エピローグ
結局、三人で遊ぼうと息巻いていた永町も、そういう気分じゃなくなったようですぐに解散となった。
あれからすぐに例の古本屋へ行って店主を問い詰めたら、彼はすぐに白状してくれた。見るからに気の弱そうな男だった。櫻井さんのおじいさんが亡くなって、どうしても保管できない分だけを買い取ってくれとその妻に頼まれた彼は、自らの足で査定に出向いた。その時にあの絵本に出会ったという。彼は偶然どこかのカタログでその絵本を知っており、また彼自身も絵本のコレクターを自任していたので、矢も楯もたまらず買取の終わった後にこっそり盗んでいったらしい。
そのことの言質をよくよく取ってから俺は退店した。ひどく疲れていたので、すぐに昼寝をした。
* * *
月曜日になった。
なかなか眠れなかった日曜の夜を終え、午前5時半に洗面台で顔を洗う。顔を上げると、鏡に映る俺の顔にはうっすらと隈があった。イナズマイレブンが面白すぎて徹夜でプレイした勲章だ。
いつもより早く家を出て歩く通学路は、いつもとは違う顔ぶれが歩いていた。例えば俺にギャンギャン吠えてくる犬はいないし、30分くらい世間話をふっかけてきて俺を遅刻ギリギリのデスゲームに引きずり込んでくるオバちゃんもいない。あれ、早起きって三文どころの徳じゃなくね?
教室に着く。
すでに目的の人物は登校していた。彼女は教卓の前に立っており、俺の姿を認めるとすぐに駆け寄ってきた。
「江神、おはよっ」
「うっす」
永町は相も変わらずはつらつとした光を目に宿している。その輝きの一割でも俺に分けてくれたらと思う。
ほんと、なんで俺なんかが彼女のような素晴らしい女子と関われてるんだろうか。部活動とは恐ろしいものだ。
「あんがとね、土曜は」
永町は聞こえるか聞こえないかくらいの音量でつぶやいた。俺はここぞとばかりに「え? なんだって?」と言いたかったが、聴力検査で良好な結果を残す俺には無理な話だ。
「別にいいぜ。こっちも部活動だったし」
あえてなんでもないようにふるまい、いつでも冷静沈着なことをアピールする。
「いや~なんかさ、江神って第一印象とだいぶ違うんだね。ド陰キャのコミュ障だと思ってたけど、割と普通に喋るしちゃんと道徳心持ってるし」
お前、俺がどんな人間に見えてたんだよ。ゴブリンじゃねえんだから。
「そういや櫻井さんはどうなった?」
「うん、今日は学校来てるよ。あたしと神奈で噂を否定しといたから、もう大丈夫だと思う」
「へえ~。いい奴なんだな、その、カンナ?って人。関係ないのに協力してくれるなんて」
「は? 何言ってんの? あんた同じ部活じゃん」
え、マジで? 俺んとこ他に夢月しかいないんだけど……あ、夢月の名前か。夢月神奈。そういやそんなこと言ってた気がする。
「いや、知ってるぜ。カンナ。夢月神奈。いい名前だよな。初代ポケモンの年上お姉さん系四天王とおんなじ名前だし」
ごみを見るような目で俺を見る永町になんとか弁解した。てかアイツ櫻井さんとオナクラなのかよ。言えよ。
教室のドアが開く音が響いた。
反射的に見ると、櫻井奏音が立っていた。ブレザーの制服に身を包んでおり、短めに折られたチェックのプリーツスカートから白く細く長い脚が伸びている。JKの膝ってだいたい傷だらけだけどマジで雪みたいにきめ細かい。
櫻井さんは俺を把捉すると、にっこりと笑った。
「おはよ、江神くんっ」
「……っす」
「何急に人見知りしてんのよ」
永町が肘で脇腹をつついてくる。や、だって土曜日とは全然違うんだもん。覇気とかオーラが。同一人物かよって思う。
「……だって櫻井さんと学校で話すの、初めてだし」
「え?」
櫻井が目を丸くして首をかしげた。
「え?」
「わたしと江神くん、4月に会ってるよね?」
「……?」
「……?」
固まる俺のすねを永町が蹴り、「信じらんない」とつぶやいた。
「あはは、覚えてないかあ~……」
櫻井さんは寂しげに笑った。その笑顔が俺の胸の内にある良心をチクリと刺した。
「いや、マジですまん……というかそんなことあったっけ?」
「うーん、覚えてないならいいや。いつか思い出してねっ。あ、あと土曜日はありがとう! すっごく感謝してるよ!」
そう言って櫻井さんはC組へと戻っていった。その背中からは重荷が取り除かれ、足取りは本来の軽重力的な彼女の歩になっているように思えた。
「うーん、マジで櫻井さんと話したことなんてあったっけっかなあ。あんなに可愛い女の子と喋ってりゃ忘れるわけないんだけどな」
「ちな今のはあたしも初耳だった」
「じゃあなんで蹴ったんだよ……」
彼女はニっと笑い、ブレザーの上に羽織ったピンク色のパーカーのフードを翻らせ、自分の席に戻っていった。そこには彼女の友達が集まっていて、彼女は一瞬で俺とは別の世界へと飛躍していった。
* * *
放課後、元文芸部・現生活支援部の部室――とは名ばかりの机と椅子の墓場へ行くと、先週のように夢月は教卓に腰かけて本を読んでいた。
