第280話 失われたヴィクトル

 私たちの視線の先……後方シュトローブルへ向かう街道に溢れかえった敵軍のど真ん中あたりで、眼もくらむような光が突然ひらめいた。


 その光は直径一キロくらいの巨大な半球を形づくり、たっぷり二十を数えるほどの間、輝き続けた。


 ああ、これは間違いなく……ヴィオラさんの言ってた、最終手段だ。


 森の王者サーベルタイガーの中でも特に高位の、族長級の者だけが現出できる生涯に一度の必殺技。自らの身を犠牲にして、敵を一瞬で葬り去る、禁断の業。ヴィオラさんのお父さんとお兄さんがこれを行ったことで、デブレツェンの森から一度はアルテラ軍を撤退に追い込んだ、あの強大な力を……ヴィクトルは、使ってしまったんだ。


 ヴィクトルは、明らかにデブレツェンのどの虎より強い。だから当然この力を使えるであろうことを、私は知っていたはずだった。そして私を守るためなら何でもする彼が、こんな時その業を使うことをためらわないことも、ちょっと考えればわかるはずだった。なのになぜ、私はヴィクトルを止められなかったのだろう。彼がフラグめいた言葉を吐き出したその瞬間に取りすがっていれば、止められたかも知れなかったのに。


 そのまばゆい光が消えて周囲が夕闇に戻った時、敵も味方も呆然として、喧騒に満ちていたはずの戦場を、静寂が支配した。


「僭越ですが……今しかありません、クラウス様、血路を開きましょう!」


「あ、うむ。そうだった……第二第三部隊は後方の敵を掃討しつつ街道を確保、第一第四部隊は戦いつつ徐々に後退! 秩序を持って前線を退け!」


 姉様のアルトが静けさを破り、我に返ったクラウス様が全軍に後退指示を出す。そしてみんなが一気に動き出したのだけれど、私だけはまったく動けなかった。彼の現出させた光球が消えたあたりを、焦点の合わない眼でずっと見て、立ち尽くしているだけ。泣き虫の私なのに、こういう時はなぜか、一滴の涙も湧いてこないの。


「ロッテお姉さん、僕は前線が崩れないように支援してくるから、ビアンカと一緒に早く後退してね!」


 カミルが、抱きすくめていた私をゆっくり解放する。身体の力が抜けて、崩れ落ちそうになるところを、人型に戻ったビアンカが素早く支えてくれた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


 そのあとのことは……あまり覚えていない。ビアンカとレイモンド姉様に両方から支えられて、とにかく走らされたような気がするけど、何だか全部夢の中の出来事みたいに、はっきりしないの。周りの様子をはっきり意識できるようになったのは、急行してきたローゼンハイム伯爵様の主力部隊に保護されてからだった。


「ロッテお姉さん、もう大丈夫です、本隊に合流しましたからね」


「あぁ……うん」


 あの光球を眼にして以降、初めて言葉を発した私。生返事だったけれど。


「聖女殿、よく無事で……ヴィクトル殿のことは、残念だった。勇敢な男だったが」


 そう、過去形なのよね。過去形になってしまったのだ、ヴィクトルは。優柔不断な私がふらふらしたあげくようやく彼を選んで、共に生きようと決めたとたんに、手の届かないところへ一人だけで行ってしまったんだ。


 いやそれも、私のせいか。


 私が素直に落ちのびていれば、ヴィクトルが最後の手段を取ることも無かったかも知れない。下手な正義感と義務感を振り回したわがままな小娘を守るために、仕方なく死ぬ覚悟を決めなくてはいけなくなったのか。


 そう思うと、後悔が襲ってくる。私が彼の人生を……人じゃないけれど……奪ってしまったのだろうか。


(ロッテよ、自分を責めるでないぞ。主にとっては、そなたを守ることこそが生きる意味だったのじゃ。そなたの代わりに死ねたなら、主には本望であろうよ。その瞬間に傍にいられなかったことが、妾としては不本意であったがのう)


 不意に頭の中に、グルヴェイグの声が響く。心なしかその念話の調子は、いつもより優し気で、そして哀し気だ。そうだ、彼女も、伴侶を失ったわけだものね。


 ダメだ。やっぱり、何をする気も起こらない。今日までのやる気にあふれて前向きな私は、どこへ行ってしまったのだろう。たった今、眼の前でローゼンハイム伯爵様とディートハルト様、そしてクラウス様が明朝からの行動作戦を真剣に議論しているというのに、何か別の世界で起こっている出来事みたいで、話の内容が全く頭に入ってこない。


 ぼぅっとしていた私の頬が、不意にぱちんと派手な音を立てた。それが平手で、それもレイモンド姉様の手で叩かれたものだと理解するまでに、私はしばらく呆然としていた。


「ロッテ! あなたは一体、何をやっているの? ヴィクトルさんがその身に代えて守ってくれたのに、その腑抜けぶりは何なの? 眼を覚ましなさい!」


 姉様が初めて、私に向かって、怒っていたんだ。

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