第10話 手遅れになる前に

「ソアルジュ殿下!」


 引きずられるように歩きながら、ロシェルダは声を張って彼の名を呼んだ。

 全く反応が無かったその呼びかけに、ソアルジュはようやっと気づき、はっと身を竦めた。そのままどことなく気まずそうにロシェルダに視線を落とし、ぎょっと目を見開いた。


「なんだその格好は?」


「はあ?」


 あまりの言いようにロシェルダは間の抜けた声を出す。

 そもそもロシェルダは、ソアルジュが勘違いをしているのだと考えていた。

 あの場では、見ようによってはオランジュがロシェルダに暴力を振るったと……そう思ってしまったのも無理が無いのかもしれないと、急いでソアルジュの誤解を解こうとしていたのに。


「君をそんな目に合わせた奴には必ず罰を与える」


 据わらせた眼差しでソアルジュは口にした。


「いえ……それは、オランジュ様が……」


 続きの言葉を紡ぐ前に、ソアルジュはロシェルダの顎を荒々しく掴み、叫んだ。


「その名を口にするな!」


 ◇


 どうして! どうして!! どうして!!!

 もう二度と会わないように遠く離れた領地と小さな爵位を与えてやった。

 余計な真似をしたあいつ。

 彼女から恋心を奪って行った。

 自覚した途端にこれだ。リサのせいか、彼女を罰するべきか。


 どうして? 自分とあいつの何が違う?

 同じ病に罹り、同じ場所で会って、身分だって同じ貴族だ。

 どうして……まだあいつをあんな目で見るんだ。

 あいつは温厚なだけの甘ちゃんで、他に取り柄なんてない。自分で蒔いた種を自分で刈る事も出来なかった。見る目だって無い。なのに……


 今まで抱いた事が無い、こちらを見ない者に対する憤り。

 目眩が起こりそうな程腹が立っているのに、どうして胸の内だけはこんなに苦いんだ……


 ◇


 自室に戻ればリサが血相を変えて近寄ってきて、ソアルジュの腕からロシェルダを攫い、あれこれ世話を焼いている。

 改めて見ると彼女は酷い有り様だった。

 後ろ盾の無い平民を城に放り込めばこんな事になるのか。


 ソアルジュは唇を噛んだ。

 上等な部屋を与えたつもりだった。そしてそれを彼女が喜ぶ筈だとも。だからこそ護衛なんて気が回らなかった。

 そもそも何でもないと、あの時父に告げた自分の言葉に偽りは無かった。気づかなかっただけで。


「ロシェルダ……」


 途方に暮れた思いで名前を呼べば、怯えたようにその肩が強張った。

 リサがそっと肩を撫で、ロシェルダを宥める。

 恐る恐る振り返るその顔は、眼差しは、先程従兄に見せたものとはまるで違う。先程の憤りはどこへ行ったのか、ソアルジュの心は暗く沈んだ。




 ……あの時、全てが無くなった。

 積み上げて来たもの、与えられてきた幸運。

 最後にそれら全てを取り上げられ、全く顧みられない、唾棄される存在に成り果てた。そしてそのまま閉じる筈だった自分の人生。


 走馬灯のように流れるそれらの記憶の中で、触れた事の無いそれが自分を救った。


「もう大丈夫ですよ。私があなたを治します」


 黒く染まった、元の姿など見る影もない自分の身体に、その人は恐れる事なく触れて来た。

 そうして温かい手で、慈愛の眼差しで、懸命な処置で、自分は救われた。


 (救われたんだ……)


 暗闇から引き上げられたのは、身体だけでは無かった。

 光に触れたのは心の方だった。

 気づかなかった従兄は馬鹿な奴だ。

 けれど感謝もしている。彼女を自分に引き合わせてくれたから。

 もう自分が闇に囚われるのも、光の祝福を受けるのも、彼女次第。けれど……


「すまなかった」


 ソアルジュは儚げに微笑んだ。


「勘違いしたんだ」


 その言葉にロシェルダは僅かに身動ぎした。


「君が……怪我をしているようにも見えたけど、オランジュに掴まれていただろう? 困らされているのかと思った」


 ロシェルダは少しだけ瞳を揺らし、思い当たるように顔を俯けた。


「でも……蹴らなくても……」


「走った勢いで足が出ただけだ」


 ケロリと口にすれば、従者の親子が何とも言えないような顔で口を引き結んでいる。


「後で謝るよ」


 そう口にすれば、ロシェルダはホッと息を吐いて表情を緩めた。

 ソアルジュは意を決してロシェルダに近づく。

 けれど一瞬見せた彼女の怯えるような表情は面白く無くて。


 そのままロシェルダの元で跪けば、更に困惑も加わり彼女の顔は益々強張った。けれど今は……


「本当は君を庇ってくれたんだろう? 自分の従兄の事なのに頭に血が上って分からなかったんだ。君にも迷惑を掛けて申し訳なかった」


「え、ええ……」


 そう言うと彼女は少しだけ意外そうに首を傾げ、小さく笑った。

 今はまず信頼を得ないとならない。手遅れになる前に。


 受けいる事しかして来なかった自分が、初めて歩み寄りたいと思った人。警戒を解いて、気を緩ませ、自分に向ける眼差しをあれ以上のものにしたい。


「良かった。ありがとうございます殿下」


 そう言って笑うロシェルダの目元が優しげに細まり、ソアルジュもまた嬉しくなって笑った。



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