第2話 虹の橋
三日後の午後二時五十五分。天気は三日前と違い、うんざりゲッソリの晴れ模様。残暑厳しく、秋遠し。ああ、クソ暑い。
約束より五分早く、家の扉が二度ノックされた。着替えなどの荷物を詰めたバッグを抱え、「へいへい」と答えつつ外へ出てみれば、そこにいたのは運転手には似つかわしくないふたり組。光沢の入ったワインカラーのタイトなドレスを着た派手な女と、鼠色のレディーススーツを着た地味な眼鏡の女。
派手な方は、メリハリのあるボディーラインに加え、銀色の長い髪が褐色の肌に映える、いかにも人造感のある長身美人。挑戦的に光る大きな瞳に、色っぽい唇。なんだかどこかで見たことのある顔だと思ったら、二十一世紀を代表する女優、ハル・ベリーに瓜二つだ。あの顔を造るのには相当量のカネが必要だったろう。
地味な方は、細い身体に白い肌、肩まで伸ばしたやや波打った黒い髪、幼さの抜けていない顔つきの女性。奥二重で神経質そうな瞳。年齢は二十代の半ばほど。ちょっと低い鼻を見る限り、たぶん、こっちは全身天然モノ。俺はこっちの方が好きだけどな。
派手な方が一歩前に出て、ゆるりと頭を下げる。首筋に纏わせた甘めの香水の香りが鼻まで漂ってきた。
「はじめまして、車龍太郎さん。わたくし、春夫の母の神野透華と申します」
「同じく、春夫の妹の鞘と申します」と地味な方が続き、こちらは慣れた手つきで紙の名刺を手渡してきた。『神野グループ 取締役専務 神野鞘』とある。立派な肩書だ。
名刺を懐にしまいながら、俺は嫌味ない笑みを浮かべる。
「美人親子がわざわざお迎えとは。驚きましたよ」
「申し訳ございません。わたくしが春夫に無理を言って頼んだのです。春夫に見せて頂いたあなたが、とてもユニークかつ素敵なものでしたから」
見せて頂いたというのは恐らく、神野が装着していた接眼レンズの記録した映像を共有したのだろう、などと考えている間に、透華サマは俺の右頬にそっと指を這わせてきた。
「
なんだか、とってもサディズムな香り。とりあえず愛想笑いで誤魔化していると、「母さん、続きは車の中で」と鞘が助け舟を出してくれた。いや待て、車の中でも続きはごめんだ。
「ああ、そうね」と面倒臭そうに答えた透華サマは、頬に這わせていた指を、今度は俺の右手に絡ませてきた。
「行きましょう、車は外に停まっておりますので」
逃げられないな、こりゃ。
家の敷地を出てすぐのところに車は停まっていた。六人掛け、AI制御の自動運転車。近づくとひとりでに扉が開き、俺達三人を迎え入れる。鞘は前部座席に、俺は透華サマに引かれる形で後部座席へと座ってすぐに、車は音もなく走り出した。
万が一の事故に備えて自動運転車に窓はない。それでも圧迫感がないのは、本来窓があるべき部分に世界中の外景がランダムに映し出される機能があるため。今、車はちょうどスフィンクスの前を横切ったところだ。
透華サマの視線から逃れるために外を眺めてぼんやりしていると、彼女が俺の手をぎゅうと強く握ってきた。こうなると、彼女の方を向かないわけにもいかない。
彼女は俺の目を真っ直ぐ射抜きながら言葉を紡ぐ。
「わたくし、まどろっこしいことは嫌いです。単刀直入に申し上げても?」
「ええ」と一応うなずく俺。まずい、この人、なに言い出すんだ。
「龍太郎さん。あなた、わたくしの愛人にならない? うん、そうするべきよ。そうするのが自然よ。そうでしょう?」
自然、という言葉の使いどころを徹底的に間違っている。少なくとも、俺のような〝未来ある若者〟が、年齢不詳の〝お嬢様〟の愛人になることが自然であるわけがない。
俺はあくまでにこやかに、同時に失礼にならないよう細心の注意を払いながらお断りの文言を並べる。
「いや、しかし、そちらも色々と大変な時期でしょうし、あんまり俺みたいな厄介な奴を抱え込むのも、その、どうかと思いますけど」
「大変な時期、というのは?」
「先代社長が急に亡くなり色々とバタバタしていて、まだ次の社長も決まっていないと聞きましたよ。本来、会社を継ぐべき息子……つまり、透華様の旦那様も数年前に亡くなっているのでしょう」
「あら、春夫から聞いた話だと、龍太郎さんは世俗には疎い方だと思っていたのですが」
「雇い主のことを調べるのも仕事の一環ですので。普段は読みもしない三流雑誌まで漁りましたよ」
