第365話 麦刈り
空はどんよりと曇って、月明りもないまったくの闇夜。私は、マリアツェルから連れてきた獣人部隊とともに、ひたすら待っている。
「ごめんなさい、来るか来ないかわからない相手を待つのは、辛いと思うけれど……」
「なんのこれしき。せっかくロワールくんだりまで遠征してきたのに、ここまでまったく出番がなかったのです。少しでも領主ロッテ様のお役に立てるチャンスを頂けたのですから、皆張り切っておりますよ」
獣人部隊三百を束ねる猪獣人の将校さんが、優しくフォローしてくれる。確かにここまで彼ら獣人部隊の任務は、アルフォンス連合軍の「看板」である私を護衛するだけ。前線に出て剣槍を振るう機会なんか、まったくなかったのだから。まあ、これからやろうとしていることも、戦闘行為とは言えないのだけど……彼らでなければ、できない任務なのだ。
「今夜はきっと、来るだろうな」
ふと声を掛けてくるのは、アルフォンス様だ。昨晩は来られなかったけど月夜だったからなあ。今晩は闇だから、きっと出てくると踏んで来てくれたのだろう。
広大な麦畑には、およそ百メートルおきに獣人さんを配置して、気配を探っている。視力が当てにならないこんな環境で、獣人の感知能力は、人間をはるかにしのぐ。きっと、相手が動いたら、見つけてくれるはずだ。
「すごいな、シャルロットは。聖女で、大貴族で、軍事指揮官だ。そして多くの者から支持されている」
小さな声で、アルフォンス様がささやきかけてくる。
「私自身、たいしたことはしていないのです。バイエルンで多くの人と出会って……その人たちがみんな、助けてくれた結果です」
「みんなが助けてくれる、か。君にあって僕にないものは、それなのかもしれないね。どうやったら、君のように人を惹きつけられるのだろうね」
彼の口調が沈痛なニュアンスを帯びる。そう、今回の内戦を客観的に見れば、アルフォンス様をなんとか支えてあげようという人が、不満を持っている人たちより少なかったということなのだ。
「自分のことは……なんでこんなに良くしてもらえるのか、わかりません。でも、アルフォンス様のことは少しわかります。陛下は、とても高い理想をお持ちの方……そのような方が至高の地位に就かれたら、理想を実現するために改革を為されようとするのは当然のこと。ですが普通の人は、陛下ほどの志を持っていません。そういう人々にとって政策が急に変わることは、苦痛に感じられるかと存じますわ」
「……うん、耳が痛い。僕は国民のために良かれと思っていろんなことを急にやりすぎた。知らず知らず、味方が離れていったのだろうな」
「やりすぎを自分で気付くことは難しいと思います。一歩引いたところで陛下を見て、行き過ぎた時に、諫めてくれる人が必要です」
しばらく、眼を閉じて考え込むアルフォンス様。そして、その眼を再びゆっくり開くと、そのブラウンの瞳を真っ直ぐ私に向けて、ささやくような声で、しかし強い意志をこめて言った。
「聖女ロッテ……いや、シャルロット。そのような直言を僕にぶつけてくれるのは、昔も今も、君しかいないのだ。どうかロワールに戻って、王妃として共に国政を考えてもらうわけには、いかないだろうか。あれ以来貴族たちから次々王妃候補を推薦されているが、君のように僕を心から諫めてくれる者は、いないのだ」
そうかも知れないわね、紹介される令嬢にとって、アルフォンス様は絶対権力を持った国王だ。直言せよと言われても、遠慮して引いてしまうだろう。私は彼が王位に就くなんて思ってなかった頃から一緒だったのだから、そこを比べたらちょっと可哀そうだ。
だけど、今の私は彼の想いに、応えられない。
「陛下のお申し出、とても嬉しく思います。ですがもう私は、バイエルンで大切なものがたくさんできてしまいました。新しい家族、信じあえる友人、そして大事な領民……もう私の家は、バイエルンなのです。大変ご無礼ながら、ロワールへは参れません」
「うん、まあ、そう言われちゃうかなと思っていたけれど……バイエルンで好きな人が、できたのかい?」
「はい」
私は、ごく短い答えを返す。嘘はつきたくないけれど、将来を約束した人は死んじゃって、今は皇弟と火竜の三角関係ですとか複雑なことを言っちゃダメだよね。いずれにしろ、私は今後の生涯をバイエルンで送る、伴侶は向こうで調達するから、ってところがわかってもらえればいいのだ。
「そうか、やはりダメか、実に残念だよ。そんな気はしていたんだ、僕と一緒にいた頃より、はるかに今の君がいきいきとしているからなあ」
アルフォンス様は、言葉ほど残念そうな顔をせず、さばさばと私の答えを受け止めた。あとは無言で闇の中、お互いの息遣いを感じているだけ。
そして、二時間ほどの後。ようやく、私たちの待っていた伝令が来た。
「やっと出てきましたぞ。獣人が百人ほどです、持っている物は武器ではなく、農作業用のもの。間違いなく麦刈り部隊です!」
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