2000冬〜春
龍は二週に一度のペースで預言を寄越した。初対面の時のようにアパートにやって来ることもあれば、仕事中に突然言葉だけを与えることもある。龍にはなんでもできるのだ。神様みたいな存在なのかも知れない。
私は、龍の預言を逐一組織に報告した。それが仕事なのだ。おもに幹部の藤野に伝えることが多かった。
ある時、藤野がぽつりと呟いた。
「多いな」
「え?」
冬が終わり、世間の空気が春めいてきた頃だった。私は花粉症の気があるのでマスクをしていた。藤野は黒縁の眼鏡をくいと上げ、回数が多い、と少し大きめの声で言った。
「それは……預言の、ということですか」
「そうだ。おまえ、適当なことを言ってるんじゃないだろうな?」
ひどい言いがかりだと思った。私は龍の預言を聞き、違法薬物の加工場で働き、それ以外に組から命じられた雑務をすべてこなした。やりたくなかったが人を殴ったり蹴ったりする加害行為にも加担した。それなのに、こんなことを言われるなんて。
藤野は私と同世代で、恐らくこの先この世界で出世していくのだろうなという気配を纏った男だった。私よりも頭ひとつ分長身で、しなやかな鞭のような体付きをしている。きっと、人を殺したこともあるのだろう。
「……適当なことは言っていません」
結局、そんな風に答えることしかできなかった。藤野はああそうか分かったよと雑に応じ、野良犬でも追い払うかのように私を事務所から叩き出した。
とっくに失ったはずの自尊心が酷く傷付いているのに気付き、自宅に戻った私はひとりで泣いた。
『ミヨジ、どうした』
窓ガラスが揺れていた。花粉が部屋に入ってくるのは嫌だったけど、龍が来ているのだから仕方がない。涙を拭い、マスクをして、窓を開けた。
「どうもしてませんよ。あなたこそどうしたんですか」
『おまえが泣いているにおいがしたから、寄った』
そんなことまで匂いで分かるのか。少し恥ずかしい。
私は小さく頭を振り、なんでもありません、と呟いた。
『顔が見えない。ミヨジ』
マスクを外せということか。
「花粉症なんです、勘弁してください」
『花の粉がおまえになにをする』
いやだからその……龍にどう説明すればいいのか……。
「くしゃみが止まらなくなったり……鼻水も出てみっともないから……」
『おれの巫子をくるしめる花があるなら、根絶やしにしてこようか?』
めちゃくちゃ言うな、この龍。神様ぐらいに偉いのに。マスクの下で少し笑ったのは、すぐにバレてしまったらしい。見慣れた眼球がぐるりと回る。
『ミヨジ、おまえがおれ以外のものに苦しめられるのは心外だな』
龍が言う。至極真面目な声音で。
私は窓辺に腰を下ろし、苦しいですよ、と答えた。
「言ったでしょう。私はやくざになんてなりたくなかったんです」
『おまえはくすりを作っている』
「知ってるんですね。去年までは、あそこで缶詰を作ってたんですよ。魚の缶詰」
懐かしいな、大昔の話をしているようだ。すると龍が大きくため息を吐いて、部屋中がお香のような優しい匂いに包まれた。
『ミヨジ。もうかえれないのに』
「そうです……そう。帰れない。私はもうやくざになってしまった」
去年までの私はきっととても幸せだったのだ。その幸せを大切にしなかったから罰が当たった。
でもこの罰も年末には終わる。年末には、私は龍の生贄として人生を終えることができる。
『ミヨジ。ちがう。これは罰ではない』
「……心読めるんですか?」
『よめるが、よんでない。おまえはつらい顔をしているね。ミヨジ。おまえはおれの巫子だから、いいことを教えてあげる』
ひどく優しげな声で龍が言い、窓の端にきらきらと輝く何かが見えた。やわらかな曲線を描くそれは……爪だ。龍の爪だ。
龍の爪の先端が窓をこじ開けて私の部屋に入り込み、頬を優しく撫でた。他者にこんな風に優しく触れられるのはいったい何年ぶりだろう。
『明日、藤の息子が事故に遭う』
「えっ」
それは全然いいことではない。
