おまけ 彼は気付かなかった


 出て行った妻の残像を呆然と見つめ、佇む。

 腕の中で泣き疲れた我が子の体温を感じ、悲しい心を温めるように抱きしめた。




 しばらくしてから、母が訪ねてきた。

 使用人が伝えたのだろう。

 母も自分を抱きしめた。


 赤子を一人で育てる事は出来なかった。

 けれど手放したくなかった。

 大切な自分の子ども。


 父母は再婚相手を見繕い、直ぐに結婚しろと言ってきた。

 

 貴族なのだからと言う。

 義務なのだと。


 義務を放棄した結果がこれなのだろうか。


 父母の勧めに従い再婚をした。


 子連れのバツイチでも、相手は喜んでくれた。

 美しい人では無いかもしれないが、淑やかで優しく笑う人だった。


 以前子どもを流してしまって、身篭れなくなったのだそうだ。それが元で相手に離縁をされて……


 だから子どもをとても喜んでくれた。

 自分の子だと大事にしてくれた。



 だけど……



 前の妻が思い出される。

 あの時彼女の事も優しい人だと思ったから。


 前妻と彼女は違う。

 でも、心を預ける事に抵抗を覚える自分がいた。

 それでも穏やかな時間を過ごす事が出来た。



 ◇



 数年後、従弟の結婚式に参列する事になった。

 出席してもいいものか悩んだが、父の立場上、不参加は許されなかった。


 従弟と並び立つ女性。

 隣国の侯爵家の養女となった彼女は、元々この国の治癒士だった。

 自分もあの娘に治して貰ったのだ。

 従弟と彼女はそれが縁で結ばれたらしいけれど。


 もうあの頃の事は覚えていない。

 けれど、自分を懸命に治してくれたあの人は……きっと彼の事を大事にしてくれるだろう。



「どうしたの? あなた?」



 妻に問われて自分が泣いている事に気づく。



「分からない」



 何故涙が出るんだろう。



「きっと感極まったのね。お二人共とても幸せそうで」



 そう言って妻は優しく微笑んだ。



 そうか……



 そうだろうか……



 前妻が出て行った時よりも胸が痛い気がするのは、そんな理由なのだろうか。





 彼は眠っていたけれど、治癒士の声は届いていた。

 温かい手に安らぐ心は覚えていた。



 だけど



 もうそれを彼に伝える人は、誰もいない。



 このまま知られず眠る彼の心。

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