第287話 和平交渉

 三日後には使者が訪れて停戦が結ばれ、さらに一週間後には本格的な和平交渉が、マリアツェルの街で始まった。


 バイエルン側の交渉トップは不本意ながら私だ。ローゼンハイム伯爵様の方が格上だからお任せできるのかと思ったら、伯爵様は国王陛下のサインが入ったものものしい書類を私の前に置いた。


「この通り、『和平交渉に臨む場合はハルシュタット子爵シャルロッテに全権をゆだねる』とある。私の指揮権限は軍事行動のみであると、陛下に確認済みだ。聖女殿の望む通りに、交渉を進めて欲しい」


 はぁ~っ、陛下の根拠のない信頼が重いわ。私は家族と平穏に暮らしたかっただけなのに、めんどくさい役目がどんどん乗っかってくる。でも今回ばかりは、私がやらなきゃいけないのだろうな。ここまでの勝利は「私を守るため」ヴィクトルが自らを犠牲にしてもたらされたものなのだから、私が最後まで責任を持たないと。


 そしてアルテラ側のトップはなんと、現皇帝を倒して権力を握った、イグナーツ殿下なのだ。クーデターを起こしたばかりで体制も安定していないだろうに、帝都に居なくていいのかな。


「久しぶりだね、聖女殿。計画通りとはいえ、ここまで大敗するとは思っていなかったよ。何しろ二万以上の兵を失ってしまったからね。まあお陰で、当分内政と国力回復に専念する言い訳ができるのだけれど……ヴィクトルのことは残念だった、済まない」


 明るい調子で切り出したイグナーツ殿下だけれど、ヴィクトルの死に話が及ぶと、真剣な顔になって声を落とした。自分の片腕を斬り落とした相手なのに、不思議な友情を築いていたのよね。負い目を感じておられるみたいだけど、あれは殿下の責任じゃないってことは言っておかないと。私は真面目に言葉を返す。


「いえ……お互い勝たねばならない戦でしたから全力を尽くした結果です、殿下が気に病む必要はありません。アルテラ軍が寡兵の私たちを挟撃しようとするのは当たり前の戦略ですが、それが実現してしまったのは、わが軍の一部が任務を怠ったからです。私の怒りは、その者たちに向いています」


「うん……ヴィクトルとは、想いを通じ合わせたのかな?」


「ええ。通じ合ったすぐその後に、彼は……いなくなってしまいましたが」


 ダメだ、戦が終わるまで泣かないと決めたのに、鼻の奥がツンと痛くなってくる。こんなところで泣いちゃったら、交渉が台無しだ。唇をかんでこらえる私の姿を見て、殿下が慌てる。


「済まない、聖女殿。愛しい人を失ってなお気丈に務めを果たしている淑女に、掛けるべき言葉ではなかった。交渉に入ろう、私たちの目的は同じはずだ」


「ええ、早くこの戦を、終わらせましょう」


◇◇◇◇◇◇◇◇


 交渉は、とてもスムースに進んだ。イグナーツ殿下が、気前良く破格の条件を出してきたからだ。


 まずは、領土の件。国境からこのマリアツェルまで、現在バイエルンが占領している地域を、そっくり割譲すると約束してくれた。まあ、マリアツェルの街を除くとほぼ森林の間にぽつぽつ村が点在する程度の土地で、保有していても経済的利益はあまりないから、これは予想の範囲内だ。そうそう、割譲される領土の中には、今や老人とダンテ一派のみが残っている獣人村も含まれているのだ。若くてやる気のある人たちはもうシュトローブルに移住してるからあまり関心はないけど、今回の戦に使われた火竜の魔石はおそらく、ここが出所だ。落ち着いたら調査しないとね。


 大事なのが、平和条約の締結だ。定めた国境を越えず、相手国の民を互いに保護することを約束するだけ……簡単なことなのだけど、その簡単なことが、これまでできていなかったわけだからね。もちろんこの時代、口約束だけでは心許ない。イグナーツ殿下とお母様が同じ皇弟殿下が、バイエルンに長期留学という名目の人質に来てくれることが決まる。せっかく来て頂くのだから、窮屈な思いをしなくていいように、国王陛下や父様にお願いしないといけないわね。


 当然、賠償金の交渉も行われたけれど、私はきっぱり最初に、それを求めないと宣言した。大陸では、敗戦国には巨額の懲罰的賠償を掛けることが当たり前だけど……それは結局アルテラ国民への苛斂誅求で賄われるものだ。民から収奪すれば不満と怒りのマグマがたまり、いずれは爆発する。私たちにとっておカネよりも、アルテラが穏やかに平和でいてくれることが何より大事なのだ。ディートハルト様からは、交渉術的にはああだこうだと後でお説教されてしまった……そんなテクニックを求めるなら、私を代表にしたらいけないのにね。


 だけどイグナーツ殿下は、誠実な方だった。私の配慮に深く感謝の意を示した後で、バイエルンに向かう東方貿易の荷にかける関税をゼロにするとおっしゃってくれたの。これは、リンツ商会のグスタフ様が躍り上がって喜びそうだわ。


 おおむねそんな感じで、トップ同士の交渉は、全く対立することもなく片付いた。後は事務方で細かい内容を詰める段階、アルノルトさんも急遽呼び寄せたことだし、もう丸投げしちゃって、いいよね?

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