第27話 さよならの代わりに
時刻は午後の三時過ぎ。神野グループの社長就任以降、方々への挨拶回りで日本のみならず世界中を飛び回る鞘は、その貴重な時間の合間を縫って俺の家を訪問してくれたらしい。
家の外には自動運転車、玄関前には2メートルを越す身長のボディーガードが三名と、お世辞にも落ち着けると言える環境ではないが、贅沢は言っていられない。なんせ、目の前にいるのは時給三億円のスーパーレディーだ。本来なら、俺みたいな木っ端のなんでも屋と会う道理なんてどこにもない。
ひとまず鞘をソファーに座らせ、とっておきの豆を使って珈琲を淹れる。ゲイシャ珈琲。華やかな香りと珈琲とは思えないような甘みを併せ持つ一品。四季の爺さんが好きだった味。
黒い液体をマグカップに注いだ俺は、それを鞘に「どうぞ」と手渡す。「どうも」とカップを受け取った鞘は、その香水のような香りを嗅いで柔らかく微笑んだ。もしかして、爺さんのことを思い出したのかな。
鞘はコーヒーを飲みながら「しかし」と切り出す。
「龍太郎さんとはじめて会ったあの時は半信半疑でしたよ。お爺さまが仰っていた助っ人が、こんな終始ふざけているような人でいいのか、と」
「ですが、ほんの少しくらいは社長の役に立てたでしょう?」
「謙遜した言い方をしないでください。龍太郎さんがすべての謎を解き、そしてあのような形で時間稼ぎをして兄の目を逸らしてくれていなければ、いま私はここにいません。ありがとうございます、龍太郎さん。それに――」
「それに?」
「敬語は止めてください。あなたの言葉を借りれば、背中がぞわぞわしてきます」
鞘の顔に険しさは無い。〝ゲーム〟をプレイしていた時とは大違いだ。きっとこちらが、彼女の本当の顔なんだろう。
「じゃ、遠慮なく」と敬語を投げ捨てた俺は、珈琲をすすりつつ胸の奥でずっと引っかかっていた疑問を吐き出す。
「ところで。俺、あのゲームでわからないことまだひとつだけあるんだよ」
「おや。謎は全て解いたと聞いていましたが」
「そのはずだったんだけどな……。でも、どうしてもわからないんだよ。あの爺さんが、こんな回りくどい方法で鞘に会社を継がせた理由が。もっとうまいやり方なんて、いくらだってあったはずだ。それこそ、俺なんか頼らなくても、鞘にこっそりあのゲームの答えを教えておけばそれで済んだわけなんだから」
「これは意外でしたね。そんなこともわからないのですか? 私としては、その点は最初に読み解いておくべきだったと思いますがね」
珈琲カップをテーブルに置いた鞘は、お決まりの探偵風ポーズで語り出す。
「たしかに、兄を納得させた上で私に会社を継がせる方法なんて、いくらだってあります。今回は最終的に対立という形になりましたが、共同経営という名目で実質的に私に経営権を握らせる方法だってあったわけです。それに、私や龍太郎さんがアレをクリアできない可能性だってあった。つまり、お爺さまがこんな〝ゲーム〟なんて作ってまで事を大々的にした理由はひとつだけ」
そこで一息ついた鞘は、穏やかな、それでいてどこか悔しそうな笑みを浮かべでこう言った。
「人生の最後に、龍太郎さんと本気で遊びたかったのではないでしょうか」
鞘の推理はまったくの当て推量。根拠なんてどこにもないし、〝真犯人〟である爺さんが既に死んでいる以上、答え合わせなんてできっこない。それでも、それでもどこか、「ああそうか」と納得できるところがあって、俺はただただ笑うことしかできなかった。
「……もしその推理が当たってるんだとしたら、死ぬ間際まで勝手な爺さんだったんだな」
「ですが、そこがお爺さまの人間的魅力です」
しみじみと呟いた鞘は、ふと「そうだ」と手を打ち、足元に置いていた紙袋をこちらへ差し出した。
「今日は世間話をしに来たわけではなかったんです。こちらを受け取ってください」
言われるままに受け取って袋の中身を見ると、豆腐みたいに分厚い札束がぎっしり詰まっている。「なんだ、こりゃ」という言葉が思わず口を突いて出た。
「今回の件の、私からの報酬です。本来、兄から払われるべきだった金額に色をつけておきました。現金派だと聞きましたのでこのような形ですが、やはり振り込みにしておくべきでしたか?」
「いや、こんなのは要らん。カネのためにやったわけじゃないからな。貰ったらバチが当たりそうだ」
「しかし、それでは私の気が済みません」
「そうか。なら、ほっぺにチューでもしてくれ」
眉をひそめてじぃとこちらを見た鞘は、「帰ります」と言うと、珈琲を一気に飲み干してソファーから立ち、くるりと俺に背を向けて玄関に向かって歩き出した。呆れられたかな。なんだか、こういうやり取りにも懐かしさがある。
正直に言えばカネはちょっと勿体ない気もするし、これで鞘とお別れだと思うと寂しくはあるが、これでいい。住む世界が元から違う人間だ。
「じゃあな」という短い別れの言葉を吐息と共に呟いたその時、鞘の足がぴたりと止まった。
「龍太郎さん。キスはさておき、デートならいいですよ。来月はいかがでしょう」
あくまで事務的に、淡々とした調子で言った鞘は肩越しに振り向くと、
「そうですね。今なら、二十四日がちょうど空いていますが」
なんて言って、頬を少し赤く染めながら笑みを浮かべた。
女性からのお誘いなら、断るわけにはいかないよな? ましてやその日がクリスマスイヴならなおさらだ。
俺は地獄にいるはずの四季の爺さんに、「どうだ?」と心中で問いかけた。
よく晴れた空から、「ふん」と不満げに鼻を鳴らす音が聞こえたような気がした。
『これはミステリーじゃない』 シラサキケージロウ @Shirasaki-K
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