『いつもとおらない道をとおるから、起きる。おまえが藤に教えてやるといい。あいつも二度と、おまえがでたらめを言ってるなんて言わなくなるだろうよ』
私は慌てて携帯電話に飛び付き、真夜中の2時に藤野に連絡を入れた。安眠を妨害された藤野は凄まじい勢いで私を罵ったが、翌日、実際に交通事故が起きた。藤野は私の忠告を聞き入れなかったのだ。
彼は私が事故が起きるように仕組んだのだと疑い、その日の夕方から夜にかけて、私は組員たちにひどく嬲られた。やっていないことをやったと言えと要求されるのは本当につらかったし、殴られ蹴られた体も痛んだ。結局、日付が変わる頃に意識を取り戻した藤野の息子が音楽を聴きながら自転車を漕いでいて信号無視をしてしまったと証言し、事態は収束した。私の無罪も証明されたが、藤野をはじめとする龍神会の面々が私に謝罪することはなかった。私も別にそれを期待してはいなかった。痛む体を引きずってアパートに戻ると、今日も龍がいた。巨大な蛇のような体がアパート全体をぐるりと巻き込むように包んでいた。ここに住んでいるのは龍神会に属する者ばかりだが、龍の姿が見えているのは私だけらしい。
『ミヨジ!?』
龍が雷鳴のような声で私を呼んだ。
『どうした、おまえ、そのきずは』
「預言を伝えたのですが、信じてもらえず……事故が起きてしまい、私が仕組んだのではないかと疑われて」
『藤か? あいつがおれの巫子をこんな目に?』
龍の両眼が真っ赤に染まっていることに気付いた。普段はあんなに穏やかな琥珀色の瞳孔が大きく開き、燃え盛る炎の色に染まっている。
『あいつを食おう。そうしよう』
「えっ」
『年末の馳走は藤だ。ゆるせぬ、ゆるせぬ』
「ま、」
待ってください、と私は龍の尾に縋った。尾ではなくても良かったのだが、近くにあるのが尾だったのだ。艶やかな鱗に包まれたそれに抱き付くようにして、私は腹から声を出した。
「駄目です。絶対に駄目です、藤野さんを食べるなんて」
『庇い立てするのか、藤を』
龍の眼差しが先ほどまでとはまた異なる色に燃える。怒りであることに変わりはないようだが。
『藤め。以前から気に食わなんだ。あれはおれを軽んじておる』
「待って、本当に……あなたが食べるのは私です! 絶対に私を食べてください!!」
ほとんど泣いているような声で私は叫んだ。年の瀬になれば龍に食ってもらえる。それは私に、人生の何もかもすべてを失ったこの私に残されたただひとつの希望だった。それを、藤野なんかに奪われるなんて!
「お願い……お願いです。あなたに食べられるためならなんでもします。あなたの巫子は藤野さんじゃなくて私でしょう?」
『……』
ミヨジ、と龍はちいさく呟いた。闇の中からぬうっと爪が伸びてきて、その先端が、散々に殴打された私の顔を、体を、おそろしいほど繊細な動きで撫でた。まるで、寝室で行われる愛撫のような所作だった。
『おまえはおかしな男だよ』
アパートの外に突っ立って大声で会話をしているというのに、部屋の中から誰かが出てくる気配もなければ、通行人のひとりも現れない。龍の存在によって作り出された異空間に取り込まれているような気持ちだった。
龍に撫でられるのは気持ち良かった。その爪の先から優しさのようなものを感じた。心身ともに疲れ果てている所為でそんな都合の良い感想を抱いてしまったのかもしれないけど。
『おれのミヨジ。あたらしい話を聞かせてあげる。でも、藤には伝えるな。ほかのやつがいいな』
爪に寄りかかるように立つ私の頭の上で龍が喋っている。急にひどい眠気に襲われた私は、
「山村さんはどうでしょう……彼も幹部ですし……」
『山? ああ、あいつか、あいつはいずれ外道の親分になる。ちょうどいいな。ミヨジはあたまがいい。あたまがいいやつは、好きだ、俺は』
好きだから、もう怪我をしてくれるなよ、と例の良い匂いとともに龍が囁いた。私はもう半分眠りながら首を縦に振った。怪我はしません。もう誰にも殴られません。私は龍の巫子だから。
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