第175話 ヴィオラの恋 賢者ディートハルト(3)
私たちの距離は、戦いを共にすることでもっと近づいた。人間たちは吊り橋効果っていうらしいけど、一緒に危険を潜り抜けることで不思議な共感が生まれるって言うか、とにかくそういう感じだったのよ。
そんな成り行きもあって、二人の仲は、いつしかもう一歩進んだ。朝晩の口づけによる魔力チャージだけでなく、その先まで……ね。人間という生き物は繁殖期でもないのに年中そういうことをするって聞いて不思議に思っていたのだけれど、やっとその理由が分かった。だってそれは、すごく素敵なことなんだもの。
そうやって夜毎その新しい交流手段に夢中になっていれば、当然というか自然にと言うか、私も身体の変調に気づく時が来たの。そう、おなかにビアンカ、あなたが宿ったのよ。
女の子の姿をしていても私は魔獣だ。子供ができたなんて言ったらどんな反応をされるだろうと不安だったのだけれど、彼は意外なくらいものすごく喜んでくれた。
せっかく始めた討伐のお仕事もびしっと止めて、とにかく私の身体に負担がかからないように、何でもかんでも世話を焼いてくれた。サーベルタイガーは子供を産む直前まで狩りだ何だと動き回ってるんだから、そこまで気にすることないのにと思いながらも、彼の喜びと気遣いが嬉しくてたまらなかったの。
そして彼は賢者らしく、いにしえの文献を漁っては、まだ当分は生まれない子供の名前を必死で考え始めた。それも、女の子の名前だけをね。男の子の可能性なんて、考えてもいなかったみたいなの。数十冊の分厚い書物をひっくり返していにしえの女神や勇敢な女王、稀代の美姫の名前なんかをさんざん吟味した挙句、ごくごく平凡だけど可愛らしくて可憐な名前に落ち着いたの……ビアンカという、ね。
やがて月が満ちて、私はあなたを産んだ。彼はああだこうだと余分な準備をしたがったのだけれど、私が希望したのはたった二つだけ、虎の姿で赤ちゃんを産みたいこと、そしてその時彼に傍にいて欲しいこと。結局心配性の彼が癒しの魔法とかをばんばん使いまくったせいでとっても楽な出産になってしまったのだけれど、赤子とは思えない整った顔のてっぺんにぴこっと可愛らしく自己主張する虎耳に感動して、思わず涙が出てしまった。
ビアンカとの生活は、毎日が新しい発見ばかりだったわ。私はもちろん人間の……あ、獣人だけどね……赤ちゃんの扱い方なんてまったくわからない。そして、すべてを知っているような顔をしていた賢者の彼も幼い子供に関する知識は、私とどっこいどっこいだった。寝かしつけ方とか汗疹の処理なんて、賢者の魔法書に載っているわけもなく……彼は何度も最寄りの村に駆けて行っては、農家のおばさんに助けを求める羽目になるのだった。でもあれは本当に、本当に楽しい時間だったのよ。
だけど、その幸せな時間は、ある日突然終わってしまったの。
私はリビングでくつろぎ、ビアンカにお乳をあげていた。そこにものすごい音を立てて、彼が飛び込んできた。その顔は、紙のように白くなっていた。
「ディートハルト、どうしたの? ビアンカがびっくりしてしまうわ?」
「ヴィオラ、これは……」
「あっ……」
彼がその手に持っていたのは、私が故郷の森を出るときに持たされた宝玉。それは深い碧色を湛えていたはずだったのだけど……いまやその色彩は失われ、生粋の水晶であったかのように無色透明に変わっているの。
「なんで……なんで今……」
その宝玉の色が消えたということは、デブレツェンの森から正統な後継者が失われたということ。つまりは私の父と兄が、死んだということだ。そして、私が森を出る条件として父と約束したこと、それは「宝玉の色消えた時、疾く帰る」。
彼もその事情を、全部知っていたの。そして魔獣にとって一旦交わした契約は、絶対に破ることができないものであることも。
「ビアンカを、どうすればいいの?」
当惑のあまりそう口にしてはみたけれど、冷静に考えれば生まれて三ケ月程度のビアンカを、はるか遠く道程も険しいデブレツェンに連れていけるはずもない。もし連れていけたとしても、向こうは族長父子が失われ、混乱の極みだろう。おそらく生命のやりとりをせねばならないところに、愛する娘を伴うわけにはいかない。
「私が……一人で行くしか、ないよね……」
わかっていたんだ、その結論しかないことを。そして一旦デブレツェンに戻ったら、二度とバイエルンに……ビアンカと彼のもとには、決して帰れないであろうことも。
◇◇◇◇◇◇◇◇
無理やり心を落ち着かせた私は、彼と今後のことを話し合って決めた。私以上に混乱していた彼だったけれど、出した結論は私と同じだった。彼がビアンカを引き取り、立派に育てると。
賢者と称えられながらもいろいろ複雑な人間関係がイヤになって隠遁生活を送っていた彼だけれど、実は貴族階級に属する者だったらしいの。別に隠していたわけではなく、私がそういうものにさっぱり関心がなかったから、話題にならなかっただけね。
彼は娘の人生に選択肢をできるだけ多く与えるため、王都に戻って姿勢で暮らし、きちんとした教育を受けさせようと考え始めていたの。学校なんてものに行かせるのが幸せにつながるんだろうかと思わなくもなかったのだけど、ビアンカの今後に責任を果たせるのは彼しかいない。「賢者」の彼が間違った判断をするわけもないと、私は黙ってうなずいた。
うん。彼……お父さんと、ビアンカについて私が知っていることは、ここまでよ。
だけど、ビアンカが奴隷に売られたということは、彼……ディートハルトの身に、何かとっても悪いことが起こったということなのよね。
ビアンカ……子供だった貴女にそんな苦労を掛けて、本当にごめんなさい。多分私の選択が間違っていたのだと思う。許してもらえるとは思わないけれど、ビアンカの望むことなら、今からできることはなんでもする、約束するわ。
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