第265話 初めてのキス

 それから、どのくらいの時間がたっただろうか。お祭りは、まだ続いている。


 お酒の力もあってすっかり陽気になった私は、ヴィクトルにあれこれととりとめのない話をずうっと浴びせっぱなしで、勝手に楽しんでた。お酒をほとんど飲んでいない彼は、はしゃぐ私をずっと微笑んで見ていていたような気がする。


 ふと広場の方に眼を向けると、篝火の灯りが少し落とされて、お年寄りや子供は、もう家に帰ったみたいだった。そうだよね、私のためにお祭りを繰り上げてくれたみたいだけど、村はまだ収穫真っ最中なのだ。獣人さんたちは、明日も朝から晩まで刈り入れ作業にいそしまなければならないのだから、休息が必要だもの。


 だけど体力も気力も溢れている若い獣人さんたちは、まだまだこの祭りを楽しみ尽くしたいみたいだ。広場の中央では若い男女がそれぞれ一列をつくって向かい合い、思い思いに歌を交わし始めた。


「あっ、これは……歌垣ね。私も、初めて見たわ!」


「歌垣って?」


 怪訝そうな表情をするヴィクトルに、私はドヤ顔で説明してあげる。


 「歌垣」は、若い独身の男女に、出会いを提供するイベントなのだ。まず連れ合いを求める若者が、目当ての異性の前に立って恋の歌を捧げるの。そして相手が熱い返歌で受ければ、カップル成立ということになるのだ。ロワールやバイエルンでは見ない習俗だけれど、東方の国では結婚相手を探すために、なくてはならない重要儀式なんだというわ。


 たくましい猪獣人の若者が、華奢でそばかすの散った狐獣人の娘さんの前で一生懸命声を張り上げている。娘さんは頬を染めてうつむいていたけれど、やがて決心したように顔を上げ、大きくはないけれど明るい声で喜びの歌を返している。若者が娘さんの手をがしっと力強く取って、娘さんがその頭を甘えるように若者の胸に預けると、二人はそのまま、明かりの届かない木立の中に消えてゆく。


 あら? これはもしや、そのまま行くところまで……という流れなのかしら。獣人村の恋愛は、なかなかおおらかみたいね。


 そして、おそらく村の未婚女性で一番人気なのであろうジェシカさんの前には、五人の男性が立って、めいめい懸命に愛をささやいている。その美貌に加えて、自らの身を顧みず炎から少女を救った優しさが、村中から賞賛されている彼女だものね。ふさふさとした銀灰色のしっぽが、少し迷ったように揺れているのが、年上だけど可愛い。やがて顔を上げた彼女は、一番のイケメンでもなく、一番屈強そうなマッチョさんでもなく、ごくごく普通の、優しそうな狼獣人さんの手を取り歌を返して……これまでのカップルと同じように、手を取り合って暗がりに消えていった。


 雪豹獣人のペトラさんは、歌垣の群れには参加していない。まあ、そうなっちゃうのは仕方ないよね。彼女は「女の子が好きな女の子」なのだから。じっと広場の隅っこからジェシカさんの姿を見つめて、彼女が若者の手を取って微笑んだのを確認すると、すごく辛そうな表情を浮かべた。はたから見ていても切ないけれど、こればかりはどうしようもないよね。


 ふと気が付くと、テーブルに置いた私の左手の上に、いつの間にか暖かくて大きな、ヴィクトルの手が。びっくりしたけど、とっても気持ちいい……彼の顔に視線をやれば、いつもの優しい眼と違って、珍しく魔獣らしい野性の色を湛えた金色の瞳がそこにある。まるで何かを訴えているような、強い意志を持った瞳が。


 まっすぐ彼の眼を見つめ返すと、ヴィクトルは椅子からゆっくりと立ち上がって、私の手を引いて木陰にいざなった。そう、広場の灯りは、ここまで届いてこない。柔らかい下草の上に彼が上着を敷いて、私をその上に座らせて、その後は強い視線で私の眼を射抜いて、動かない。


 ああ、これはやっぱり、そういう流れになっちゃうのかな。


 覚悟を決めて、少し顔を上向きにして……まぶたを閉じる。熱い息がゆっくりと近づいて、やがて唇に柔らかいものが触れる。最初は遠慮がちに優しく、だけど徐々に大胆に激しく、深く。私の魔力がすごい勢いで吸い取られていくのがわかる……そうか、今までクララもビアンカも、手加減してくれていたんだと、今更ながら理解する。身体からくたりと力が抜けて、思わずヴィクトルにすがりついてしまう。


 長い……とっても長い口付けの後は、もう気力も魔力も全部持っていかれた感じで、私はもう動けなかった。まあ、初めて経験する雰囲気に酔っていたってところもあったんだろうな。もしこの時、ヴィクトルがもう一歩先の段階に進もうとしてきたとしても、流されやすい私はたぶん……拒まなかっただろう。


 だけど、ヴィクトルは魔獣なのに、下手な貴族よりもよっぽど紳士だった。


 彼はぐったりした私にそれ以上のことを仕掛けてくることはなく、立ち上がれるようになるまで、ふわっと抱きしめていてくれた。私が落ち着いたのを確認すると優しく手を引いて、まだちょっとふらつく体をその腕で支えて、その日の宿舎であるフェレンツさんの家まで送ってくれたの。


「おやすみ、ロッテ」


「あ、うん……おやすみなさい、ヴィクトル」


 この時の満足そうな彼の眼を、私は一生忘れないだろう。

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