2001夏
夏。
私の、龍に対する怒りはだいぶ薄れていた。というか純粋に仕事の量が増えて、龍に立腹している場合ではなくなったのだ。8月の半ば、世は盆休みだろうが私たちは違う。定時いっぱい社員を働かせて、私は21時頃まで残業をして、工場の事務室で煙草を吸っていた。
『ミヨジ』
声がした。龍だ。
『外に出てみろ。綺麗だぞ』
久々の雑談だなと思いながら、咥え煙草で工場の屋上に出た。西の空に花火が上がっていた。あっちは……荒川か。今日は花火大会の日だったのか。
『綺麗だな』
「そうですね」
紫煙を吐きながら空を見上げる。花火も美しかったが、闇夜に伸び伸びと身体を伸ばす龍も実に綺麗だった。彼の全体像を、私はその夜初めて見た。
思っていたよりずっと大きかった。それに、思っていた【龍】とは少し異なるようにも感じられた。体をくねらせて空を舞う浮世絵の龍ではない。中国にいるらしい龍とも違うし、西洋のドラゴンでもない。深い青と緑と紫色が混ざり合った鱗が、花火がひとつ上がるたびにキラキラと光った。琥珀と深緑の目が私を見下ろしていた。
『まだ怒ってるか?』
「べつに」
『ほんとうに?』
「……あなたには分からないかもしれないけど、私、ほんとにあんまり若くないんですよ。だからひとつのことにずっと怒り続ける元気がないんです。仕事も意味分からんぐらい忙しいし、年末のことはもういいです。許します」
早口で言った。次に会ったら伝えようと決めていた言葉だったので、淀みなくすらすらと音にすることができた。龍は、そう、と呟いて暫し黙った。
花火が上がる。ナイアガラだ。綺麗だなぁ、と思いながら眺め、作業着のポケットから煙草を取り出し100円ライターで火を点ける。
『ミヨジ』
「はい」
『おれはな……おれの一族の中では、あまり年をとってない』
急に何を言い出すのかと思った。あまり年を取ってない? 若手ってこと? 明治時代から生きてるのに?
『それから、人間を食べるのも別に好きじゃない』
次々に告白されて、一瞬目眩がした。何を言ってるんだ、この、龍は。
「でも、食べてましたよね……?」
『そういう作法なんだ。そうした方が外道どもはおれをこわがるだろう?』
「はあ……」
『そもそも連中、昔は外道じゃなかった。やしろの者どもだった。村を栄えさせるためにおれたちに生け贄を差し出していたのが、いつの間にかこうなった』
龍を崇める宗教団体か何かが時を経て暴力団に変貌したということか。そんな状態なのにきちんと儀式に付き合い預言まで寄越すこの龍は、律儀というか、なんというか。
「男性を巫子に選ぶのはどうしてですか?」
『おんなを食う同胞はやまほどいる』
「違いを出したかったってこと?」
『そう』
「そうかぁ……」
うん、たしかに、この龍は若手なのかもしれない。龍の平均年齢など知らないから、会話をしている中での印象だけど。
『ミヨジ』
「はいはい」
『おれのつがいにならないか』
「は」
つがい……番……配偶者という意味か、と当たりを付けた。唐突すぎるとは思わなかった。この龍は以前から私のことが好きだと言っていた。
コンクリートの床に煙草を落として踏み消し、私は少し笑った。
「綺麗な龍のお嫁さんをもらいなさいよ」
『ミヨジがいい。ミヨジ、おまえは、うつくしい』
「うつくしい?」
何を馬鹿なことを言っているんだ。私は、野添ミヨジは、どこからどう見ても工場勤務のふつうのおじさんだ。今年の秋には35歳になる。しかもやくざに生活を管理されていて、自分の思い通りに生きることも死ぬこともできない。
『前の年に出会った時からおもっていた。おまえは……』
「いやそれは明治時代からずっとやくざにばっかり関わり合っていて、人を見る目が曇ってるだけですよ」
龍の言葉を遮り、めちゃくちゃな早口で言った。これ以上歯の浮くような台詞を聞いていられない。
『おまえはかがみを見たことがないのか?』
「毎日見てるよ。髭剃るし」
『それなのに、おれの言っていることがわからないのか?』
全然分からん。
龍と私は暫し見詰め合い……いや、睨み合った。どちらも一歩も譲る気がない、訳の分からない意地の張り合いだった。
「……ていうか」
結局、譲ったのは私の方だった。花火はもう終わってしまったけど、龍の鱗の輝きで屋上は夕暮れのような明るさだった。
「人間の私を配偶者にする方法なんてあるんですか? 無理では?」
『さがしているが、まだ見つからない』
「ほらぁ」
分かった、分かった、この龍は本当に若いのだ。それで、龍神会以外の世界を知らないのだ。だから私のような、もともとやくざではないのにこちら側に引き摺り込まれてしまった人間をうっかり見初めて「うつくしい」とか言ってしまう。悪い人間に騙されないか心配だ。
「やめましょ、この話」
『なぜ?』
「不毛です。私はあなたの配偶者になれない。だって人間だから」
『……手段があれば、なるか、おれのつがいに』
つくづく往生際の悪い龍だ。
「何を言わせたいんです」
『おれはおまえを好いている。おまえは?』
半年間めちゃくちゃ激怒して必要最低限の会話以外はしなかった相手にいきなり問うことではない。それとも彼ぐらい長く生きていると、人間の半年なんて昨日から今日に変わった程度の認識なのだろうか。有り得るな。
『ミヨジ』
「私はね、人間が嫌いです。特にやくざが大嫌いです。だから、やくざよりは、あなたの方が好きですよ。少しだけの差ですけどね」
秋。
私は35歳になった。
山村は龍の預言を重宝するタイプの人間で、巫子である私もそれなりに大切にされた。有り体に言うと出世した。仕事も増えたし、全然嬉しくなかった。野添ミヨジという人間がどんどんやくざに染まっていく。嫌すぎる。だが、山村の庇護下にいるのは気楽で良かった。彼は頻繁に龍の機嫌を窺った。自分にも龍が見えれば良いのにと悔しがりさえした。係を交代したいと切実に思った。
『山はなぁ』
アパートの窓辺で、龍は嘆息した。
『おれにはいい顔をするが、外道だ』
「やくざですからね」
『あいつがうめた人間のかずを知ったら、ミヨジ、おまえ卒倒するぞ』
「知りたくないです」
でもまあ、と私の髪を爪の先で撫でながら龍は笑った。
『藤よりはずっといい。はやく山が親分になるといいな。そうすればおまえはもっとえらくなれる』
「なりたくないです」
龍は相変わらず、私をつがいにする方法を探して飛び回っているようだった。私は別に了承していないのに。
思えば、その頃の私たちはひどく穏やかな時間を過ごしていた。
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