「そうでしたか。ですが、その点でしたら心配ございません。神野グループについては、わたくし一切関与しておりませんから。色々と調べたのならご存知でしょう? わたくし自身も会社を持っておりまして、そちらの経営に忙しいんですの」
「……美容系の会社、でしたね」
「ええ、〝世界最高〟の。好みの男性をひとり〝飼う〟くらい、わけがないのは当然です」
ちくしょう、なかなか食い下がってくるな。だが、押し負けるわけにはいかん。負けたら食われる、交尾後のカマキリみたいに。
「とはいえですね、こんな状況下で俺みたいなのが愛人になれば、あらぬ噂を立てられますよ。若い男が空席になった社長の座を狙うために奥様に近づいた、なんて記事が飛び交うかも」
「問題ございません。外野には言いたいだけ言わせておけばいいのです。お互い、都合のいい関係になりましょう?」
透華サマは俺の右手を両手でそっと包み込む。還暦の肉の思い出が頭に過ぎったその時、鞘が援護射撃を放ってくれた。
「母さん。副社長が雇用関係を結んだ相手とそういった関係になるのは、よろしくないかと」
「あら、鞘。あなたも、龍太郎さんに目を付けていたわけ?」と、透華サマは前の座席に座る鞘を鋭い視線で刺す。
「そういうわけでは」と素早く否定した鞘と、座席を挟んでの睨み合いがしばし続いた後、透華サマは不服そうに鼻を鳴らした。
「まあ、でも、あなたの言うことにも一理あるわ。春夫ったら、付き合う相手にはうるさいから。わたくしのことが好きで好きで堪らないのね」
透華サマは俺の耳元に唇を寄せ、「楽しみはあなたのお仕事が終わったら、ね?」と囁いた。出来る限り〝お仕事〟の期間を引き延ばそうと俺が心に誓ったのは、この時のことだ。
◯
外の景色がラスベガスの夜景に変わった辺りで、車は静かに停まった。「いってらっしゃいませ」という合成音声に送られつつ、自動で開いた扉から外へ出れば、目の前にそびえ立つのは巨大な蟻塚めいたビルだ。景観保護の一環なのか、外壁には空の景色が映されている。コンクリートに影が落ちているのに空が見えることが、却って不自然だとは思わないのだろうか。
「こちらです」と先導する鞘に従ってビルに入る。隣には、俺の右手を優しく握る透華サマ。エントランスには昔ながらの受付嬢なんてものはおらず、
俺達の到着を待ち構えるように、口を開けていたエレベーターへと足を踏み入れえるその直前、透華サマが名残惜しそうに俺の右手をそっと離す。何事かと思えば、一歩引いた彼女は顔の前で手を振った。
「それでは、わたくしはここでお別れです。龍太郎さん、お仕事がんばってくださいね」
ここでガッツポーズが出なかった俺を褒めてくれよ。
透華サマと笑顔でお別れしてから、鞘と共にエレベーターへと乗り込む。扉が閉まり、浮上感なく箱が上に向かって動き出したのを確認した後で、俺は長めのため息を吐いた。
「いやいや、専務のお母様は凄いバイタリティの持ち主ですね。あのままどこまでもついて来るもんかと思いましたよ。分厚いステーキを見るみたいな目で俺のことを見てましたから。まるで女豹だ」
「まあ、今から向かう場所が〝あそこ〟ではなかったら、間違いなくついて来ていたでしょうね」と、彼女は感情を抑えた無機質な声で答える。
「〝あそこ〟っていうのは?」
「
「なるほど。俺以外のテスターとやらも、そこにいるんですか?」
「いえ、こことは別のビルで行われています。他の方とは鉢合わせるようなことはないのでご安心を」
階数表示が十七階で止まり、音も無く扉が開く。鞘に続けて箱から歩み出てみれば、強烈な青白い光が全身を照らした。「なんじゃこりゃあ」と思わず声を上げると、鞘は淡々とした調子で「皮膚に付着した微細装置を殺しております」と説明した。
「こちらです」と涼しく言う鞘の声に従い、視線を足元へ落としながら廊下を歩いていく。サングラスでも持ってくるべきだったかな。
「部屋の中はもちろんのこと、部屋に繋がるまでの廊下から、厳重なウェーブカット処理を施してあります。筐体は完全なスタンドアロンで稼働。電子機器の類はもちろん持ち込み禁止。持ち込んだとしても使用は不可能。医療用ナノマシンも同様なので、そういったものを使用している方が部屋に入るには、十二時間に及ぶ
説明しながら歩いていた鞘がふと足を止める。それと同時に光の照射が終わる。目の前には、鉛を思わせる重厚な扉が立ちはだかっていた。彼女が掌を扉にぴたりと着けたのは、掌紋認証をしているのだろう。
