洗面所にパラレルワールドがあった話

綿貫 ソウ

第1話

 朝起きて、憂鬱な気分で制服に着替え、軽い朝食を食べてから洗面所に立つと、目の前の鏡に〈僕とは別の誰か〉が映っていて、僕はそいつに話しかけた。


「だれだよ、おまえ」


 いつもなら、この鏡に憂鬱な顔をした高校生が映ってるはずだった。でも今日は違った。


「おまえこそだれ?」


 鏡に、〈僕とは別の誰か〉が映っている。

 そいつは僕と同学年くらいの男で、僕と同じ場所に泣きぼくろがあって、僕と同じような顔をしていた。つまるところ僕と似ていた。でも着ているのは違う高校の制服だった。

 

 鏡には結露した水滴がついていて、それが正確に映す妨げになっているかもしれなかった。部分的ではあるけど、曇っている箇所もあった。でも確実に、目の前に映る〈誰か〉は僕ではなかった。


「おまえ」


 鏡の向こうから声。

 〈僕に似た誰か〉は言った。


「俺に似てるけど、微妙に違うな。メガネかけてるし、猫背だし、なんか目つきわるい」

「……うるさいな。そんな言うなよ」僕はイラついて言った。

「傷つけたなら謝る。でも、君は誰なんだ? 俺とそっくりじゃないか」

 

 〈僕に似た、目つきの悪くない、背筋がすっと伸びた、メガネをかけてない誰か〉は、不思議そうに僕を見ていた。分かるかよ、と思った。


「本来ならこの鏡には僕が映るべきで、君が異物なんだ」

「こっちもだ。俺にとって君は映るべきじゃない」

「……一体何なんだ?」


 僕は目の前の〈誰か〉を見て考える。

 顔が似ている点で、ドッペルゲンガーのような気がするが、鏡の向こうに現れることなんてあるのだろうか? 朝のぼんやりとした頭では、考えることが機能的にできなかった。

 

 だから試しに、右手を上げてみた。

 すると鏡の〈誰か〉は右手──彼にとっては左手をあげた。

 眉に皺を寄せると、〈誰か〉も眉をよせ、


「なんだこれ、身体が操られてるみたいだ」


 右手を下ろすと、〈誰か〉の左手は下がった。

 鏡の〈誰か〉は興味深そうに笑った。


「なるほどね。俺たちは鏡だから、同じ動きをする必要があるのか」


 〈愛嬌ある笑顔の誰か〉がそう言うと、突然、僕の手が腹部をつかみ、制服をたくし上げた。操られたみたいで、僕のお腹が露わになった。


「へえ、思ったより痩せてるね。運動部ってわけじゃなさそうだけど」

「人の身体で遊ぶなよ。帰宅部だってランニングくらいはする」


 〈腹筋が割れている誰か〉はそっかそっか、と笑って制服を元に戻した。〈誰か〉は運動部なんだろうな、と思った。周りには友人がいて、まともな生活を送っている感じがした。


 僕は言った。


「分かったよ、君が誰か」

「俺も分かった」


 〈僕と似た誰か〉は、不満そうだった。


「でも、君はなんでそんな、憂鬱そうなんだ」

「僕だって聞きたいよ。君はなんでそんなにも楽しそうなんだ」


 僕は〈〉にいった。


 ***


 目の前の彼は、僕であって僕じゃない。

 もう一つの世界の僕だ。

 直感的に、それが分かった。


 パラレルワールド。

 

 僕たちのもう一つの世界。

 あるいは複数の世界。

 その世界で分岐した一つが、彼だった。


「僕たちは、どこで変わったんだ?」


 僕は〈まともな世界の僕〉を見て、思いつく限り分岐点になるような思い出を探した。


 ──小学校の入学式で、遊具から足を滑らせて骨折したとき?

 ──中学最後の大会でシュートを外したとき?

 ──最終模試で最低な点数をとって、進学する高校を変えたとき?


「そんな大げさなものじゃないと思うな」


 〈自分よりましな人生を生きてる僕〉がいった。

 じゃあどこで間違えたんだ、と僕はきいた。


「本当にささいな事だったんだ」

「たとえば?」

「たとえば、俺が右手をあげたら──」


 そうやって、〈僕が入りたかった高校の制服を着た僕〉が右手をあげた。

 同時に僕の左手が、意志とは関係なく、上にあがった。


「たぶん、これだけの違いだったんだ」

「僕と君が?」


 信じられなかった。

 〈僕でない僕〉と僕は決定的に違う。

 そう、思った。 


「冗談じゃない。そんなささいな事で、僕はこんなことになっているのか?」

「こんなことって?」

「毎日憂鬱だってことだ」


 廊下から朝のニュースが始まる音楽が聞こえる。もう少しで、僕は高校にいかないといけない。考えるだけで、うんざりした。


「そうだね」


 〈憂鬱じゃない僕〉は考えるようにいった。


「でも、そうなんだ。右手を上げるか、左手を上げるか、そんなささいな事で人生は変わると思うんだ。俺も君になる可能性はあったし、君も俺になる可能性はあったんだ」


 だから変えられないことはないんだと思う。

 〈正しい僕〉は僕を見ていった。

 普段人の目を見れない僕も、鏡のせいで〈正しい僕〉と目を合わせることになった。


 はっきりとした目。人を受け入れることができる目。優しそうな目。幸福そうな目。悲しむことのできる目。暖かい目。──昔、僕がしていた目。


「俺は君なんだ」


 僕たちは元々一緒だった。

 優しい目をしていた。

 悲しむことを知っていた。

 人を笑顔にすることができた。

 

「君が望みさえすれば君は俺になれるよ」


 それからしばらく、僕は〈僕〉の目を見ていた。

 ちゃんと覚えておこう、と思った。


 ニュースが現在の時刻を告げる。

 そろそろ行かなきゃ、と〈僕〉はいった。


「やることがあるんだ」

「そっか」

「また会えたらいいね」


 鏡の〈僕〉はそう言って笑った。

 それからほっとしたように微笑んだ。


「君もちゃんと、笑えるじゃん」


 ***


 いつもと同じ、憂鬱な朝。

 背負う鞄は重く、細い足がふらつく。

 外から明るい鳥の鳴き声が聞こえてくる。

 ──行きたくない。

 玄関の扉の前で、立ち止まる。

 いつものことだった。

 でも、今日は少しだけ、背負う鞄が軽く感じた。 

 ドアノブに、手をかける。

 深呼吸、一つ。

 ゆっくりドアを開ける。

 玄関が、外の世界に繋がる。

 黄色い朝日が、隙間から差し込む。

 僕は目を細める。

 大丈夫。

 きっと。

 そう、信じる。

 僕は君で、君は僕だから──




 僕は一つ息を吐き出して、外の明るい世界に、足を踏み出した。

 

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