第279話 悲劇の幕開け
「このまま挟撃を受けていたら全滅する。多少の被害を覚悟で、後方を突破してシュトローブルまで撤退するしかないだろう」
「クラウス様のおっしゃることに賛成ですが、後方の敵は密集隊形です。あれを貫通するのは、難しくありませんか?」
「うむ、聖女の言う通りだ。ディートハルト殿! 卿の魔法をぶち込むわけにはいかないか?」
良い考えに思えたのだけれど、彼は申し訳なさそうに首を振った。
「先程前線に向かって全力で二回撃ってしまったため、魔力が枯渇しているのです、あと一時間ほど待ってもらえれば……」
だめだ、その一時間で、確実にシュトローブル軍は、腹を食い破られるだろう。どうすれば……いろいろ考えをめぐらす私だけど、こんな時に限って、ろくなアイデアが浮かんでこない。
「うむ、かくなる上は……」
クラウス様がつぶやき、何やら目配せをしたかと思うと、傍らに控えていたビアンカが手早く服を脱いだ。
「え? え? 何のつもり?」
「もはやわが軍の壊滅は免れぬ。元々兵力に四倍ほども差があったのだ、地の利を失った瞬間こうなるのは、わかっていたこと。だがここで、我々が旗印とする聖女を失うわけにはいかぬ。貴女はビアンカ殿に乗り、疾く戦場を離脱して義父の指揮する主力に合流して欲しい」
(乗ってください、お姉さんとレイモンド様のお二人なら、森を縫って脱出させて見せます)
虎型になったビアンカが、急かしてくる。すっかり成獣の大きさになった彼女なら、確かに女二人くらいなら、乗せて逃げられるのだろう。だけど……。
「だめだよ! ここで私だけ逃げ出すなんてできない。みんなが戦うなら私も最後までここで戦うし、みんなが死ぬならいっしょに死ぬわ」
「バイエルンから、聖女が失われてはならぬのだ!」
「総督、聞き分けて下さい!」
(お姉さんがいなければ、シュトローブルの獣人たちはまた不幸になってしまいます!)
みんな口々に逃げるように説得してくれるけど、ここに関しての私は、頑固だった。一般の兵士を盾にして逃げる聖女なんて、聖女じゃないよ。本当の聖女は、自分の生命を犠牲にしてでも、普通の民を助ける者であるはず。
「逃げるとしてもみんな一緒に、です」
だけど、逃げる選択肢がもう失われてしまっていることは、私だって理解している。唯一の退路であったシュトローブルへ続く街道は、すでに敵の手に落ちてしまったのだ。そして前面には、私たちに数倍する敵軍が。彼らが黙って撤退を許してくれるはずもない。
やはり私はここで、兵士たちと一緒に死ぬことになるのだろう。クラウス様は旗印がなくなるとおっしゃっていたけれど、きっとここで私が死んだら、バイエルン主力軍は復讐心を燃やし奮い立つはず。古来より若き乙女の犠牲は、男たちの戦意をかき立てるもの……まして今回はその犠牲が「聖女」なのだから。そして、これ以上アルテラが侵攻するのを食い止めてくれるだろう。シュトローブルの人たちは守られる……それも、ありじゃないか。
説得に耳を貸さない私を見て、ヴィクトルが立ち上がって近づいてきた。私は身構える……だって彼だったら、多少乱暴にしてでも私を逃がそうとしそうなんだもの。
だけど、彼はそうしなかった。
「俺が大好きないつも通りのロッテで、安心したよ。ロッテのしたいことを、俺は全力で支える。そう誓ったからね」
私が緊張を解くのを見届けると、彼はクラウス様とカミルの耳に、なにやらごにょごにょとささやき始めた。クラウス様の眉がぎゅっと寄せられたけれど、すぐに納得の表情になる。カミルは凄く驚いた顔でヴィクトルを見つめ……たがてあきらめたように肩を落とした。いったい、何を伝えたのだろう?
「それじゃ、いい子にしてるんだよ、ロッテ」
「え? ヴィクトル、行っちゃうの? そばにいてくれないの?」
「みんなで無事撤退するために、大事な役目を果たしてくるよ」
そう言ってもう一度近づいてきたヴィクトルが、真っすぐ私を見つめる。彼が何をしたいか、なぜか理解できた私はまぶたを閉じる。唇に熱い何かが触れて、すぐに離れる。
「預ける」
そう言って手渡されたのは、彼がいつも肌身離さず持ち歩く魔剣、グルヴェイグ。彼以外は触れることができなかったはずだけど、最近私にも触らせてくれるようになった、女性の心を持った、魔法の剣。私がグルヴェイグを胸に抱くのを見届けると、彼は背を向けた。
「よしクラウス、準備を頼む!」
そう言った次の瞬間、いきなりヴィクトルの獣化が始まった。いつもなら巨大化する身体が服を破かないようにきちんと脱いでから変化するけど、今日は違った。シャツのボタンがはじけ飛び、ズボンも見る間にただの布切れになる。
「ちょっと、ヴィクトル?」
(ロッテ、君に会ってから、灰色だった俺の生涯が色彩あふれるものに変わった。俺の前に現れてくれてありがとう、そして、俺の想いに応えてくれてありがとう)
え、何その台詞? まるで生涯最後の言葉みたいじゃないの。そんな考えが頭に浮かんだ瞬間、私はヴィクトルのやろうとしていることを、突然理解できてしまった。
「ヴィクトル、だめっ!」
(幸せになるんだよ、ロッテ)
「ヴィクトルっ!」
そのたくましい首に取りすがろうとした私の両腕からするりと抜けて、たくましくも美しいサーベルタイガーの姿になった彼が、司令部のテントから飛び出していった。眉を寄せていたクラウス様が前線に指示を出すためにその後を追う。
「いやぁ、ヴィクトル、ヴィクトル! 戻って!」
私は半狂乱で叫びながら、彼の後を追うため走り出そうとしたけど、できなかった。すっかりたくましく成長したカミルの腕が、私の上半身をがっちりと抱きすくめていたからだ。
「カミルっ、お願い、離してぇ……」
「ロッテお姉さん、ごめん、ごめん……」
叫び暴れていた私だけど、ふと自分の肩に熱いしずくがしたたってきていることに気づいた。それがカミルの涙であることを理解すると、身体から力が抜けて……私は抵抗をあきらめた。
そして私の予想していた、それは起こった。
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