「社内ではこの部屋をこう呼びます。〝鉄の処女〟、と」
重そうな扉が音もなく開く。一歩部屋へと踏み入れば、暖色系の柔らかな光が部屋を照らした。正方形の部屋で、四方それぞれ15mずつはあるだろうか。高い天井には日光東照宮にあるような鳴き龍が描かれている。壁、並びに床材はケヤキ製。なんだかどこぞの寺に迷い込んだみたいではあるが、仏壇代わりに部屋の中央で二台並んで鎮座する、3mほど大きさのある卵型の白い物体が異質だ。恐らく、アレがBifrostとやらだろう。たかがゲームの筐体に神話由来の〝虹の橋〟なんて名前をつけるのは、少々大げさだとは思うが。
俺は部屋を見回しながら言った。
「たしかに、現代人にとっては拷問みたいに耐え難い環境かもしれませんね。名前考えた方はいいセンスだ」
「私です。お褒めいただきありがとうございます」
その時、ジリリといかにも古臭い電話の音が背後から聞こえてきた。いったいなんぞと思えば、音は部屋に入ってすぐの左手の壁に取り付けられた黒塗りの受話器からのようだ。
「珍しいものを置いていますね」
「無線の連絡手段はここでは使えませんから。有線で外と繋いであるんです」
鞘は「失礼」と言いつつ電話を取る。それから「はい、はい」と短い返事をしつつ数度頷いた後、受話器から耳を離した彼女はこちらへ視線をやった。
「副社長からです。どうぞ、車様」
「龍太郎で構いませんよ。あと、様はやめて頂けるとありがたい。慣れないことをされると背中がゾワゾワしてくる」
「ですが――」
「じゃないと、その電話を受け取らなかったりして」
鞘の眉間に僅かにしわが寄る。怒っているのだろうが、顔つきが幼いせいで迫力がない。
「……どうぞ、龍太郎さん」と渋々呟いた彼女の手から、「どうも」と笑顔で受話器を受け取った俺は、「はい、こちら何でも屋」と応答する。ややノイズの乗った、「どうもどうも」という神野の声が聞こえてきた。
「お疲れ様です、車様。ゲームの概要などについては、既に車内で専務からお伝えしていると思うのですが――」
「いや、それが、副社長のお母様とお話が弾んでしまったものでして。仕事について話す暇がなかったんですよ」
「そうでしたか。それは大変申し訳ありません。母はお喋りが大好きなものでして」
「いえいえ、楽しい時間でしたよ」
「そう言って頂けると助かります。さてゲームの概要についてですが、そちらで飲み物でも飲みながら、神野から聞いておいて頂けますか? 話が終わるころには、私もそちらに到着すると思いますので」
「まさか、副社長自らモニタリングなさるのですか?」
「そのまさかですよ。まあ、たまたま予定が空いていたので、興味本位で見学しに行くだけです。お気になさらず」
神野は「それでは」と短く言って電話を切った。俺は受話器をフックに掛けながら、「ここで待って、茶でも飲みながらゲームの概要について聞いておいて欲しいとのことです」と、神野との話を要約して鞘へ伝える。
「なるほど。では、早速」
〝鉄の処女〟を出ていった鞘は、数分後、銀色の盆にコーヒーカップを乗せて戻ってきた。「どうぞ」とそれを俺に手渡した彼女は、黒い液体に俺が口をつける前に話を始める。
「今回、龍太郎さんにプレイテストして頂くゲームのジャンルはミステリー。あなたには太平洋に浮かぶ孤島に招かれた探偵となり、そこで起きる殺人事件に挑んで頂きます」
――ミステリー。今となってはいわゆる〝古典〟と揶揄されるジャンルの物語。
本格派からはじまったそれは、×医療、×青春、×恋愛、×超能力、×幽霊、×屍人、果ては×鮫なんて……流れる歴史の中で多種多様なジャンルと
足が止まったジャンルに人が集まるわけがなく、また小説という娯楽の地位低下もあり、ミステリーを嗜む人間は国内外問わず今や絶滅危惧種となった。
ちなみに俺はその絶滅危惧種のひとり。二十七年生きてきて、『そして誰もいなくなった』を紙の本(!)で読んだことのあるヤツは、俺以外にお目にかかったことがない。
「楽しみですね。その手の話は嫌いじゃないんですよ。で、どんなタイトルなんです?」
「『これはミステリーじゃない』、です」
「…………なるほど。そういうわけか」
「どうされました?」
「いえ。読者を驚かせるためだけの、くだらない捻り仕掛けが待ってそうなタイトルだと思いましてね」
素直な感想を呟けば、彼女は意外にも「同感です」と頷いた。
