飼い主へ助平な行動を取っているらしいが、概ね大人しく暮らしている。
「先週、猫を抱いて帰ってきたのには驚いた」
ほんとに驚いたとは思えない無感動な口調で、隣を歩くペテシアが言った。
今夜はペテシアを連れ出してきた。
ペテシアは黒い生地に桃色と海色の花を点々とあしらったシックなワンピースに身を包んでいる。
「あの猫、たまに私にも飛び掛かってくる」
「そうなのか。怪我とかしてないか?」
「うん」
こくんと頷いた。
虎吉は巨乳の飼い主だけでは飽き足らず、ペテシアにまで手を出しているらしい。
「それで」
少し下から覗き込む位置から、ペテシアは俺の目を見る。
「どこ行くの?」
「本がたくさんあるところ」
俺は若干だが抽象的に答えた。
ペテシアは疑問符が浮かんだような顔になる。
「たくさん本のあるところ?」
「そう。色々あるだろ?」
「書店?」
違う? と問うような目を向けてくる。
「なるほど。そう来たか」
「外れてる?」
「さあ、どうだろうな。着いてから知ればいい」
答えをわざと持ち越してやった。
ペテシアがよく見ないとわからないぐらいに頬を膨らませる。
「教えてくれてもいいと思う」
「まあ、こっちにも都合があるからな」
都合とはすごく個人的な興味で、ペテシアの驚く顔が見てみたいだけだ。
しばらく歩くと、目的地に到着する。
「ペテシア、ここだ」
俺は斜め前に聳える建造物を指差す。
「勾玉?」
目を凝らして建造物を捉えたペテシアが、ぼそりと呟いた。
そう思うのも仕方ない。俺が連れてきたのは勾玉をアーチのように立たせたような流線型の外観をした奇抜な市営図書館だ。これでも近辺では蔵書数の一番多い図書館だ。
別にペテシアに俺はこんな前衛的な建築が好みなんだ、と披歴したいわけじゃない。
「ここって。勾玉の専門書物を蒐集した建物?」
「違う違う。これでも図書館だ」
というか、勾玉の本を蒐集って物好きだな。勾玉の本って世にどれほどの数があるんだ、そんなにないだろ。
「図書館。知ってる」
「そうなのか。じゃあそんな驚かないかな」
それは残念だ。
「屋敷の図書室で『図書館の戦前史』を読んだから、知ってる」
あの邸宅にはマニアックな本が多いな。
「白黒だけど写真付きで、著者の文体が平易で読み応え抜群」
「その本のことは措いといて、中に入ろう」
しかつめらしく書評しているところ悪いが、閉館までにそう時間の余裕はない。
俺が先導する形でガラスの自動ドアを抜けると、一目では見きれないほどに広いエントランスと左右には整然と並べられた本棚の光景は視界に飛び込んでくる。
ペテシアの方を窺うと、彼女は大きく目を開いて辺りを見回している。
「本がいっぱい」
「だろ」
「多すぎて何がどこにあるのか見当もつかない」
「とりあえず、中を見て回るか」
「そうする」
俺の提案にペテシアは頷いた
近くに置かれた案内板を見て、一般向け書籍と示された通路を歩き出す。通路沿いの本棚は作者の五十音順になっていて、進むほど五十音を下っていくらしい。
三歩ほど歩いたところで、ペテシアが足を止め本棚に顔を近づけた。
指先で肩をつついてくる。
「どうした?」
「この本、見て」
本棚の中段の一冊を指さす。
どれどれ、どんな本だ?
俺はペテシアの指さす本の題名を見る。
越後の足労 青山浩二
「読んだことあるのか」
「ない」
「読みたいか?」
「別に」
「そうか」
読みたいわけでもないのに、どうして足を止めたんだろう。
釈然としないが、なんでも話したがる性格じゃないから詮索はすまい。
「先、進んで」
無表情のペテシアの方から促されて、俺は再び歩き出す。
お互いに時々立ち止まって、気になった本を手に取ったり質問し合ったりしながら通路を進んでいく。
作者の頭文字が『た』のエリアまで来て、ペテシアがまたしても本棚に顔を近づけて歩みを止めた。
肩をつついてくる。
「今度はどんな本だ?」
「ここ」
肩をつついた指を離して、本棚の下段に空いた一冊分の隙間に指を向ける。
「本がない」
「さっき男の人が借りてったよ」
「その人、どこ」
「あそこにいる」
隣接した読書スペースの奥に座った、スポーツシャツの男性に顔を向ける。
男性は本に目を落としていて、俺とペテシアには気づいていない様子だ。
ペテシアも俺が示した男性の方に目を振り向けた。
「どこ、いない」
「テーブルの奥にいるよ」
顔を判別できないほど遠い距離ではない。俺の伝達力不足なのか男性の姿が見つからないようだ。
「ほら、あの水色のスポーツシャツを着た男性だ」
「わからない」
ペテシアは瞼が閉じそうなぐらいに凝らした目をきょろきょろと動かしている。
まさか、ペテシアって。
「ペテシアってもしかして近眼?」
「近眼じゃない。ぼやぼやしてて遠く鮮明に見えないだけ」
「近眼なんだな」
吸血鬼といえば人間離れして視力が優れているイメージがあるが、どうやらペテシアは俺が裸眼で見える範囲すら可視できないほどの近眼らしい。
視力の悪い吸血鬼って、吸血鬼として大丈夫なんだろうか。
「なんの本なのか気になる」
そう言ってペテシアは腰を上げると、躊躇うもなく読書スペースの方向へ歩き出した。
