第173話 ヴィオラの恋 賢者ディートハルト(1)
私がデブレツェンの森を出たのは、もう十五~六年前になるんだね。懐かしいな。
この森に住まう私たちサーベルタイガー一族の生き方は、この数百年何にも変わっていないシンプルなものだったの。
縄張りを守り、獲物を狩り、先祖を敬い、子を育てる、ただそれだけ。私の父である族長も、その生き方をいにしえより定められた当たり前のこととして受け入れ、何も変えようとはしていなかったんだ。
だけど私は疑問だったの。この世に我が一族しかいないのならそれでいいかも知れないけれど、この森を取り巻く世界は常に動いているわ。外界の動きが森に対し、未来永劫影響を与えないとは、とても言い切れないのではないかと。実際に数十年前、森に隣接する旧王朝があっさりと滅び、精悍な騎馬民族がアルテラなる帝国を建てたことだけは、世情に疎い我々にも伝わって来ていたこともあるし。
だがその考えを父や、後継者たる兄に訴えても、不思議な顔をされるだけで相手にされなかった。そもそもこの森に、私が言う「外の世界」なんてものを見たサーベルタイガーはいなかったのだから、それを想像してみろと言っても無駄だったのかも知れないわね。
それならばと、私は森を出て外界の様子を見聞したいと父に願ったの。父はかなり渋ったけれど、兄が説得に協力してくれたこともあって、ようやく折れてくれた。但し碧色の宝玉を一つ与えられて、条件をつけられたんだ。
(この宝玉の色が消え透明になりし時は、疾く帰ることを約束せよ)
(それはどういう意味なのですか、父様?)
(宝玉の碧は、この森を統べるサーベルタイガー一族の長たる血族の印なのだ。その色が消えるのは、正統な後継者が失われることを示すからな。まあ、この森に限ってそんなことはあり得ぬのだが)
その時は、私もそう思っていた。だから喜んで早速森を出て、人間に混じって暮らせそうな里を探したのだけど……そんな都合のいい村も街も、当然ながらなかったわけよ。
魔獣と人が助け合って暮らしていた村は、かつて確かに存在したんだ。だがそれは数百年前のこと……すでに世界は大きく変わり、人間たちは魔獣を恐れ排斥し、獣人すら手ひどく差別するようになっていたんだ。そんな情報すら、時間の止まっているようなデブレツェンの森には、伝わってきていなかったのだよね。
仕方なく私は人里を避け、森の魔獣たちから情報を集めつつ西へ旅し、人間がバイエルンと呼ぶ国に入ったわけよ。
◇◇◇◇◇◇◇◇
バイエルンに入ると獣人たちの扱いはそれほど悪くなさそうに見えたけれど、やはり魔獣と交流する人間はいないようだった。仕方なく私は、最後の手段を使うことを決めたの。
それは姿を人間に変える「人化」。見た目は完全な人間になれるけれど、ものすごい魔力を持っていかれるから、デブレツェンでは父と私しかできない業だったの。そもそも人間との交流がなくなったあの森では不要の業だったわけなのだけど、人間と関わりその考えや技術を知りたい今の私には、必須技術よね。
いきなり人里で人化を試すわけにはいかなかった。そもそも着る服すらないし、どれほどの時間人化が維持できるものかもわからないから。服はどこかで失敬するしかないけど、何回か練習して持続時間くらいは知っておく必要があるわけよね。
私は森の中で清冽な湧き水が小さな池をつくっているところを見つけ、そのほとりで精神を集中した。ほどなく私は亜麻色の髪にはしばみ色の瞳を持つ、若い乙女の姿となったわ。自分で言うのもなんだけど、水面に映る姿に、思わず言葉を忘れて見とれてしまうほどの美少女だったなあ。
いろいろ角度を変えては自分の人型を夢中で鑑賞していた私は、うっかり周囲の警戒を緩めてしまっていたらしいわ。かさっという音に眼を向けた私は、そこに若い人間の男性が、目を丸くして呆然と突っ立っていることに、遅まきながら気付いたんだ。
「き、君は……」
「きゃあぁぁ!」
うん、私たち魔獣は、普段から何も身にまとっていないし、その姿を人間に見られようが、どうということはないわ。だけど、いつも自分の身を守ってくれている毛皮がない無防備な状態を見られるってことがこんなに羞恥心を呼び起こすものとは、この時初めて知ったんだ。
人間の前で獣に戻るわけにもいかず、身体を丸めて肌が露出する部分を必死で少なくしようとする私に慌てて背を向けて、その男性は何やら一生懸命弁解をしているようだった。ようだった……というのはもちろん、私が大陸公用語をまったく知らず、彼の言っていることが理解できなかったから。
やがて彼も、私がさっぱり人語を解しないことに気付いたらしいの。遠慮がちに近づいてくると、身振り手振りで何かを訴えはじめたわ。
彼のボディランゲージはわかりやすく、どこからきたのか問うていることが分かった。私はだまって、東を指さした。次に彼はぴたぴたと自分の腕や胸をその掌で叩き始める。きっとこれは、服はどうしたと聞いているんだろう、私は首を横に振ったの。人間は否定の意思を示す際にこうするということは学んでいたから。
少し困った顔をした彼だけど、すぐ自分のマントを脱いで、私の肩に優しくかけてくれたわ。ほっと息をつく私にやわらかな視線を向けた彼は、自分の胸に左手を当て、右手で私をいざなうようなポーズをとった。これは、彼の住処に招いてくれているのだろうか……若干の危険を感じないでもなかったけれど、私はその誘いに応じることにしたんだ。
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