第176話 デブレツェンの事情

 ヴィオラさんの話が終わるころ、泣き虫の私は例によって盛大に涙を流していた。


 だけど当事者のビアンカは、泣いていなかった。少し目尻の下がったおっきなエメラルドの眼をちょっとだけ優し気に細めると静かに立ち上がり、ヴィオラさんの首に両手を回して、ぎゅうっと抱きしめた。


「お母さん、ありがとう。私を産んでくれて。私が生まれたことを喜んでくれて。お父さんを愛してくれて。そして、お父さんとお母さんのお話を、聞かせてくれて」


 その言葉に、ここまで毅然としていたヴィオラさんの涙腺が切れてしまったみたい。すっかり大きくなったビアンカの胸に顔をうずめて、小さく嗚咽の声を漏らしている。そうよね、そんなに好きだった旦那様に「何かあった」であろうことを、今日初めて知らされたのだもの。


「うぅ、あ……ディートハルト、生きていて、欲しかった……」


「あらお母さん、お父さんは死んでいるとは限らないわ。事実は私が奴隷として売られた、つまりお父さんの保護から引き離されたということだけ。私はバイエルンでお父さんの消息を探してみる。貴族の家に生まれて賢者の称号を持っていたのなら、きっと多くの人が覚えているに違いないわ。生きたお父さんに会える可能性は低いかも知れないけど、必ずお母さんに結果を知らせるわ、待っていて」


 ビアンカがきっぱりと言い切る。私はちょっと驚いていた、だって彼女はいつも周りの気持ちを優先して、自らの意志を前面に出すことなんて、ほとんどなかったのだもの。お母さんをなだめる気持ちが半分くらいあるのかもしれないけれど、彼女が自分の生きる目標をこんなにはっきり口にするのは、初めてだ。


「あれ? ビアンカは、バイエルンに戻ってくれるの?」


 思わず私は突っ込みを入れてしまう。だって、あれだけ想っていたお母さんと会えたのだから、これからは一緒に暮らすのではないかと、なんとなく考えていたんだもの。


「はい? だって私の家族は、ロッテお姉さんや、カミルですからね!」


 明るく切り返されて、私は言葉を失ってしまう。バイエルンに帰ってしまったら、もう会えないかもしれないんだよ?


「ええ。お母さんとはもう、離れても心がつながっていますから。だからこれからの生涯では、私を家族として守ってくれたロッテお姉さん、そしてお姉さんが産むであろう子供を守っていくことが、私の役目です」


 泣かせるコメントにちょっとじわっときつつ、私はヴィオラさんに思わず眼をやってしまう。せっかく再会した娘をいきなり手放すなんて、辛くないのだろうかと。


「うん? ああロッテちゃん、私のことを気にしてくれてるんだね。ありがとう、でも大丈夫だよ? 魔獣っていうのは家族が自分のもとにいることよりも、家族が一番幸せになるであろう道を、選ぶものなんだよ。ビアンカはロッテちゃんと一緒にいた方がいい。いや、いるべきなんだ」


 その眼はまだ少し濡れているけれどすっきりした表情になったヴィオラさんが、優しく言葉をかけてくれる。確か、ルルのお母さんもそんなことを言っていたよね、肩に眼をやると、さっぱり身体の成長がないルルが、私をくりくりの瞳で見つめてる。


(ルルも、コカトリスの母さんとは心がつながってるよっ。でもルルのママは、ロッテママだからねっ!)


 うわっ、なんてかわいいこと言うの、この子は。嬉しくて、思わずルルに頬ずりしてしまう。ヴィオラさんも、もう一度今度は笑顔で、ビアンカの胸にぎゅうっと顔をうずめる。私の家族たちは、それを優しい視線と笑い声で包んでくれていた。


◇◇◇◇◇◇◇◇


「まあ、最近この森もいろいろ大変でね。そもそもビアンカを住まわせるなんて危なくて、できたもんじゃないのよ」


 クララが気を利かせて淹れてくれたお茶を頂いてすっかり落ち着いたらしいヴィオラさんが、何やら物騒なことを言い出す。ビアンカがすかさず受ける。


「お母さん、いろいろ大変って何?」


「うん、私がこの森に戻ることになった理由は話したわよね。族長たる父と後継者の兄がいっぺんに死んでしまったこと……」


「ええ、十二~三年前のことなのよね」


「あれは、アルテラ帝国軍の侵攻によるものなのよ」


 うわぁ、ここでも障害はアルテラ軍なのか、げんなりだ。


「デブレツェンの森は長らく利用価値が薄く、サーベルタイガーが占拠する危険なエリアとして人間たちは忌避してきたのだけれど……アルテラの連中は良い意味でも悪い意味でも前向きみたいなの。探索隊を繰り出してあれこれ調査したら、どうも私たちが住まうこの丘の近辺から、良質な鉄鉱が採れることがわかったらしいんだよね」


 戦闘民族たるアルテラにとって良質の鉄は、まさに垂涎の的だ。さっそく大規模な採掘隊が派遣されたけれど、サーベルタイガーの一族が自分たちの領域でそんなことを許すはずもなく、あっさりと蹴散らされた。だけどそこで諦めないのがアルテラ人であるらしく、次は重装歩兵を主体とした正規軍を護衛として付け、数千人規模の人間を送り込んできた。


 ヴィオラさんの父たる族長は再度立ち向かったけれど、鋭い爪と牙で敵を切り裂くサーベルタイガーにとって、鋼の武装で護られた重装歩兵は天敵だ。虎たちは果敢に立ち向かったけれど次々と討ち取られ、敗北は時間の問題になってしまったのだって。


 だけどサーベルタイガーには、捨て身の必殺業があった。高位の虎がすべての魔力と自らの生命を犠牲にすることで、取り巻く敵をすべて屠る、禁断の業が。ヴィオラさんの父と兄が相次いでそれを行うことで、さしものアルテラ人たちも九割を超す被害を出して撤退せざるを得なかった。宝玉が透明になってヴィオラさんが森に帰ったのは、ちょうどこの頃だったみたい。


 ヴィオラさんは残ったサーベルタイガーをまとめ、コミュニティを素早く立て直した。アルテラ人たちが再度押し寄せる懸念もあったのだけれど、人間たちも被害の大きさにひるんでしまい、鉄鉱開発の話は一旦保留になってしまったみたいで……そして十年ちょっと、危うさを含みながらも森は平穏を取り戻していた、というのが、ヴィオラさんが語ってくれたことだ。


「だけど、どうもアルテラはいよいよ、本気で鉄鉱を奪いに来るようなんだよね。ここのところ数人規模の準備隊が来ては、木を伐ったり杭を打ったりしている……都度蹴散らしてはいるけどね。もう一度大軍を送り込まれたら……捨て身の業が使えるのはもはや私だけ。運よくそれで敵を一時的に追い払えたとしても、私の後を継ぐものはもういないのよ」


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