idealens (短編)
うちやまだあつろう
idealens
喧しい目覚まし時計を叩き落すと、僕は目を覚ました。眠い目を擦って枕元の白い箱を手に取ると、中に入っていたコンタクトレンズを装着した。
ようこそ
という無機質なメッセージと同時に、様々なアプリケーションが視界に現れる。僕は思わず目を瞑ると、ベッドの上で大きく伸びをした。
いつからだろうか。このカラフルな画面を見て頭を覚醒させるのが、すっかり日課になってしまった。
「……おはよう」
呟くと、視界の端にあったスケジュールのアプリが起動した。このアプリは、レンズによって記録された僕の生活から、自動的に予定を組んでくれる優れものだ。
目の前に白紙のスケジュール帳が表示される。分かってはいたが、今日の予定は無い。自由万歳。
僕は鼻歌混じりに洗面台へ向かうと、洗顔機に顔を突っ込んだ。
.
高機能コンタクトレンズ型端末、通称「idealens」。政府主導の下でこれが開発、販売されてから、世界は一変してしまった。
視力の補正はもちろん、視界をそのまま写真にしたり、ふと気になることを検索したり、通勤電車でプレゼンの資料を作ったり。とにかく、このコンタクトレンズさえ着ければ、手ぶらで大体の事はできるようになってしまったのだ。
その利便性と、国からの補助金によって可能となった価格の低さで、もはや一人一台は当たり前になってしまっている。
僕もこれを買ってから、人生がやけに効率的に、上手く回っているような気がしていた。これさえ着けていれば安心して自由に生活することができるのだ。もはやレンズなしの世界など考えたくも無い。
ぼんやりとしながらトーストを食べていると、視界に小さな黒い点が見えた。羽虫かと思って叩くが、手の平に死骸は無い。どうやら逃がしてしまったらしい。
ため息をつきながら再びトーストを齧ると、ふとテレビのコマーシャルが目に入ってきた。最近になって新たに建てられた国立美術館だ。コマーシャルの効果なのか、入場者数は右肩上がりらしい。
どうせ予定も無いことだし、たまには芸術に心打たれるのも悪くは無いだろう。
これは父親から聞いた話だが、今から数十年前、つまり例のレンズが開発される以前は、平日に美術館などへ行く余裕は無かったのだそうだ。僕たちの世代が余裕を持って自由を謳歌できるのも、このレンズのお陰という訳である。
僕は財布だけ持つと玄関を出た。すると、ちょうど同じタイミングで隣家の扉が開く。
「おはようございます。」
「あ、どうも。」
僕は少し照れながら会釈した。
ここは僕の勤めている会社の社員寮。顔を出したのは隣に住む同僚の女性だ。
何を隠そう、僕はこの女性に対して、少なからず好意を抱いている。きっかけは何だったのかは忘れてしまったが、気付いた時には彼女の事を目で追っていたのだ。
何たる偶然。しかし、これはチャンスだ。小さな視線の動きで右下のアプリを立ち上げる。すると、視界の端に小さなメモが現れた。タイトルは「デートに誘うセリフ」。
これは以前作成した、彼女と会った時用のメモである。混乱した頭でも会話ができる様に、予め台詞を用意しているのだ。
「あ、あの、いい天気ですね……」
「は、はい、そうですね……」
「そういえば、近くの美術館、ご存じですか。あの、最近できた……」
「あ、はい。知ってます。あの……、国立の……」
「それです。実は今からそこに行くんですけど、……良ければお茶でもしながら、ご一緒にどうですか」
いざ言ってみると、用意するまでも無い台詞だったような気がする。少し反省していると、彼女は少しうつむき加減にして言った。
「す、すいません。実はこれから仕事なんです。」
「あ……。そうなんですか」
「で、でも! また今度、いや、来週末! 必ず行きましょ!」
彼女は力強く言うと、小さく手を振りながら会社に向かって行った。
今回こそはフラれたが、この別れ方だと次回は上手く行きそうな気がする。彼女も僕に対して悪い印象は抱いて無さそうだ。
僕はスケジュールアプリを開き、来週末の予定に「デート」と書き込まれたのを確認すると、上機嫌で社員寮を後にした。
駅までの道のりで、ふと一人の路上パフォーマーを見かけた。黒いシルクハットに黒の燕尾服、彼の手には白い手袋がはめられている。一目でマジシャンだと分かった。
彼は右手でコインを一枚とると、素早く右手を振った。そして、その手で握った左手を叩くと、大げさな演技で左手を開いて見せた。その掌の上にはコインが乗っている。また、右手の方へ視線を移すと、コインは既に消えてしまっていた。
コインの瞬間移動マジックである。観客からはどよめきと拍手が送られた。
