おまけ ある夫人の嘆き
今の境遇に満足している夫に腹が立つ。
産まれたばかりの弟に出し抜かれ、廃嫡扱いになったと言うのに、平和に笑うこの男に。
彼の子が宿るお腹をひと撫でする。
最近益々張ってきた。
夫となったこの男は喜ぶが、何が嬉しいのか分からない。
若い肌はぱんぱんに張り詰め、お腹周りの違和感で動き辛い。しかも出産後はその反動で皮膚が弛むのだそうだ。
お産で命を賭し、一気に老け込むとも聞いている。
いらいらする。
何故自分がそんな事をしなければならないのか。
その中にある簡素な屋敷。
少ない使用人。
王都にいられれば、あの立派な伯爵邸で過ごす事が出来たというのに。
両親に言いくるめられ、彼の従弟に説得され、あれをあっさり手放した能天気な男に腹が立って仕方がない。
それにあの従弟────王族なのだそうだ。
最初は気づかなかった。
身分を偽っていたのだそうだ。
平民などと、どれ程美しい容姿でも、今の自分には相応しく無いと切り捨てた事が悔やまれる。
そもそも夫は、何故そんな大事な事を妻である自分に話しておかなかったのか。本当に、役立たず。
王都で再び会えた時は嬉しくて仕方が無かった。
夫は、領地を出ない約束をしたと言っていたが、何を言っているのか。こんな場所で一生燻って生きていくつもりか。自分はまだ若いのだ。冗談ではない。
恩人に礼を尽くさずにいるつもりかと、窘めて説得し、何とか再び王都へ。華々しいあの街は、やはり自分に合っている。
あの方に縋ろう。
きっと分かってくれる。助けてくれる。
看護士をしていた頃、夫の担当をしていた。
貴族だと聞いていたから、出来るだけ愛想良く振る舞った。
ある日の夜勤に、治癒士の娘が夜通し必死に看病し、彼の手を握り励ましているのを見かけた。
これはいいと思った。
彼の麻酔の分量は医師に聞いていたから、目覚める時間に側に行き、手を握った。
たったそれだけで彼は自分を救いの女神だと喜んだ。
ずっと君が手を握ってくれていたのか? という問いかけには微笑みで返した。
別に嘘は言っていない。
勝手にそう解釈したのは彼だ。
そしてその後の自分の献身を見て見初めたのも彼。
何も間違っていない。
好きな相手には良く思われたいもの。だから頑張った。それだけだ。
貴族というのは皆彼のように純粋な人たちばかりなのだろう。自分なら上手くやれる。今度こそもっと良い相手と。
『あなたには伯爵夫人は無理だわ。……貴族を理解しようともしない』
彼の母親にため息まじりに突き放された。
泣きながら彼に訴えれば、彼は自分を庇ってくれたけれど。
思わず奥歯を噛み締める。
貴族の事など良く分かっている。
彼と共に挨拶をした相手は、皆自分に好意的だった。
自分を認めてくれた。
だから大丈夫。
お腹をひと撫でする。
早く出てって。
私は次に行きたいの。
赤子を産んだ数ヶ月後、夫人は引き止める夫と泣く我が子を振り切り王都へ向かう。
けれど、誰も彼女の話を聞く者はいなかった。
伯爵家に嫁いだ者だと家名を名乗っても笑われるだけ。
自分に好意的だった貴族たちの名前を必死で思い出し、訪ねて行っても、門前払いに会うだけだった。
やっと話を聞いてくれた輩にお金を払い、城へ入れるよう取り計らって貰う手筈を頼めば、お金を持ってどこかに行ってしまった。
何故……
慰謝料と称して持ち出した金目の物は、いつの間にか無くなってしまっていた。
なんとか王都から田舎の屋敷に戻る。
あの方に会えなかった。
従兄の元夫ならとりなしてくれるかもしれない。
でも……
王族というのは、何だか面倒臭そうだと思った。
歩き回って疲れた身体に、少しだけなら田舎暮らしもいいかもしれないと夫人は思い直す。
仕方が無いから彼で我慢しよう。
けれど、屋敷には誰もいなかった。
既に解体され、跡形も無かった。
やがて彼女は、再び自分で働き、平民として生きていく事となるが、そんな自分に向き合えるまで、とても長い時間を要した。
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