「あら、今度はスムーズにドアを開けられたのね。褒めてあげる」
「わーい」
猫かよ。
手近にあった椅子に座り、無気力系ヤンキーのようにだらりと背中を預ける。
「そういやお前、櫻井さんの汚名を拭うために頑張ったらしいじゃん」
「……何のことかしら。それより私の方こそ驚いたわ。まさかあなたにあんな才能があったなんて。てっきり女を見れば欲望のままに乱暴する生物だとばっかり」
「だからゴブリンじゃねえんだよ俺は」
夢月は文庫本をパタンと閉じた。駅前の本屋のブックカバーがかけられているため、何の本なのかは分からない。これでラノベだったら「あ、神奈ちゃんってラノベ読むん?笑 俺も読むんだよ」と言ってカバンからはがないを取り出しているところだが、十中八九そんなことはないので本に触れるのはやめておいた。
スパーンとドアを開けて松村先生が入ってきた。
「お、二人とも来てるな。感心感心」
そう言うと、手近にあった椅子を引いて座り、一言も断りを入れずにタバコをふかし始めた。ヤニカスがますます生きづらい世の中になっていく中でその流れに逆らう先生の姿は良い反面教師になる。
「先生、タバコはやめてください」
「いいだろ別に。私はこれがないと死んでしまうんだ」
夢月の苦情にも飄々と返す。ニコチンで光合成してんのかなと思っていると、今度は出入り口のドアがコンコンと控えめに二回ノックされる音が聞こえた。
「どうぞ」
夢月の声と同時にドアが開き、櫻井さんが遠慮がちに顔を出す。
「あン? 櫻井サン?」
「あ、江神くん」
彼女は俺を見つけると嬉しそうに身体を乗り出して、後ろに手を組みながらペンギンみたいに近づいてきた。
「どうしたんだよ」
「えへへ、実はね……」
恥ずかしそうに言うと、夢月に向かってガバリと頭を下げた。「部活に入れてください!」
「え?」
夢月は腕を組んだまま、目を点にして固まった。
「なんでまた……急だな」
「うん、えっとね。土曜日に江神くんが真摯に相談に乗って考えてくれた時、わたしもこんな風に人の役に立ちたいなあって思ったの。だからいてもたってもいられなくなって、来ちゃった」
そう言って舌を出す櫻井。あざとい。
一方の夢月は腕にきゅっと力を入れて顔をしかめた。
「入部してくれるのはありがたいのだけど、この部活は普段はあまり活動していないし、それに彼が活躍できたのだってたまたまだから、あなたの思うような綺麗な部活ではないわ」
「うん、知ってるよ。松村先生から聞いたもん」
「ならどうして――」
櫻井は両手の指をつついた。
「やっぱり、一回救われちゃったら分かっちゃうんだ。救われたいって思ってる人の気持ちが。だから、わたしもそんな人たちのために動きたいっていうか――ううん、そんなんじゃない。動かないといけないなって思っちゃったから」
彼女の表情は真剣そのものだった。
俺はそこに、彼女の道徳心の発芽を見て取った。簡単な話だ。聖書やなんかで語り継がれてる聖人だって、最初は普通の人だった。それが何かのきっかけで神の光の中で生きることに目覚めるだけ。櫻井さんも似たようなものだろう。
「いいんじゃねえの、入部しても」
俺が横合いから口を出すと、夢月がギロリとにらんできた。
「あなた、正気? だいたいあなたの入部動機だって――」
「んなもん拒む理由になんねえだろうが。この場所使ってヤクさばくのとか彼氏といいことするのとか言い出したらとっちめてやらにゃあならんけど、そうじゃねえんだからさ。部員が増えればそれだけ活動しやすくもなるだろ」
あと個人的には夢月と二人きりにならなくて済むし。陰キャは二人きりの時はやたら張り切って喋るけど、三人以上になると一言も口を聞かなくなるんだよな。二人きりの時ってめっちゃ精神的に疲れるし。
「決まりだな。我々学生支援部は、櫻井奏音を新入部員として歓迎する」
松村先生がキメ顔で言う。やっぱりあなたが吹き込んだんでしょうね。
俺は椅子から立ち上がり、ポケットに手を突っ込んで櫻井の前に立った。
「入部おめでとう、櫻井さん。これで俺とあんたは同期――いや、正確には俺の方が三日ほど先に入部したから、先輩と後輩の関係になったんだな」
「え? うーん。そう、なのかな……?」
「うし。じゃあパン買ってきてくんねえ? 俺今日昼飯食ってねえんだよ。宿題やってて」
「え、あ、ああ、うん、じゃなくてはい!」
「やめなさい」
先生に脇腹を蹴り飛ばされて勢いよく転がった。
「あと、あなたが正式に加入するのは今日からよ。今日あなたの入部届が受理されたから」
夢月が補足する。
「え、マジで?」
「ええ」
「え、じゃあ俺が土曜日にやった活動は?」
「単なるボランティアだな。見直したぞ江神。まさかあのお前があんなボランティア精神を持っていたとはな」
うーん、この徒労感。
松村先生は煙で包まれた顔をニヤリと笑わせた。
了
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