けっして猫は悪くないんだ
俺の体調を気遣いながら吸血を済ませたパシフィーが、膝頭を突き出した女の子座りで俺の前にへたりこんだ。
「祐介さんの血は美味しすぎます」
憎くない瞳で見つめてくる。
血にも美味しい不味いがあるらしく、どうやら俺の血は美味しいらしい。
とはいえ、人に自慢できることではない。仮に俺の血は美味しいと自慢したところで、クラスメイトどころか学校中の人から白い目で見られる。
「祐介さん、普段どんな生活してますか?」
俄かに知りたそうな目をして、パシフィーが質問したてくる。
俺の血の味と関係するのか?
「平日なら朝起きて、学校行って、授業受けて、学校から帰宅して、家で過ごすなりバイトするなり、まあ答える価値もないな」
いざ訊かれて自分の生活を振り返ってみると、部活とか恋愛とか青春と呼べる出来事がひとつもない。濱田の馬鹿話を聞いてる場合じゃないかも。
それでも母が死んでしまい、青春イベントに打ち込む心の余裕もないけどな。
「もっと詳しく教えてください。食事とか」
「食事、どうしてまた?」
「血の美味しい理由がわかるかもしれません」
突き止めたいと言いたげに微笑んで、真っすぐに視線を向けてくる。
俺の食事と居住環境か。どうだったかな?
「朝は日曜に買い溜めたパンで、昼は購買のパンで、夜は簡単な料理だが自炊してバランスよく食べてるつもりだ」
「さすが弥生さんの息子です。自炊なんてしっかりしてます」
「そ、そうか?」
自炊なんて母が死んでから始めたので料理の腕前は素人だ。人に食べさせる味に至っていない。
「祐介さんの血が美味しいのは食事のおかげだと思ってたんですけど、やっぱり若さなんですかね?」
パシフィーは不思議そうに首を傾げる。
見た目女子高生みたいなメリアが135歳だ。メリアより大人っぽいパシフィーなんてそれよりか年長だろう。
気になるから訊いてみよう。
「ちなみに、なんだが?」
「はい?」
「答えたくないなら答えなくていい。パシフィーは今何歳だ?」
「えっと、ちょっと待ってください」
頭の中で年齢を数えているのか、斜め上に目線を上げる。
「あー、たしか百五十六歳だったと思います」
意外にさらりと答えてくれる。
百五十六年前といえば、ええと、……西暦一八六四年か?
ギリギリ江戸時代じゃねえか!
「今私の事、こやつ江戸時代から生きてる吸血鬼じゃ、って思いました?」
図星だ。口調はそんな大時代じゃないけどな。
俺が口に出さない突っ込みをしているとは知らないであろうパシフィーは、ふふっと楽しそうに笑う。
「残念ですけど、私は江戸時代を知りません」
「どういうことだ?」
「なぜなら、英国生まれ英国育ちだからです。江戸時代の日本にはいませんでした」
一八〇〇年代後半のイギリスって、何があるんだ、阿片か?
縁もゆかりもない薬物を思い浮かべかけたが、でもと続けるパシフィーに意識を戻し俺は耳を傾けた。
「英国で私が住んでたお家は蝙蝠ばかりがいっぱいいました。蝙蝠なんてどこがいいんですかね」
脈絡も関係なく理解ならないという口調で不平を垂れる。
実物の蝙蝠なんて見たことない俺には、良いも悪いも判断つかない。ぼんやりと洞窟にでもいるんだろうな、と想像するぐらいが可能な限りだ。
「あんなおぞましい生き物をどうして家に住み着かせて、さらには眷属なんだと従えてるんですか。私には納得できません」
「俺にそう言われてもな。眷属なんて持ったことないし」
「蝙蝠なんかより、猫さんの方がずっとずっと可愛いです!」
世界の大問題でも訴えかけるような目顔でパシフィーは言い放った。
猫さん、か。
愛くるしい生き物をさん付けする人は、丸くて小さい物やぬいぐるみなどが大抵好きな印象がある……そういえばパシフィーは人間ではなく吸血鬼か。
となると、俺の勝手なイメージには当てはまらないのかもしれない。
「猫さんはバタバタと翼で飛ばないでしょうし、キィーなんてつんざく音を出すとも思えません」
「翼で飛んで変な音を出さない生き物は、他にもたくさんいるだろ。どうして猫がいいんだ?」
俺が訪ねた途端に、パシフィーの顔がとろけるように笑い崩れた。
「猫さんは毛並みは柔らかそうですし、身体はしなやかそうですし、もう可愛い要素がいっぱいです」
「可愛い要素がいっぱい、か。パシフィーはよほど猫が好きなんだな」
「はい。猫さんが好きですよ」
満ち満ちた表情でパシフィーは頷いた。
しかし、なんだろう。
猫が好きというわりには、猫を語る口調が断定ではなく憶測ばかりだ。
「なあ、一つ聞いていいか?」
この疑問を直接確かめてみよう。
「なんですか?」
「もしかして、パシフィーは実際の猫を見たことも触ったこともないんじゃないか?」
訊いた途端、パシフィーの顔から笑顔が消えた。
悲哀を含んだ瞳で見つめてくる。
「そう見えますか?」
「猫について話してる内容が憶測ばっかりだったからな。訊いちゃマズかったか?」
別に悪気があったわけじゃない。幻滅するなら幻滅してくれていい。
だけど、悲しそうな顔されたら気になっちゃうだろ。
パシフィーは気にしないでというように首を横に振る。
「訊かれたらマズイってことはないですよ」
「そうか」
「でも、ストレートに訊いてくるなんて思ってなかったですから、返事に困っちゃったんですよ」
「ごめんな。答えづらいこと訊いちゃって」
「いいんですよ。猫さんを触ったことないのは本当ですから」
そう言ったパシフィーの瞳が暗く沈む。
「ほとんどってことは、実際は少し違うのか?」
「はい。百年以上前の英国に居た頃から猫は見たことあるんです。でも触れないんです」
「どうしてだ。アレルギーか?」
「違います。私が吸血鬼だから、猫の方が怯えて逃げちゃうんです」
なるほど。そりゃ猫だって命は惜しいだろうから、相手が吸血鬼となれば逃げるだろう。
猫を非難することができないから、猫を好きになってしまったことを不運だと思うしかない。
「でも大丈夫です」
パシフィーの瞳の悲しみが薄くなり、口元が苦笑の形になる。
「たまにですけど、弥生さんが猫の写真がたくさん載った本を買ってきてくれましたからそれがあれば充分です」
充分と言いながらも、パシフィーの表情は晴れ切っていない。
少しでもパシフィーの悲しみを埋めようとしていた理解者である母がいなくった傷は大きい。
息子である俺が代わりに何かしてあげられるかな?
母の話題になったことで、突如俺とパシフィーの間に沈黙が流れた。
パシフィーが部屋の壁時計に目を遣る。
「もうそろそろ時間ですね」
「まだ五分あるぞ?」
「シェルちゃんが来ちゃますから、私は部屋に帰ります」
シェルが来るまではここで話していてもいいのだが、パシフィーは腰を上げてドアに歩み寄った。
「今日もありがとうございます」
微笑んで俺に礼を言うと、パシフィーはドアの外に出て去っていった。
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