2000夏
例年の龍は敵対組織からのカチコミや警察のガサ入れの予定なんかを中心に預言していたらしい。だが、私に対しては違う。桜の開花日とか、海開きに相応しい日とか、花火大会の日には雨が降るとか、そういう雑談めいた預言を山ほど寄越した。私はそれらの預言を組織の人間に伝えなかった。そもそも望まれていない情報だろうし、なんだか勿体ない気がして。
『ミヨジのかいしゃがなくなっていちねん経つな』
「そういうのも知ってるんですね」
『巫子のことはだいたい分かる』
そういえばそうだ、そろそろ1年が経過する。私の人生が龍神会に乗っ取られたのは、去年の7月半ばのことだった。
エアコンのない部屋は寝苦しく、全開にした窓にぶら下げた風鈴をぼんやり眺めて夜を過ごしていたら、龍が来た。
『お、風鈴』
「そういうのは知ってるんですね」
『風が要るか?』
「あったら嬉しいなぁ。今夜は少し暑すぎやしませんか?」
『おれはもっと暑いばしょでくらしてる。ここはすずしい』
フーンそんなもんですかねと私は適当に答えた。龍の私生活について踏み込むつもりはない。
窓辺に半身を預けて目を閉じていると、やがて初夏には相応しくない風が吹き始めた。龍の所業だ。この快適さが失われないうちに、布団に戻って寝ないと……。
『ここにいろ、ミヨジ』
「へ……?」
『ねむるおまえが見たい。ここでねむれ』
「こんなとこに座って寝たら体痛くなっちゃうから嫌です。私、もう若くないんですよ」
秋には34歳になる。腰だって毎日痛いし、殴られた傷はなかなか治らない。龍には分からないのかもしれないが。
『わからん』
「でしょうね」
『ミヨジ』
ぬう、と闇の中からつやつやの爪が現れた。もう慣れたものだ。
『手の上にこい』
「え?」
でも、このパターンは初めてだ。眠気も忘れて両眼を瞬かせる私に、龍がにんまりと笑った。月も星もない夜の闇が、笑みの形に引き裂かれていた。
『悪夢はおれが食ってやる』
「……そういうのも食べるんですか」
私が、夜毎ありとあらゆる種類の悪夢に苦しめられていることもこの龍にはお見通しなのだ。もうなんだか隠し事をすること自体が馬鹿馬鹿しくなってきた。
「優しいですね。今までの巫子全部にこうやって親切にしたんですか?」
思わず口を突いて出た皮肉に、龍は珍しく鼻白んだ顔をした。顔全体は見えなかったが、雰囲気で分かった。
『なんだと?』
「……あー。いや、すみません」
『もういちど言ってみろ』
「あの、撤回します、ごめんなさい」
『てっかい? させない。弁明しろ』
龍の口調は厳しかった。怒気をはらんでいるというよりは、本当に心外だとでも言いたげな響きだった。私はどうやら、神にも等しい生き物を傷付けてしまったらしい。
「ごめんなさい……」
『ごめんなさいだけか? なっとくできない』
「……私の会社のこととか、悪夢のこととか、ほんとに良く知ってらっしゃるから。ほかの人にもそうやって、優しくして、最後は食べるのを繰り返していたのかなって」
邪推です、と小さく付け足した。
『邪推』
「そうです」
『なぜ?』
「いや、なぜって」
そんなこと訊かれても困る。でも返事をしないとこの龍は朝になっても帰らないだろう。
「や……やきもち」
『ヤキモチ?』
「たぶん、やきもちです、今までの巫子がみんなあなたにこんな風に優しくされていたのかと思うと……」
私は何を言っているんだ。相手は龍だ。神だ。人間の価値観なんて屑みたいなものだろう。そんな相手に大真面目にこんなことを言って、どうしようっていうんだ。
つやつやの爪に手を触れ、それからそっと頬擦りをした。
私だって私が何を考えているのかまったく分からないのだけど、もしかしてこの龍になら分かるのだろうか。
『……ミヨジはいつもかしこいのに時々おろかだ。ここにこい。もう寝るじかんだろう』
龍が大きく手を広げた。指が六本あることに今日初めて気付く。ぺしゃんこの枕を引っ掴み、窓枠を乗り越えて私は龍の手の中に入った。彼が少し力を込めれば、私の体などぐしゃぐしゃに潰れてしまうだろう。
『ミヨジ。おろかなミヨジ。俺はおまえがいとしいよ』
思っていたよりずっと柔らかい龍の手の上で体を丸める私に、龍がぽつりと呟いた。私は、内心酷く戸惑い、困惑し、結局聴こえなかったふりをした。
『寝たのか、ミヨジ。……赤子のようだな、おまえは』
そう、私は赤子のようにぐっすり寝ている。だから今しがたのあなたの言葉は、私には届いていない。
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