どうして襲われなければならない!1

 起きれる?

 起きれるなら、早くして。

 そう囁きかける声に、俺は薄目を開けた。


「早く起きないと、爪を立てた指でその瞼をこじあけるわよ」


 声の主は脅す調子で俺に起きるよう促す。

 眼球に指が入るぐらいなら目覚める方がマシだと思い、薄目にしていた目を思い切り開いて上体を起こす――。


「なんだ。突、ぜぇん」


 起きようという途端に鳩尾の上あたりを押されて、背中が床に戻され出そうとしていた声が濁る。

 薄暗い中でぼんやりと目に入るクリーム色の天井に、女の顔が重なる。

 ショートカットの赤い髪、負けん気の強そうな切れ長の目。

 一般的に考えれば、端正の部類に入るであろう覗き込んでくる女の顔は、面倒事をしているみたいに眉間が寄っていた。


「大きな声出さないで。他の子に勘付かれると一番美味しいところ取られちゃうから」

「はあ?」


 俺はあらゆる疑問を含んだ呻きを返す。

 目の前の女は一体、何者で、俺をどうしようというのだろう。

 おそらく彼女の言う他の子が近くにいないか気配を確かめるように、赤髪の女は俺から顔を逸らした。

 しばらくして俺に顔を戻す。


「ねえ。今からやることはちょっと痛いかも知れないから、あんたは歯を食いしばってたほうがいいわよ」

「何を言ってる。今からやることってなんだ?」

「それを知る権利はあんたにはない」


 そう言いきって、女は俺の腹に馬乗りになる。

 おいおい、この女は何を始める気だ。

 女の瞳が血のような赤に怪しく光る。


「これで逃げらんないわね。大人しくあたしの晩餐になりなさい」


 今、晩餐って言ったか。俺はこの女に食べられるのか。

 多分晩餐っていうのは隠語で、命を戴くとかそういうことだろう。

 母から託された土地を訪ねたら変な女に殺されました、で人生終われるか。


「くそっ、どけ」


 どちらかといえば自由に動く下半身を、俺はじたばたと暴れさせた。

 俺が恐怖に身じろぎも出来ないと油断していたのか、女はぐらりと身体を左に傾けて手を床に着つく。


「ちょっと。暴れないでよ」

「俺はまだ死にたくないんだ!」


 死の淵にある人質みたいな台詞を吐いて、床についた女の手首を掴み、外側へ押しのける。

 女が体勢を崩し、俺の腹を挟んでいた膝の力が緩む。

 その隙をついて、俺は思いっきり反対側へ身を捻った。

 身を捻った俺の勢いに女の右ひざが床を離れ、女が横ざまに倒れる。


 女が起き上がる前に、部屋の隅にあるドアへ俺はまっしぐらに駆け出した。

 ドアを開け部屋の外へ飛び出すと、同じく照明が薄暗いレッドカーペットの敷かれた廊下だった。

 左右どちらに逃げようかと判断する余裕もなく、右方へ足を向ける。

 そして走り出そうとした直後、右方の数歩先から人影が近づいていることに気付かず、慌てて足に制動をかけた。

 人影の方も俺を見るなり、ぎょっとして歩みを止めた。

 飛び出してきた部屋のドアが、蝶番をきしませながらバタリと閉まる。


「ぶつかりそうでしたね。ごめんなさい」


 人影はたおやかな声で詫びてきた。

 その姿をまじまじと目にして、俺は息を呑む。

 砂金のような艶やかな亜麻色の長髪、慈母のように柔和な目。

 豊満な胸を締め付ける臙脂色のニットセーターに、それと対照的な裾の広がった白のフレアスカートをに身に着ている。女性は微笑んだ。


