好奇心、犬を飼い殺す



 夜は暗くて、世界に誰もいなくて、なのに街の明かりだけが喧しい。


 その光があまりにも眩しいものだから、その光を見たくないから。自分はもっと深い夜の闇に進んでいく。たまたま目についた、路地裏の中。

 単なる気まぐれのつもりだったけど、知らない場所を知りたくて、そのまま足を踏み入れていく。テニス部の大会の優勝祝いが終わって、歩いて街から家に帰る途中にふと目に入った黒い隙間の中。


 コンクリート、剥き出しの機械、家の隙間、何もない。何もない。だけれども、自分は何かあると、この先に何かあると、訳もわからずに直進する。非日常の夜に酔ってしまったのだろうか。わからない。わからない。


 そして、歩いて、一歩、二歩、三歩。数えるのも飽きるほどに……路地裏に入り込んでから、そう経っていないくらいのときに。曲がり角で止まる。



 寒気が、した。尋常じゃない程の……受験の時だってこんなに緊張したことはない。誰に怒られたって、これほど泣きたくなるような雰囲気にはなりっこないだろう。


 これより先に進めばロクでもない目に遭う。きっと、少し背伸びして夜の街を歩こうなんて思い上がった自分を未来の自分は責め立てるだろうと直感する。

 けれどこれほどおぞましく恐怖を駆り立てる存在が、このすぐ先にあると考えれば心の鼓動が高鳴る。知らねばあの先にある非現実に怯えて死ぬ。知ればあの先の非現実に殺されるかもしれない。

 なら、なら━━━━



 ぐちゃ、ぐちゃと肉が抉れる音がして。


 ぺちゃ、ぺちゃと粘ついた水たまりを踏んだ音がして。

 

 ……そこにいたのは、一人の女だった。

 路地裏に蔓延した死の上に立つ、壮絶なまでに美しい、夜色の髪に黄金の瞳の女。

 彼女が手に持つのは血濡れたナイフ。足蹴にするのは芸術的なまでに裁断された━━人型。


 

「おっと……」


 ━━悲鳴をあげるよりもはやく、組み付かれ彼女は馬乗りになって…………ナイフが、その刃先が向けられる。銀色に光るそれが、月光を反射して輝く。いつも握ってる包丁なんかよりもずっと鋭そうで、ちょっと彼女が腕を振れば私の命が断ち切られることを嫌でも意識される。


 このまま口封じに殺されるんだろうか、ああ。イヤだ。なんでちょっと好奇心を出して路地裏を進んだくらいで殺人鬼とエンカウントするんだよ。おかしくないか? 好奇心猫を殺すなんていうけど、私は猫じゃない。なのになのになのに、死は確かな形状を持って眼前にある。


 ……私は理不尽を嘆いたし、死にたくないと思っていたし、痛いのもイヤなのに…………


「……ペットが欲しいんだよね。裏切らず、従順で、ついでにそこそこに優秀なの」


 ……どうしてか、抵抗する気はなかった。

 恐怖に怯えすくんでいた。混乱に頭が追いついていなかった。だけど、それ以上に。


「それに……すごく可愛い泣き顔。ねぇ君、私の犬にならない?」


 肉食獣のように。凄惨に口元を歪ませた姿が、美しかったからだろう。



 空にはぽっかりとあいた穴のように、物言わぬ月が佇んでいる。

 夜空の青と黒の混ざり合った色とは違って━━地上の視界は、真っ赤に染まっていた。

 



 …………同じ学校の先輩だと知ったのは少し後だった。

 ……3連休を終えて学校に行くと、同じ制服を着た彼女とすれ違ってしまった。一つ上だから……17歳。あんなにも凛としておぞましい夜闇の仕事人にはとても見えないのは、制服のおかげなのだろうか。

 私も、制服を脱いだらこの怪物と同じなのだろうか。


「お疲れ様。子犬ちゃん。……いやあ、あの校長の話本当に長いよねー。にしても、子犬ちゃんがテニスで優勝してたなんて知らなかったよ」


 軽くて適当な話の間に、ポケットの中に、何かが突っ込まれる。


「これ……何ですか?」

「今日の依頼書。放課後いつもの場所ね」


 …………まるで友人が購買に買い物を頼んでくるときのような……いや、不良がパシリにするみたいな気軽さだった。

 そして、私の見えない首輪を指で撫でたかと思えば、言葉の第一が出るより先に、風のように何処かへと去っていく。


「…………ああ。ほんと、最悪だな。人生って」


 紙の内容は、今日殺しにいく怪物の内容。

 ……自分の仕事は、録画と。終わった後に迎えに行って、後始末の手伝いと肩揉みとかをしろ。というだけ。ついでに、レンタルショップで何本か借りてきて。なんて。


 

