第2話 面接まであと15分。
そういった経緯が昨日ありまして、私、菊川桜は今兎川オフィスがあるはずの場所に来ております。
時間は午前10時30分。約束の時間の30分前だ。幾度もの就活戦争を駆け抜けている今や相棒ともいえるクタクタのスーツ&ヨレヨレのシャツ。踵がすり減ったローヒールのパンプス。生まれたままの黒髪にきゅっとくくった大人しめの一つ括り。ちなみに髪の長さが足りないため、まるで結んだ先はツバメの尻尾のようだ。
使いすぎて持ち手の糸が解れつつあるキャリアウーマンバッグ。悪い顔色を隠すためにプチプラ化粧品で何とかカバーしたメイク。ザ・就活落ちこぼれ組スタイルの私。でもしょうがない。スーツもシャツもこれしかないのだから。新しいパンプスを買う余裕なんて私にはない。これで勝負に出るしかないのだから。
名刺にもう一度目を通してみる。住所はここで合っているはずだ。目の前にあるのは清潔感のある綺麗なオフィスビル。ただ、このオフィスビルに入っている会社の一覧に『兎川オフィス』という文字が見当たらない。住所はここで合っているはずなのだけれど。携帯電話の地図アプリでもここのあたりを指しているから間違いないはず。
「どうしよう。」
首を傾げていると、後ろから大きな声が聞こえた。
「すみません!避けてくださいー!」
「へ?」
後ろを振り向くと、猛スピードの自転車がこちらに向かってくる。どんどん近づいてくる自転車。
いつも思っていた。衝突事故なんて自分が急いで避ければ大丈夫なんじゃないかって。
でもそんなことはない。人間本当の危険にさらされた時、声も出なければ体も動かないのだと。私は今、身をもってそれを知ったのだ。頭は動いているはずなのに体が動かない。
あともう少しで衝突する。
その時だった。
どこからか飛んできたゲームソフトのケースのようなものが自転車の車輪に命中し、自転車は大きな音を立てて私の目の前で横転した。カラカラとタイヤが回っている。
自転車に乗っていたのは青年だった。私と同じくらいだろうか。横転した勢いで彼は数メートル先まで滑るように転がった。かなりの衝撃だったはずだ。怪我もきっとしているだろう。すぐにでも安否を確かめたかったけど、私の体は先ほどの恐怖でガタガタ震えており、動くことが出来なかった。
そんな中、心配をよそに青年はゆっくり起き上がると、服に付いた汚れをパンパンと払い、私に向かってペコリと頭を下げた。
「すみません。お怪我はないですか。」
「え、あ、その。」
「ちょっと失礼しますね。」
青年は私に歩み寄り、上から下までじっと見ると、両手で私の肩をポンポンと軽く叩いた。予想外の事態に私の体はより一層固まるばかりでさらに強張った。そんな私を他所に、青年は安心したようにホッと一息つくと改めて深々と頭を下げた。
「お怪我は無さそうですね。しかし怖い思いをさせてしまいましたね。申し訳ありません。」
「えっと、はい。」
「お詫びに何かさせてください。」
「だ、大丈夫です。」
「そう言わずに。」
彼は私の両手を取った。何となくこなれた感じがしている。早くこの場を切り抜けるには…私はあまり働いていない頭をフル回転させて考えた。そして出た言葉が。
「あの、ここら辺に兎川オフィスって会社があるはずなんですけど…知りませんか?」
青年は驚いたように目をぱちぱちさせると、握っていた両手を離して、パチパチと拍手をした。
「もしかしてですけど、あなた、菊川桜さんじゃないですか。」
「え?」
私の驚いた顔をみて、彼はニヤリと口角を上げた。
「あたり、ですね。わー、こんなところで合えるなんて運命的ですね。僕とあなたの素晴らしい出会いに乾杯、と言いたいところですけど生憎僕はお酒が苦手でして。あ、これは内緒ですよ。社長と同僚しか知らないことになってるんで。」
「はあ…。」
「じゃ、行きましょうか。」
彼は私の手を優しく、でも少し強引に引いた。
「ちょっと待ってください。何なんですか?どこに行くんですか。なんで私の名前を知ってるんですか。」
「たくさんの質問ありがとうございます。いやー、僕に興味を持ってもらえて嬉しい限りです。」
この人、ずれてる。私も今まで結構ずれてるだの、君の考えは分からないだの言われてきた方だけど、この人の方が格段にずれている気がする。
「到着です。じゃーん、ここが兎川オフィスですよ。」
案内されたのは1分も歩いていないくらいの距離。丁度さっき見た綺麗なオフィスの裏手側だった。彼が両手を広げた先にあるのは。
「家?」
一軒家だった。しかも古民家、という言葉がしっくりくるような趣ある二階建ての一軒家だった。どう見ても会社には見えない。今にもおばあちゃんが出てきそうな家である。
「ささ、どうぞ。」
「ちょっと待ってください。ここが兎川オフィスなんですか。」
「そうですよ。」
「あなたは?」
「あ、申し遅れました。僕は兎川オフィスの社員の小湊文人といいます。漢字だけ見ると、ふみとって呼ぶ人が多いんですけど、正しくは、あやと、と読みます。よろしくお願いします。」
「あやとさん。」
「はい。よくできました。さあ、上がってください。スリッパはこれを使ってください。」
小湊文人、と青年は名乗った。見た目は好青年。大きな瞳が特徴的でアイドルにいそうな整った顔立ちである。割と日陰な生活をしていた私にはまぶしすぎるキラキラスマイル。人懐っこい感じで、女性に対して紳士的というか、エスコートが上手いというか、相手が考える隙を与える前に動くというか、もっと簡単に言えば誘導されているというか、こうなんというか。