見当はずれな人に話しかけてはマズいと思い、俺は後に着いていく。
ペテシアは読書スペースの手前まで来て、件の男性を指し示す。
「あの人?」
「指さすなよ。失礼だろ」
疑問符が浮かんだ様子でペテシアが首を傾げる。
「なんで失礼?」
「なんでと言われても俺も詳しく説明できないが、とにかく人に指を差すのは礼に欠ける行為なんだよ」
「勉強になった」
口元を緩ませて、納得したように頷いた。
案外、ペテシアは常識を知らないのかもしれない。
俺とペテシアの会話が聞こえたのか、男性が本を閉じて席を立ちこちらに近付いてきていた。
「席、譲りましょうか?」
男性は俺とペテシアを交互に見ながら、物腰低くに伺ってきた。
先程まで男性が座っていた席の周りには人がおらず、カップルの密やかな談話をするには適している。
「いえ、席を探しているわけじゃ……」
「その本、見せて」
気遣いある男性の申し出を遠慮しようとした俺の返事は、真っ先に口を切ったペテシアにかき消された。
「この本、ですか?」
「そう」
「いいですよ」
男性は礼儀知らずのペテシアに優しく受け答えして、どうぞと持っていた単行本を差し出した
小声でありがとうと返したペテシアは、本を大事そうに両手で受け取る。
「その本、お探しでしたか?」
「どんな本か気になってた」
「そうなんですか。僕は暇つぶしみたいなものなので、他の本でもいいんですよ。その本はどうぞ」
遠慮はしなくていいと暗に男性は告げると、会釈をして通路の方へ歩いていった。
男性の姿が見えなくなると、ペテシアは俺に振り向く。
「いい人だった」
「そうだな。しかし、もしも偏屈な人だったら突っかかってきたかもしれないからな、やたら知らない人に話しかけるなよ」
俺以外の人前で吸血鬼の正体を露顕させるわけにはいかないのだ。吸血鬼だと見抜かれることはなかれ、露顕すれば奇異な目は避けられない。
「たしかに。君の言うことに一理ある」
「たしかに、じゃないよ。気を付けてくれよ」
「ごめん」
普段、感情の出にくいペテシアの顔があからさまにシュンとなる。
「それで、その本はどういう題名だ?」
彼女の暗い顔は見たくないので、俺はペテシアの持つ本に話題を移した。
ペテシアの顔がいつもの無表情に戻り、単行本に目を向ける。
「蠅男」
「は?」
「題名。蠅男」
「ああ、そういうことか」
突然、蠅男と言われて、何のことかさっぱりわからなかった。
怪奇な題名もあるもんだ。
「ちなみに作者は、うんのじゅうざ」
「誰だ?」
「私も知らない」
俺より比べるべくもなく多く読んできたペテシアが知らないとは。それほどメジャーな作家ではないのかもしれない。
「この本、今から読んでいい?」
「いちいち俺に許可とらなくてもいいぞ。閉館まで好きに過ごせばいい」
ペテシアがここで読書したいなら、俺はペテシアの見える位置で邪魔しないように時間を潰すだけだ。
俺の言葉にペテシアは頷くと、男性が座っていた椅子の隣席に腰を落ち着け、テーブルの上で単行本を開いた。
さて、俺は通路の本棚で当てもなく物色しますか。
「待って」
テーブルを離れかけた俺に、ペテシアの声が呼び止めた。
「どうした?」
尋ねた途端、ペテシアが視線を逸らすように足元に目を落とした。
「頼みがあるなら聞くぞ?」
「一緒に……」
落としていた目を思い切ったように上向けた。
「一緒に読みたい」
抜き打ちな上目遣いにどきりとして、俺は返事に困った。
「……いい?」
せがむ声音を出して見つめてくる。
「一人の方が捗るだろ。ましてや俺はペテシアの読むスピードについていけない」
「読むスピードは君に合わせる。それに」
「それに?」
「大切な人と同じ時間と共有してみたかったから」
恥ずかしさの中に切実さを包含した表情で、ペテシアは言い切った。
大切な人、というワードに心臓が飛び出るかと思うほどに意表を衝かれたが、恋愛感情ではなく、必要不可欠な存在だと解釈してみると腑に落ちた。
「一緒に読むのは俺以外じゃダメなのか?」
そう尋ねると、ペテシアは顔を綻ばせた。
「ダメ」
「そうか」
何故ダメなのか、わざわざ理由を問うのはやめよう。
現在のこの世で、唯一の盟約者であり唯一信用できる相手、とかそんな理由が妥当だろう。
それ以上の感情を持たせるほど、特別に何かをしてあげたわけじゃないからな。
「じゃあ、隣座るぞ」
俺は断りを入れてから、隣の席に座りペテシアの方へ椅子を寄せた。
ペテシアは俺から視線を外して単行本に目を戻す。
俺は単行本を隣から覗き込んだ。
出来過ぎた偶然だ。冒頭三行目にこう書かれている。
只われわれは、よもやそういう奇怪きわまる生物が、身辺近くに生息していようなどとは、夢にも知らなかったばかりだった。
ちらりと隣を窺う。
無表情そうに見えるペテシアの顔に、微かに浮かんでいる口元の笑みが、いかにも楽しげだ。
そんな笑みを浮かべている彼女のどこを見たら、奇怪きわまる生物だと言えるのだろう。
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