2011秋

『ミヨジ! まずい、まずいぞ!』

 工場に龍が飛んできた。あの震災から半年以上が経った秋のある日のことだった。私は43歳になっていた。

 龍の大声で工場周り一帯は禍々しい暗雲に覆われ、雷が鳴り、強い雨が降り出した。

 私は事務室を出、廊下の隅の窓の前に立った。知り合って10年、私をつがいにしたいと言い続ける龍がそこにいた。

「職場に来るってことは相当ですね。どうしましたか」

『山が死ぬ!!』

「え!?」

 山……龍神会若頭の山村のことを、この龍は山と呼ぶ。山村は龍の預言を重宝し、私のことも重用する、我々にとってはかなり貴重な人材だ。それが、死ぬ?

「急にそんな……なんでです。健康診断も問題なかったって言ってましたよ」

『書き換えがおこなわれたんだ、むこうで』

「どこ? 書き換え?」

 何を言っているのかまったく理解できない。ただ、龍がひどく焦っていることだけは伝わってきた。雨脚はどんどん強くなる。彼が口を開くたびに大きな雷が落ちた。

『閻魔』

 龍が唸った。これ以上もないほどに憎々しげな声音だった。

「閻魔様……? 実在するんですか!?」

『さまなんて言わなくていい、持ち回りの役職だ』

「はあ」

『生者と死者の比率がわるくなった。それで、予定でないやつが、外道から順にむこうに行くことになった』

「……地震と関係ありますか」

『ない。そもそも比率なんてここ100年ずっとくるっている。閻魔め。山が邪魔になったからって』

 おずおずと尋ねる私に龍は即答し、それから強い口調で私怨を述べた。地獄の閻魔と龍のあいだには何か因縁があるのだろうか。私には分からない。

「外道から順にというなら……藤野さんは?」

『おれも藤を先にしてほしかった。だが閻魔はおれたちの言うことなど聞かん。嫌がることをする』

 龍は怒っていたし、焦っていた。それに悔しがっていた。私は途方に暮れることしかできない。

「山村さんはいつ亡くなるんです」

『年が変わる前に。おまえたちは巫子ではない人間の葬儀を出すことになる』

「……」

『親分の代替わりが近かろう。まずいな』

 そう、まずい。龍神会の現組長である横野よこのは今年に入ってからずっと病床に臥しており、医者の見立てでももう長くはないという話だった。山村は次期組長の第一候補なのだが、その彼に急死の予定が立ったとなると。

『藤がたててる男がいるな』

阿藤あとうさん……」

 山村と同世代の幹部、阿藤は藤野の兄貴分であり、跡目争いでは山村に敗れている。だが、山村が死ぬとなれば話は別だ。

 藤野も阿藤も、龍の預言を信じていない。年末年始の儀式もやめたいと思っている側の人間だ。彼らに上に立たれるのは、まずい。

 預言を山村に伝えるようになって10年が経つが、その期間に私と藤野の関係は冷えに冷えた。そもそも藤野は生来のやくざではない私を軽蔑しているし、嫌っている。私も藤野のようなタイプは大嫌いだ。平たく言って相性が悪い。その藤野と、阿藤が龍神会のトップに立つとなると……。

『ミヨジ』

「はい」

『あと10年耐えられるか』

「……何に、です?」

『山が親分になれば10年なんてすぐだった。だが藤はおまえを傷つけて、くるしめようとするだろう。おれもできるだけちからを貸すが、どうなるか』

「本題から言ってください。10年後に何が起きるんです?」

 龍が、ヒュッと息を吸った。

『ミヨジ、おまえは10年後に死ぬ』

「は……!?」

『閻魔のところで見てきた。あと10年。あと10年で人間としてのおまえは終わる』

 それは……、

「私は……生きていたくないと、あれほど、何度も」

『おれがおまえを食ってやれればいちばんよかった。でもなミヨジ、おれに食われるとたましいが壊れる。かんぜんに消えてしまうんだよ』

 年内に山村が死ぬ。おそらく組長の横野も死ぬ。跡目は阿藤が継ぐ。藤野が若頭になり、組の方針は大きく変わるだろう。阿藤も藤野も敵対組織との殺し合いを厭わないタイプのやくざだ。今までのように違法薬物と拳銃の密売で細々とやっていくことはできなくなる。彼らは縄張りを広げるために関西の東條組とうじょうぐみ、東京の玄國会げんこくかいに戦争を仕掛けるに違いない。龍の預言など無視して。

「私は……」

『ミヨジ、自死もいけない。自死したたましいは閻魔のふところに入る。おれには手出しができなくなる』

「どう、すれば」

 生き延びろ、と龍は言った。私の体はちいさく震えていた。恐ろしかった。これ以上やくざの世界に浸りたくない。人を殺すのも殺されるのも嫌だ。嫌だ。

『俺を使え。俺は見えるかぎりすべての未来をおまえに伝える。山が斃れても、藤がなにをたくらんでも、絶対に生かす。あと10年。寿命が尽きたそのときに』

 そのときに、と龍は笑った。以前見た、夜空を引き裂く笑顔だった。

『おまえのたましいを閻魔よりさきにつかまえて、連れていく。おまえはおれのつがいになる』

「……まだそんなこと言ってるの?」

 ようやく手段を見つけたということか。えらく頑なな相手に愛されてしまったものだ。だが、思わず笑いをこぼしたことで、この先に待ち受けているすべての災いへの恐怖が少し減った。私にはこの龍がいる。この龍は龍神会の守り神では最早ない。私の龍だ。私を守るために存在する、神にも等しい存在だ。


 翌月、11月、山村が心筋梗塞を起こして急死した。直後、闘病中だった組長横野も右腕の後を追うように逝去した。年末、大々的に葬儀が行われた。


 2012年1月1日、恒例の儀式とともに阿藤の組長襲名式が行われた。私のお猪口の中に注がれた日本酒は、鮮血の色で輝いていた。

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