「こなれてる?」
「僕がですか?」
「え、あ、その、すみません。」
しまった。思ったことがどうやら口に出てしまっていたようだ。文人さんに申し訳ない。
「こなれてる、ですか。」
文人さんはクスクス笑うと、たまに言われます、と付け足した。
「人と接する仕事が多いのと、どうも人をおもてなししたい気質と言いますか、だからこなれた感じになってしまうんでしょうね。気を悪くされていたらすみません。」
「いいえ、そんなことは。」
「良かった。では、スリッパをどうぞ。」
私の目の前に出されたスリッパはえらく可愛い猫型のモコモコしたスリッパだった。誰の趣味だろう。社長の趣味だろうか。文人さんが履いているスリッパはペンギン。そして玄関のスリッパ立てには、あと兎とメガネ柄のスリッパが立てかけられていた。ウサギ柄はなんとなく社長さんのものなのかな、と思うけどこの動物ラインナップの中メガネ柄って何なのだろう。思わず突っ込んでしまいたい気持ちを抑えつつ、私は案内されるままに猫型スリッパをはいた。モコモコした感触がとても柔らかくて思わず顔が緩む。
「それ履き心地いいでしょう?」
「ええ、とても。」
「良かった。少し緊張ほぐれたみたいですね。それでは社長の部屋まで案内します…って、あれ?出かけてるのかな。」
文人さんが襖をあけると、そこには誰もいなかったようで、玄関へ戻っていった。どうやら靴がないことを確認しているようだった。少しして、戻ってくると。
「申し訳ありません。今社長出かけちゃってるみたいです。少しお待ちいただいてもいいですか。」
時計に目をやると、ただいまの時間10時45分。約束の時間まであと15分もある。
「いえ、約束まではまだ時間がありますし、こちらこそ予定より早く来てしまい申し訳ありません。」
「いえいえ、早めに行動することは大事ですよ。じゃあ、こちらでお茶でも。あ、コーヒー飲めますか?」
「はい。」
「良かった。ではこちらへどうぞ。」
案内されるままに歩く。外見は古民家であるが、中身は風情ある趣は残しつつも、所々リフォームされており、手入れが行き届いている様子がうかがえる。ちなみに外見相応やや広めの民家だ。
少し歩くと、広い応接室のような部屋に通された。対面しているソファー。その間に置かれているテーブル。テーブルの上には可愛らしい観葉植物が飾られていた。文人さんに言われるままにソファーに座り、私がキョロキョロと室内を見渡している間に、文人さんはコーヒーを用意してくれたようで、私の前にお茶菓子のクッキーを添えて用意してくれた。
「あの、ここってどういった会社なのでしょう。」
「そうですね、うーん、上手く説明するのは難しいですけど、楽しい会社ですよ。お給料も良いですし。」
「そうなんですか。」
「詳しいことは社長から聞いた方がいいかと。あっ、ごめんなさい。あまり説明できなくて。」
「いいえいいえ。そんな。こちらも面接していただく身なので余計なことを聞いてしまって申し訳ありません。」
立ち上がり、ペコペコ頭を下げると、文人さんはそんなに頭を下げないでください、と慌てて私を座らせた。
「そうだ、コーヒー、冷めないうちに飲んでください。」
「そ、そうですね。すみません。」
ソファーに座りなおして、コーヒーを手に取ろうとした瞬間だった。私のコーヒーが宙に浮いた。否、私のコーヒーが誰かの手によって持ち上げられた。
後ろを振り向くと、そこにいたのは文人さんではなく、キラリと光るメガネが特徴的な青年だった。彼は私に淹れられたはずのコーヒーを一口飲むと、目を瞑って大きくうなづいた。
「うん、文人の入れるコーヒーは格別だな。」
「文人さん、だろ。」
「良いじゃないか細かいことは。細やかなことはメガネだけで十分。そんなことより見てくれこのメガネを。美しく、精錬されたフォルム、色、格別だろ。君もそう思わないかい?」
彼はコーヒーカップを片手に私の顔を覗き込んできた。
「あれ?君は?」
「わ、わたくしはっ」
多分この人も兎川オフィスの人だろう。会社の人にはまず挨拶をしなければ。私は勢いよく立ち上がった。その拍子に、私の頭はメガネの青年がもつコーヒーカップに勢いよく激突した。
もう想像できるだろう。私の頭には熱々のコーヒーが降りかかった。
「熱っ。」
「うわ、馬鹿じゃないか君は。文人、タオル。」
「言われなくても!」
文人さんの投げたタオルを空中で見事キャッチしたメガネの青年はそのままタオルを広げて私の頭を拭いた。折角気合い入れて括ってきた髪の毛はもうぐしゃぐしゃだ。おまけに気合いの入ったメイクはボロボロ。スーツにもコーヒーが飛んでいる。
見事な小汚い女子の完成だ。こんな姿で面接なんて、あきらめた方がよさそうだ。何してるんだろう私。呆れて笑いさえ出てくる。ほら、やっぱり駄目じゃん就活。リカ、私には無理みたい。
「おい、君。どうしたんだよ……笑ってるのかい?」
「そうじゃない。彼女は泣いてるんだよ。馬鹿。」
「へ?」
自分でも気づいていなかった。乾いた笑いと同時に私の頬にはいつの間にか涙が伝っていた。
「すみません。折角の面接の日なのにご迷惑おかけして。私帰ります。失礼しました。」
情けないわ、悲しいわ、恥ずかしいわで私は鞄を持って帰ろうとした。
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