「しかし、開発者の趣味ですから仕方ありません」
「なるほど」と適当に相槌を打ちつつ俺はコーヒーをすする。花のような香りと強いカフェインが脳細胞を駆け抜けた。ゲイシャコーヒーか、いい豆使ってる。
「ゲーム内においての時間は、現実の時間と同じ流れで進行していきます。つまり、ゲームの中で三日が経過すれば、外でも同様に三日経っているというわけです。ゲームの性質上、睡眠は基本、ゲームにダイブした状態で取って頂くことになりますのでご容赦を。トイレや食事などの心配もあると思いますが、中断機能は備えておりますのでご安心ください」
ここまでで何か質問は、と問うような鞘の瞳が俺を突く。俺はカップを持っていない方の手を挙げて、「ひとつ質問があります」と申し出た。
「この部屋にカメラは……つまり、外の誰かがこの部屋の様子を見れるような監視カメラのようなものはあるんですかね」
「ありません。この部屋と外を繋ぐのは、あの電話だけになります。しかし、何故そのようなことを?」
「たまに寝言で小学生の時に好きだった子の名前を叫ぶみたいでしてね。誰かに聞かれると困るんですよ」
鞘はあからさまに嫌そうにため息を吐きながら「そうですか」と呟き、さらに続けた。
「最後に、このゲームは基本、探偵と助手が一組になった二人プレイが前提となっております。助手を担当する社員は間も無くこちらへ到着する予定となっておりますので、少々お待ちください」
「わざわざそんな社員なんて呼ばなくても、まさしく助手にぴったりな人間がここにいるじゃないですか」
「……はい?」
「眼鏡が似合う、知的でクールな美人。神野専務、あなたですよ。あなたに助手をお願いしたい」
「……あのですね。私は母の付き添いついでに案内役を任されただけで、ここを出たら取り組まねばならない仕事をいくつも抱えておりまして――」
「これだって立派な仕事でしょう? 神野グループ謹製のVRゲームの、テスターの助手」
無言の圧が浴びせられる。ぐっと堪えていると、また例の古めかしい電話が鳴り響いた。これ幸いと素早く電話を取れば、聞こえてきたのは副社長の声だ。
「やあやあ、お待たせ致しました。電話口からで申し訳ない。説明は受けましたか?」
「ええ。それにつきまして、ひとつお願いが。このゲームには助手が必要だと伺いました。そこで、神野専務に俺の助手をして頂きたいのですが、構いませんか?」
「彼女がうんと頷けば、私は特に構いませんよ。あくまで、探偵役はあなたなのですからね」
〝お兄様〟からのお許しは得た。あとは本人の意思だけだ。通話口を手のひらで押さえながら、俺は鞘へ笑顔を向ける。
「神野専務、お願い出来ますか?」
「どうして私でなければいけないのですか?」
「強いて言えば、興味があるんです。生前の先代社長から、『自分には自慢の孫がいる』とよく伺っていたものですから。神野専務はどんな方なのかな、と」
「……龍太郎さんは、お爺さまのご友人なのですか?」
「友人なんかではありませんよ。もっとくだらない関係です」
鞘はその夜の海のように黒く冷たい瞳で睨むように俺を見て、それから何やら覚悟を決めたように、小さく一度頷いた。
「わかりました。私も、あなたに興味があります。助手としてご同行致しましょう」
「そうこなくちゃ」
通話口の向こうで待つ副社長へ、「OKだそうです」と伝えれば、「そうですか」と意外そうな声が返ってきた。
「でしたら、専務をお願いします。妹ながら、頭のキレるところもありますので。お役に立つとは思いますよ」
「ええ、任されました」と答えた後、電話が切れ、部屋にあった筐体が半分に割れた。寝応えの無さそうなゲル素材のベッドと、ヘルメット型のヘッドマウントディスプレイが、プレイヤーが来るのを待ち構えている。
ヘルメットを着用してベッドに寝転び、ゲーム開始を待っていると、隣の筐体で仰向けに転がる鞘が、「龍太郎さん」と声をかけてきた。
「どうしました? 聞かれたって、小学生の時に好きだった子の名前は教えませんよ?」
「これは遊びではございません。冗談を言うのは構いませんが、どうか、ひとつ真面目によろしくお願い致します」
「わかってますよ」と返しつつヘルメットを被り、ベッドに全体重を預ける。筐体の蓋が音もなく落ちて、数秒後には意識を機械に剥奪された。
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