第171話 族長ヴィオラさん
ビアンカは、虎さんの首をがっしり捕まえて決して離そうとせず、まだえぐえぐと声を上げて泣いている。感情を抑えつけることに慣れた彼女のこんな姿を見るのは、初めてだ。
「ねえビアンカ、サーベルタイガーさんはたくさんいるし、この虎さんがお母さんとは……」
「いいえっ! 私も魔獣の血を引く者です、自分の血族は絶対に間違えません。会った瞬間にわかりました、私の……お母さんですっ」
(あのっ、サーベルタイガーのお姉さん。貴女が、この子……ビアンカのお母さんだっていうのは、本当なのですか?)
感情の海に溺れているビアンカをこれ以上問い詰めるのもためらわれ、私は直接念話で虎さんに話しかける。これなら、ビアンカに聞こえないはずだしね。
(あ、ああ、うん……まさかと思ったが、確かに間違いないようだ。私と賢者ディートハルトの娘、ビアンカだ……バイエルンの王都に暮らしているとばかり思っていたのに、なぜこのような辺境に)
あら、やっぱり本当なんだ。一緒に暮らしてなくても一目見て親子だってすぐわかるなんて、やっぱり魔獣の絆ってすごいな。これからビアンカのお母さんを探すのは大変だなあと思っていたのに、いきなり旅の目的を達成してしまったわ。達成したというより、向こうからやってきただけなのだけれど。
(この子は、バイエルンから奴隷としてロワールに売られる途中で、私たちと出会ったのです。もう、私たちの家族と言っていい存在ですけど……口には出さなかったけれどお母さんのことをどうしても知りたいみたいで。ルヴィエの森を統べる族長からここの噂を聞いて訪ねてきたのです)
(噂とは?)
(十五、六年前にデブレツェンの森に住まうサーベルタイガー族長の娘が姿を消したのだと。その虎は強い魔力を持ち、おそらく人化して……人とつがって子を生すこともできるだろうと)
(たったそれだけの情報にすがってここまで道なき道を訪ねてきたか……)
お母さんはそのもふもふしたほっぺたで、ビアンカに優しくすりすりする。ああ、うらやましい、私もそれ、やって欲しいわ。
(お嬢さんたち。まずは、娘をここまで連れてきてくれたことに感謝する。私たちサーベルタイガーの森へようこそ、まずは我が拠点においで頂こうか)
◇◇◇◇◇◇◇◇
ここデブレツェンの森でも、サーベルタイガーの拠点は、岩山に穿たれた洞窟だった。ヴィクトルの言う通り、虎さんたちはこういう地形が好きなんだね。
ヴィクトルの一族が棲んでいた洞窟と同じように岩洞の中には天井の高い広間がいくつもあって、そのもっとも奥まった一間が、ビアンカのお母さんが暮らす場所になっているらしい。
(ちょっと待っておれ)
そう言って部屋の奥に張られたカーテンの中に入っていったお母さんが、なかなか出てこない。でものぞくのはルール違反だよね。うずうずしながら待っていると、かすかな衣擦れの音とともに、青いふわっとした生地のワンピースをまとった二十代前半くらいに見える人間の女性が、ゆっくりとカーテンの向こうから出てきた。亜麻色の髪に、キュッと目尻が上がったはしばみ色の眼、思わず見とれるほどきれいなあごの線、そして女性にしては珍しい長身。あら、この岩山には、虎に混じって人間も住んでいたのかな?
「何を考えておる。私がビアンカの母であり、この森の族長、ヴィオラだ」
それは落ち着いたアルト。鈴を鳴らすようなビアンカの声とは、ずいぶん違うんだな。
「え? では、人化を?」
「驚くこともあるまい、そこのヴィクトルとかいう雄虎も、人化できるのだろう? そもそも人化ができねば、人間の男とつがいようもない。ビアンカが生まれたということは、そういうことであろう?」
確かにそうだけど……さらっと人化ができるってのは、サーベルタイガーの中ではずば抜けた魔力を持っているということ。さすがは族長の娘……そうだ、今は自身が族長なんだっけか。そして彼女は、ビアンカの方に向き直って近づき、その肩を抱く。
「ビアンカ……そなたは人間の社会で幸せに暮らしているとばかり思っておった。それなのに、奴隷として売られるところだったと聞いた、苦労を掛けてしまった……この至らぬ母を許して欲しい」
「いいえ、いいえ……私は、お母さんに会えただけで幸せです。ずっと、ずっとお母さんの姿を夢に見てきたのですもの」
「物心つく頃にはすでにそなたから離れてしまっていた、悪い母だが……」
「いいえ、私を生んでくれたお母さんとお父さんですもの、悪い人のはずはありません。離れることになったのも、理由があってのことに違いないです。ねえお母さん、お父さんの話も、聞かせてください!」
必死に言い募るビアンカに、きりっと目尻の上がった凛々しい眼を優しげに細めるヴィオラさん。こんな大きな娘がいるとは思えないほど若々しい……けど、ヴィクトルだってあの見た目で四十歳を超えていたのだ、ヴィオラさんだって実際は……考えるのが怖い。
「うん、今晩は夜通しそなたと話していたいところだが……私の魔力ではそれほど長く人型を維持することができないのだ。寝床に入るころには、また虎の姿に戻ってしまうから、言葉が通じなくなってしまうだろうの」
それを聞いたビアンカがいきなり振り向いて、私をキラキラした碧の眼で見るの。うん、何を考えているかは、よくわかるよ。できればそれは、避けたかったけど。そしてヴィオラさんも、ビアンカの意図していることに気づいたらしい。
「ほぅ……そなた、名を何と言ったかな」
「ロ……ロッテです」
いきなりギラギラと光を放ち始めるはしばみ色の眼に射すくめられてしまったかのように、びびり気味の私。だって何か、食べられちゃいそうな雰囲気で迫ってくるのだもの。
「ふむ、ずいぶん美味しそうな紫の魔力を溢れさせているではないか。私とビアンカを夜通し語り合わせてくれるために、その魔力を分けてくれようというのかな?」
「は、い……ご希望とあらば。それでは、手を握って……」
「そんなことより、効率の良い方法があろうよ」
そう言ってヴィオラさんは、ずかっと一気に距離を詰めてきて、後ずさりしようとする私の肩をがっしり掴んで、もう一方の手は私の髪にためらいなく触れる。
……ああ、やっぱり、この流れになっちゃうわけね。
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