第204話 抜け殻

 あれから、十日間が経った。


 あの日はヴィクトルにお姫様抱っこされて家に帰ってきたらしい。「らしい」というのは、姉様のことで頭がいっぱいで、記憶がとぎれとぎれだったからだ。


 総督の仕事は、毎日一応……こなしていたと思う。だけど思い返すとそれは、機械的に書類にサインをしていただけだったような気がする。新しいことをやる気で一杯だった先週までと比べたら、がたぼろの抜け殻になってしまっている私だ。


 昼間はそうやって形だけでも忙しく仕事をしているから気がまぎれるけど、問題は夜だ。一人でベッドに入ると、どうしてもレイモンド姉様の顔を思い浮かべてしまう。その豪奢で色濃い金髪に、私を優しげに見つめるラピスラズリの瞳。私の名を呼ぶ柔らかな声、私を抱きしめてくれる豊かな胸と、優しく頭をなでてくれる細くて長くて、白い指。そんなことを空が白むまで考えていたりして……まともに眠れた夜はない。


 寝不足でふらふらしている私をフォローしてくれるのはもっぱら秘書役のビアンカだ。今日もぼんやりしてインク壺に指を突っ込んでしまった私を優しくたしなめながら、甲斐甲斐しくその指を拭ってくれた。だけど、私が落ち着くまで待ってくれようというのか、それ以上は踏み込んでこない彼女なのだ。


 いつもはうるさいくらいに絡んでくるルルも、あれからは遠巻きに私を見つめて、様子をうかがっている感じ。ヴィクトルに何か言われたみたいね。カミルと三人で、妖魔石像狩りに精を出しているようだ。適度に放っておいてくれることは、心が弱ってるたった今、とてもありがたい。


 そして今夜も、真夜中だというのにまったく眠れる気がしなくて何度も寝返りを打つ私の背中に、なじみのある香りと、体温高めの身体が滑り込んできた。


「ふ、あっ……クララ?」


「はい。久しぶりに、ご一緒に寝ませて頂こうかと思いまして」


 そう言って、後ろから私の身体をふわっと抱き締めてくれる。ここんとこみんなへの魔力チャージをサボり気味だったから余分な紫の魔力が溢れかけていたのだけれど、染み出すようにそれがクララに向かって流れていく。背中に押しつけられる適度な柔らかさが、また心地いい。


「クララ……ありがとう。気を使わせちゃってごめん」


 クララは、ここのところとっても忙しい。グスタフ様のリンツ商会とジョイントしたルーカス村の観光開発では、ログハウス高級宿の満足度が成否を分ける。貴族や富裕商人さんを満足させるためには、素朴でありながらも上流のマナーをきちんとわきまえたおもてなしが必要で……それを指導できるのはクララくらいしかいない。そんなわけで週三〜四日は村に詰めないといけない彼女なのだ。


 だけど、週に二晩はアルノルトさんと過ごすようにって、私から言ってある。だってせっかく優しい男性とくっついたのに、黙っていると時間を全部お仕事に使ってしまいそうなクララ。二人きりのあれやこれやをする暇なんて、なさそうなんだもの。


 そうなるとクララが私たちの家……といってもルーカス村の趣深い家ではなく、シュトローブル市街の官舎なんだけど、そこでクララが過ごす夜は、ほとんどなくなっていたんだ。これまでクララがやってくれていた私の世話は、一人で出来るものは自分で、出来ないものはビアンカが引き継いでいる。


「今日は、アルノルトさんと過ごす夜のはずだったんじゃ?」


「そうですね、でも、ロッテ様の様子が見るに堪えないとビアンカに泣かれまして」


「うぐっ……ごめん」


「いいのですよ。『つがい』も大事ですが、私にとってこの世で一番大事なのは、ロッテ様というご主人なのです。それにアルノルトは、一週間や二週間放っておいたって、私を嫌いになんかなりませんよ?」


 うぐぐ、クールが身上のクララだったはずなのに、ナチュラルにのろけられてしまった。普段だったら突っ込みの一つや二つ入れたいところだけど、今の私にはその元気がない。再び黙り込んでしまった私の首筋に、不意にざらっと湿った感触が。


「ひゃん!」


 思わず普段出ないような声を上げて振り向いた私に、してやったりというような表情を浮かべるクララ。


「ロッテ様は、心が傷ついておられるのです。だから、獣の癒しを、して差し上げますわ」


 そう言って今度は、私の鎖骨のあたりに唇を落とし、ざらっとした舌を這わせてくるの。その鮮烈な感触に驚いて思わずクララの頭を抱え込んでしまう私に、彼女はゆっくりと話しかけてくる。


「一番大事に思っておられるレイモンドお嬢様を亡くされ、ロッテ様が悲しんでおられることは、承知しております。私やビアンカ、そしてヴィクトルさんやカミルが心配しているのは、そんな悲しみの中で、ロッテ様が涙を一回もお見せにならないこと。あんなに泣き虫なロッテお嬢様ですのに」


 そう言いながら、今後は舌を鎖骨から首、そして耳に移してくる。ぞわっとした感覚が走って、思わず背筋を反らしてしまう。


「ふわっ、それはちょっと……」


「まあ私も、アルノルトにあれこれ試されていて……って、申し上げたいのはそこではございませんね。ねえロッテ様、悲しみに耐えて公務をこなされる貴女様はご立派です。でも、このままでは心が壊れてしまいます。今のロッテ様には、想いのままにお泣きになることが必要なんじゃないかと思うのです。私の胸で、泣いては頂けませんか?」


 クララの濡れた翡翠色の瞳が私を見つめる。その眼を見ていたら、あの日以降忘れていたものが私の眼からもあふれてきてしまった。結局私は、クララのちっちゃい胸に顔をうずめて、最初は静かに、最後は声をあげてわんわん泣いてしまった。この十日間泣かなかった分を、一気に吐き出すように。

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