「何かありましたか?」

「ええ、まあ。さっき赤い髪の女に襲われそうになって」


 女性の美貌に見惚れて、聞かれるまま答えてしまった。

 立ち話している場合ではない。

 出てきたドアの内側から、地団太を踏むような足音が聞こえてくる。

 焦燥する俺の手を、なんの前触れもなく女性が掴んだ。


「こっちです」


 どぎまぎする俺に構わず、女性は俺を引っ張って速足で歩き出した。


「どこに行くんだ?」

「さっきの女の人が入ってこられない場所です」


 自分の状況を理解しきれていない俺の問いに、楚々と答える。

 俺の手を引っ張るこの女性は、赤髪の女から助けくれるらしい。

 誘引されるまま左右に分岐した突き当りを二回ぐらい左に曲がったところで、女性が足を止めた。


「ここなら大丈夫ですよ」


 女性が足を止めたのは、赤い髪の女のいた部屋のドアとさしたる違いもないドアの前。


「さあ、中へ入ってください」


 女性はドアを開けると、見た目以上に機敏な動きで俺の後ろに回り、背中を押して室内に導いた。

 知らない建物内で襲ってくる赤髪から逃げ回るより、助けてくれるという女性に従う方が賢明だろう。

 室内に入ると廊下よりも薄暗く、暗さに慣れてきたとはいえ視界が悪い。

 女性が後ろ手にドアを閉め、部屋の奥を指さす。


「追っ手がいなくなるまで、あそこのベッドで寛いでいてください」


 柔らかい声で勧められるが、部屋の暗さでベッドの正確な位置がわからない。


「すまないが、照明をつけてくれないか?」

「何を言ってるんですか。ここの部屋に電気は通ってません」


 電気が通ってないとは、人類文明から隔絶した生活でもしてるのか。

 いやでも、ベッドがある時点で文明を謳歌してるか。

 慢性的に停電でもしてるのだろう、と納得して俺は、手探りで慎重に女性の指さした方向に足を進ませる。

 背後のドアの方で、女性が重く大きな物をずるような音がしているのが気になるが、大方赤髪の女が侵入してくるのは防ぐためだろう。  

 暗さで視界の悪いはずなのにきびきびしてるな。

 そう感心していると、右掌にシーツらしき感触が当たる。

 縦横に掌を動かして、シーツの領域を確かめて腰を降ろした。


「もう安心していいですよ」


 うわっ。

 ドアの閉塞が終わったのか女性の声がすると、次の瞬間に眼前の薄闇を割って忽然と姿を現した。

やっと話ができると言うように柔らかく頬を綻ばす。

 部屋が薄暗いとは、至近距離だと女性の表情もよくわかる。


「ここなら追っ手は近づけませんから、しばらくこの部屋で過ごしててくださいね」

「ありがとうございます」


 素直にありがたい。赤髪に捕まったら殺されるからな。

 でも、どうして女性は赤髪の事を知ってるんだろう?

 安堵を得た俺の頭に、放置されていた疑問がふと浮かんでくる。


「ところで、赤い髪の女とは知り合いなんですか?」


 何も知らずに俺を匿ったってことはないだろう。

 ふふっ、と女性は口に手を添えて上品に笑う。


「知り合いと言えば、そうです。でも現在はいざこざがあって敵対してるんです」

「聞いていいかどうかわからないですけど、いざこざって?」

「答えてもいいんですけど、今の状況になってはいざこざもなくなりました」


 今の状況というのは、俺を匿っていること、だろうか?