「馬鹿馬鹿しい……」
観客たちとは対照的に僕は冷めた声で呟くと、その場から立ち去った。
あのマジックの種はミスディレクション、要は視線誘導だ。
手を振る速い動きや、大げさな演技で視線を誘導し、その隙にコインを出し入れする。それさえ分かっていれば、誰にでも見破れる簡単なマジックだ。
観客たちを鼻で笑って駅へ向かおうとした僕だったが、ふと立ち止まって振り返った。純粋な目でマジックを見つめる人々の顔が目に入る。
もしも、僕が視線誘導について知らなければ、彼らと同じようにマジックを楽しめていたのだろう。昔は僕もマジシャンに憧れて、よく練習したものだ。そして、親に披露して褒められて嬉しかったことを、昨日のことのように覚えている。
だが、一度マジックを見る側から抜け出してしまうと、見る目が変わってしまう。種や仕掛けに目が行ってしまい、純粋に楽しめなくなってしまう。知ることは、必ずしも良い事ばかりではない。
果たしてどちらが幸せなのだろうか。
答えは未だに分からない。
駅へ辿り着くと、僕は時刻表アプリを開いた。歩きながら横目に次の電車の時刻を確認する。
そのとき、不注意で人とぶつかってしまった。
「あぁ、すいません」
僕は慌てて謝ると、ぶつかってしまった御爺さんの体を起こした。
「お怪我はありませんか?」
「いえいえ。大丈夫です。こちらこそ、ぶつかってしまってすみません」
言葉通り、彼はしゃんとした姿勢で立ち上がると、深く頭を下げた。僕も慌てて頭を下げる。
すると、彼は手で辺りを探りながら僕に言った。
「すみませんが、この辺りに杖は落ちてませんか。白の細い杖です」
「白い杖?」
僕は足元に落ちていた杖に気付くと、彼に渡した。彼は静かな声で礼を言うと、それで地面をコツコツと叩きながら歩き始めた。その仕草を見て、そこで初めて彼が盲目であることに気付いた。
「あの、どちらまで行かれるんですか? 一緒に行きますよ」
「これは、これは。ですが、お時間大丈夫ですか?」
「大丈夫です。今日は特に予定も無いので。」
再び笑顔で頭を下げる彼に、僕も笑うと時刻表アプリを閉じた。
しばらく二人で歩いたところで、僕は聞きたかったことを聞いてみた。
「あの、どうして目を入れないんですか?」
昔に比べて医療技術が発達した現代では、『動く義手』や『見える義眼』が開発されている。加えて、これらには国民健康保険が適用されるために、比較的安価で手に入れることができる。
そのおかげで、身体的なハンディキャップの多くは着実に無くなりつつあるのだ。
このお爺さんも、そこまで貧乏には見えない。だが、彼は義眼を付けずに盲目のままで生活しているのだ。このままでは当然Idealensも着けることができず、僕では考えられないような生活をしているに違いない。
「目が見えないと不自由じゃありませんか? 義眼を入れればIdealensも着けられますし、人生がより豊かになると思うんです。」
僕が言うと、彼はにっこりと笑って答えた。
「だが、この不自由さのお陰で、君のような親切な青年に出会えた。こうして楽しいお喋りもできた。私の人生は十分満たされているよ。不自由なことは決して豊かでないとは限らないんだ。」
彼は「それに」と付け足す。
「目が見えないからこそ、見えてくるものだってあるのさ。」
ちょうど目的地に着いた。礼を言う彼に僕は答えると、空を見上げた。レンズ越しに見えた空は、これ以上ないほど青かった。
電車に揺られていると、小さな黒い点が目の前を横切った。思わず目で追うと、その先にあった車内ディスプレイでニュースが流れていた。どうやら政府の財政対策によって景気が大幅に上がったらしい。その割には実感がないのだが。
すると、また小さな黒い点が視界を横切った。思わず目で追いかけたが、ふと我に返った。
近頃、良いニュースばかりが目に入るような気がする。良いことだけというのは確かに理想的な世界だが、良いことばかりというのも違和感がある。
また視界を黒い点が横切った。目で追った先にある窓の向こうでは、僕が働いている会社が見えた。僕の視線は、自然と三階へと向かう。すると、会社の窓から隣に住む彼女が見えた。
僕はそこで急に不安になり、視線を背けた。そして、恐る恐るIdealensを外すと、それを観察した。
透明なレンズの上で、目に見えないほどの小さな黒点が動いている。
僕は冷や汗をかきながらそれを地面に落とすと、ゆっくりと踏みつぶした。
idealens (短編) うちやまだあつろう @uchi-atsu
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