阿呆の王

大塚

1999夏〜2000冬

 1999年の夏、私、野添のぞえミヨジは人生を失った。


 何がいけなかったのかは今でも分からない。知人の借金の連帯保証人になったのがいけなかったのか。人員補充のために雇った人間が実は暴力団の末端組員だと気付かなかったのが悪かったのか。それほどまでに私はぼんやりと生きていたのか。つまり、私という人間が存在するのが、悪だったのか。

 ともあれ、ある日突然私という人間と祖父の代から細やかに続いていた食品加工工場は、指定暴力団龍神会りゅうじんかいの持ち物になった。工場は違法薬物の加工場となり、私はそこの責任者となった。龍神会は毎月一定額の上納金を要求し、それが満たされない場合は私の身の回りのものを巻き上げられた。クルマ、住居、土地、その他金目のものはすべて。私はあっという間に丸裸にされ、嘗ては自分の城であった場所で違法薬物を作り続けた。幸いにも私には妻も子どももなく、両親も既に鬼籍に入っていたので、龍神会の奴隷になるのは私だけで済んだ。

 思えばなぜ自死を選ばなかったのか、今でも良く分からない。本能的なものだったのかもしれない。生きられるうちは生き続けたいという本能。愚かな話だ。


 龍神会には奇妙な風習があった。年末、大晦日に葬儀をひとつ行い、年明け、元旦に集会を行う。その両方に、組織に属する数百人の人間すべてが集まった。葬式を行った次の年に新年会を行うのはどうにもおかしな話だと思ったが、龍神会が発足した明治の年から変わらずに続く習慣なのだという。夏に組織に加わった私も、年末年始両方の儀式に参加するよう命じられた。葬式の際、棺の蓋は固く閉ざされたままだった。誰も涙を溢さず、どちらかといえば強ばった表情の者が多いのが印象に残った。すぐ翌日の元旦の儀式も妙だった。神棚のようなものを皆で半円の形をつくって囲み、組長が祝詞のようなものを読み上げる。龍がどうとかいう言葉が聞こえてきたが、龍神会を名乗っているのだから当然か、と私はいい加減に合点した。座布団の上に正座をしていたら、隣に座る組員からお猪口が回ってきた。ひとりひとつ持たされるらしい。次いで日本酒の瓶。手酌で注ぎ、更に隣の者に回すよう命じられた。何がなんだか分からないが、従うしかない。

 祝詞が終わり、組長と若頭、それに何人かの幹部が大きく手を打ち鳴らす。組員たちは微動だにしない。もちろん私も。


 沈黙があった。


「あっ」

 声を上げたのは、私の隣に座る組員だった。私の手の中のお猪口を指差している。

「こいつです!」

 私は驚き、お猪口の中を覗き込んだ。ほんの少しだけ注いだ日本酒が、無色透明だったはずの液体が、真っ赤に染まっていた。それは鮮血の色だった。

 その場の空気が和らぐのを感じた。しかしそれは決して優しい意味ではない。自分ではなかった、という安堵の空気だ。お猪口の中身をこの色に染めてはいけなかったのだ。

「野添」

 幹部のひとりである藤野とうのが私の名を呼んだ。

「今年はおまえだ。励めよ」

 その瞬間には意味が分からなかったが、日が落ちるとともに散会し、自らの住居(持ち家は既に巻き上げられていたので、組に宛てがわれたアパートで私は暮らしていた)に戻り就寝の支度を終えた頃に謎が解けた。


 窓から目玉が覗いていた。


 目玉が覗いていた、としか言い表しようがなかった。琥珀色の瞳孔に深緑の虹彩を持つ巨大な眼球が、闇夜を背に私を見詰めていた。

 私は悲鳴を上げた、と思う。良く覚えていない。化け物だ、と思った。霊感などは持ち合わせていない。怪奇現象を体験したこともない。その私の前に、なぜ、こんな。

『野添ミヨジ』

 目玉が呼んだ。

『おまえは不思議なにおいがするな』

 なんで私の名前を知っているんだ。においってなんだ。私はどう答えるべきなんだ。何も分からず茫然と敷布団の上に正座する私を見て、目玉はクツクツと笑った。

『おれだよ。おまえたちが崇めている、龍だ』

 龍が、自分を、龍と名乗った。めちゃくちゃだ。

 腰が抜けかけていた私はどうにか力を振り絞って立ち上がり、よろめくように窓辺に近付いた。目玉はまだ私を見ている。窓を少し開けた。お香のような匂いがした。

「龍……」

『応よ。今年はおまえだ。おまえに決めた』

 今日のあの儀式のことだと気付いた。お猪口を染める鮮血の赤。

「あなたの血だったんですか」

『そんなようなものよ。なあ、おまえは本当にあそこの人間か?』

 窓を全部開けた。眼球だけでなく瞼が見えた。青いような緑色のような不思議な色の鱗に囲まれている。とても大きな生き物がそこにいた。たしかに、いた。

「去年の……夏から……」

『ふうん? なぜ?』

「……わかりません」

 なぜとか言われてもすぐに答えられるはずがなかった。私だって私がどうしてこんなことになってしまったのか誰かに教えてほしいと思っているのに。

 目玉は、龍は、呵呵と笑った。

『わからないのにあの場にいたのか! 大損だなぁ』

「そうなんですか?」

『おまえはね、巫子に選ばれたんだよ、野添ミヨジ』

「みこ……?」

 巫女さんというとアレか、神社にいる、女性の。

『ちがう。おれはおとこを選ぶ。おまえは今日から一年間、おれの預言をあいつらに伝える。そういう係に選ばれた』

 どうやら話が見えてきた。私は、

「……外れ籤を引いたんですね?」

『そう、かな。そうだな。一年おれの言葉を聴いた巫子を、年の終わりにおれは食う。そういう習いだ』

 ああ、そうか。そういうことだったのか。大晦日の葬式、元旦の儀式、皆の安堵のため息、私を見る嘲りと同情の眼差し。すべて腑に落ちた。

「あなたは何を預言するんですか?」

『いろいろだ。龍神会は外道のあつまりだからな。あいつらが殺されない程度に、なんだ、助言? をする』

「なるほど」

『……野添ミヨジ、おまえは泣き叫ばないんだな』

 不意に、龍が意外そうな声を出した。窓から半身を突き出すようにしていた私は、少し笑った。

「いま食べていただいても構いませんよ」

『いま? なぜ?』

「私はやくざじゃないんです。……やくざになりたくなんかなかったんです」

 この半年のあいだに我が身に起こった出来事をぶち撒けたくなったが、やめた。初対面の龍にそんなことを話してどうなるっていうんだ。それより、最後はこの龍に食い殺されるという情報が得られたのが嬉しかった。望まぬ人生を長く生きなくて済む。

 龍は目玉をぐるりと回し、

『みょうな人間だ』

 と呟いた。

『まあいい。ひとつめ。この月の終わりに関西の外道が攻めてくるぞ。伝えておけ』

 カチコミがあるということだろうか。私は大きく肯いた。

「必ず伝えます。……あの」

『うん?』

 龍はこの場を去ろうとしていた。その大きな目玉に、鱗に、私は言った。

「年末、必ず食べてくれますか。約束してくれますか」

『人間と約束はしない。おまえたちは外道だからなぁ』

 龍はまた呵呵と笑って、消えた。

 そう、私たちは外道だ。龍と約束なんてできるはずない。


 それが私の、33歳の年明けだった。

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