 原因はなんであれ、いざこざがなくなったのだから、詮索するのも失礼かもな。


「次はこちらから質問していいですか?」


 女性が俺を見つめて、小首を傾げる。


「いいよ」


 俺が頷きを返すと、女性は花が咲いたように相好を崩した。


「いいんですね。それではお聞きします」

「なんだ?」

「とりあえず。あなたの後ろにあるクッションを取ってください」


 女性の頼みに、俺は背後に首を振る。

 ベッドの端にピンク色の四角いクッションが立て掛けてあった。


「これですか?」


 腕を伸ばしてクッションを手に掴み、女性の方にクッションを近付ける。

 そうです、と女性の返事が耳に入った直後、両肩にふんわりと手を置かれた。


 ドキッとして女性に顔を戻す。

 目の前に女性の艶やかな相貌が迫っていた。

 慌てて顔の距離をとろうとしたが、両肩に置かれていた女性の手に力が入り、自重でのしかかってくる。


 女性の顔から目が離せないまま、俺はふかふかのベッドの上に押し倒された。

 俺の胴腹にのしかかる女性の瞳が、薄暗闇で琥珀色に光る。

 先刻の赤髪の女の瞳が脳裏をよぎる。この女性の瞳は、あの女と同質の怪しい光を宿している。


「あなたの活力を分けてください」


 渇望するように嫣然と女性の口が開いた。

 開いた口には今まで気が付かなかった鋭い八重歯が生えている。


「ちょっ、やめろ」


 俺はベッドに両腕の肘をつき、上体を起こそうとする。

 しかし豹変した女性に豊かな双丘を押し付けられ、上体を起こしそこなった。


「大丈夫ですよ。少し痛いのを我慢していただければ済みますから」


 大丈夫なもんか。痛いとわかってて受け入れる奴がいるか。

 それに何をされるのか想像できない分、恐怖しかない。

 胸の柔らかさを堪能している余裕もなく、女性から逃れられるならと俺は動ける限りに全身を動かした。

 だがベッドの伸縮性に振動を吸収され、思うように女性の体勢を崩せない。


「抵抗されることも考えてあなたをベッドに誘導したんです。大人しく吸われた方が身のためですから」

「嫌だぁ!」


 俺はなおも四肢をじたばたと暴れさせた。抵抗が功を奏しないと告げられていても、恐怖に対する本能が身体を動かしていた。

 猟奇的な赤い髪の女に襲われ、そこから助けてくれると思った亜麻色の髪の女性に凌辱される。

 母が遺した土地に来て、そんな事態になるなど想像できるはずもない。


 俺の抵抗もむなしく段々と女性の顔が目と鼻の先まで接近し、熱を持った女性の息遣いが頬を掠る。

 パコーン――。

 身を委ねるしかないのかと諦めて身体の力を抜こうとした時、ふいに軽快な打音が響いた。次の瞬間、女性が横殴りにバランスを崩してベッドから転がり落ちる。


「……」

「おい」


 突然の出来事に言語を失していると、横から巻き舌の声がかけられた。

 声の方を振り向くと、薄暗闇に銀鼠色の瞳とかち合った。

 膝上まであるダボダボのTシャツを着たツインテールの少女が、女性を張り倒したのであろう枕を手に持って、まじまじと俺を凝視している。


「今度はなんだ?」

「パシフィーに襲われてるところ助けてやったんだぞ。礼ぐらいあってもいいだろ?」


 礼儀知らずを指摘するような少女の声音。

 息もつかせぬ状況の変転に戸惑いが消えない俺は、軽く頭だけ下げる。


「その人は、渡さないわ……」


 ベッドの下から聞こえる悔し気な声の方を見ると、ベッドから転がり落ちた女性が知らないうちに起き上がっており、恨めしい視線を少女に向けている。

 女性と目を合わせた少女が、俺の腕を掴んだ。


「逃げるぞ」


 そう言って素早く俺の手首に縄らしきものを括りつけると、小さい身を反転させ、ベッドを挟んだ側にある窓へと駆け出した。

 次の瞬間、手首を結ばれた方の肩が外れるかと思うほどの膂力で引っ張られる。

 少女の出していい力ではない。

 俺を縄で引っ張って走る少女が、窓のある壁際で跳び上がった。

 は?

 走る勢いのまま少女は窓枠の上の縁に両手をかけてぶら下がり、窓ガラスの中心目掛けて華奢な足を突き出す。


 パリィィィィン!


 窓ガラスが少女の足で蹴り割られて、外側に向かって粉砕した。そして人が一人通れるか否かの穴が空く。


 はぁ?

 アクション映画のワンシーンでも観ているようようだ。

 これは現実なのか?


「跳べ!」


 少女が巻き舌で叫んだ。

 その声が俺に向けられたものと気が付くよりも先に、足が地面を蹴っていた。

 ガラス窓の破砕口に吸い込まれるように、窓の外へ連れ去られた。

 理解が追いつかない急展開に、金髪の女性の臍を噛むような視線を背に感じながら、俺の意識はふっ飛んだ。

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