 …………あの日、彼女に出会ってから自分の人生は急転してしまった。世界に隠れ潜む怪異とか妖魔とかそういう化物を殺す裏社会の殺し屋。それが、あの日に見た彼女。


 私は、毎夜のように殺しのための道具として、或いは雑用のための人員として、愛玩の飼い犬として。彼女に付き従う事になってしまった。

 …………それだけじゃない。目を抉られて、目をすげ替えられ、見えてはいけないものが沢山見えるようになってしまって、気が狂いそうだった。彼女にだけ殺せる存在が学校にも店にも道端にも川の中にも空にも、私の部屋の隅にだっている。

 気分を教えてあげようか? ゴキブリとか幽霊のデカくてキモくて自分に害のある存在が見える。どこにいるかわかってしまう。クソみたいな世界になってしまって、吐きそうなくらい気持ち悪くて、死にそうだ。

 



 …………今日の夜も、私は彼女の仕事を見る。近づくことはできないので、遠くから双眼鏡で覗くだけだけど……それでも、気持ち悪いほどの生々しさが歪な視界に、あの日と同じように溢れている。

 ナイフが踊り、角の生えた化物も人間の姿をした化物も羽が生えた化物も化物のような人間も一切を殺す。殺す。

 薄気味悪い怪物が真っ二つに、綺麗な羽の人型の翼がへし折られて頭が蹴り砕かれて、同じ人間のようなものが首を落とされ中から蛆虫のような気持ち悪いものを溢れ出させて、クソ。見るだけでSAN値とかそういうのが削れる。なのに発狂も、できない。

 私はただあの女のが自分の勇姿を見て、ついでに活動を録画してほしいというだけでこんな悪夢をみなくてはいけないのだ。



「あー……やっぱ子犬ちゃん後始末上手いねぇ…………」


 上手くさせたのはお前だろうが。

 心で悪態をつきながら、血を誤魔化して、死体を……討伐の証である首を袋に入れて、人払いのお札を回収して。血の臭いにむせる。


 ……いつまで、私はこんな事を続けなくてはならないのだろう。血を落とし、死体を見て、吐きそうになって、彼女に斬り殺される事に怯える。朝学校に行く度に彼女に渡されるメモの中身に震える。


「大丈夫だよ。私、ペットには愛情注ぐタイプだから」


 そういうことじゃない。というか、ナチュラルに心を読まないでくれ。


「んー……君はさ、仕事で疲れた私のことを癒してくれればいいんだよ。なんなら君のご両親に話をつけて、私の家に住まわせてあげようか? そしたら毎日私といれるよ?」


 やめてください。私の人生を、そんな軽く。


「やっぱり嫌だよねー。安心して。私依頼がなければあんまり殺さない主義だから、お金は沢山出すし、記憶だって違和感ないように変えてあげるよ。えへへ〜」


 顔が青くて赤くなっていることがわかってしまう。おぞましい化物。あの日、まだ死ねるうちに自殺すればよかった。

 助かりたいからって、あの美しさに身惚れたからって首輪を受け入れなければよかった。


「ふふ、せっかくだから犬らしく芸とか……何か仕込んであげようかな。諜報術とか……暗殺術とか……あ、色仕掛けとかはやめてよね。それは私にだけやるんだよ」


 犬なんて言うけれど、家畜以下だろう。

 まだ奴隷といわれた方がそれらしい。彼女は実際に愛情に似た何かを押し付けてくるし、惨状を見せられ苦痛を浴びるようにうけることを除けば━━このクソ以下の暮らしは耐え難いくせに、耐えられる。

 彼女の機嫌がいい日は、ご褒美と称してナニカを与えてくれる。悪い日は……今はない。

 体を貪られる日がある。趣味だという映画を観る日がある。ゲームをしたりテレビを一緒に見たりする日がある。私がいかれた殺し屋の飼い犬であると前提をつけなければ……いい先輩で、同性の恋人であるかのように思わせるほど、学校生活で気を回してくれる。

 悪くないかな……なんて思うな。私は、私は━━━━


「あは……いいね、その反抗心を忘れない目。今日は夜更かししちゃおうか。子犬ちゃん」


 ……………いつか、折れて、単なる犬に似た人形になってしまうのだろう。自分にナイフを突き立てようとしたら、見えない首輪が締まる今に。おぞましい愛玩に、現実に、心が破壊される日がくるかもしれない。

 

 好奇心に殺されていた方がずっとマシだった。猫は殺されたけど……犬は、飼い殺され続けるのだろう。


 見上げた空に、月はもうなかった。

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