第9話 会えて良かった
「知り合いか?」
彼の優しい声にロシェルダは震えた。
声のした方へ振り返る事は出来ない。この声もまたロシェルダの中に残り続けた記憶だったから。高く、甘い声。
「ええ、あなたもご存知でしょう? 治療院で治癒士をしていた娘だもの」
「……えっ」
(……どうして)
ロシェルダはきつく目を閉じた。
(どうして言うの?)
こんな無様な姿なのに。
何も持たない平民の娘なのに。今更、何を、どうして……。
……それでも恋心だけは消えてくれない、無為の存在なのに……。
だが彼は喜色を浮かべロシェルダの肩に両手を置いた。
「そうか! 君が! 会えて嬉しいよ! 退院時に挨拶が出来なくて、お礼もまともに言えなかった事、心残りだったんだ。あの時は本当にありがとう……でもその前に、その格好を何とかしないとね」
ロシェルダをこのままにしておくのは如何なものかと思ったようだ。自分は一体どんな有り様かのか。慌てて被りを振る。
「いえ! 大丈夫です! お世話になってる方がいますので、そこに行きます! それに治療は……私の仕事ですから……神に賜ったギフトを人の為に扱う事は、治癒士の義務です」
何とか口元に笑みを浮かべる。
そんなロシェルダの様子に彼もまた目を細めた。
けれど後ろの彼女は思わずといった様子で吹き出した。
「オランジュ! それは可哀想よ? この娘はね、あなたの事が好きだったんだから」
はっと目を向けた先には、綺麗に着飾った令嬢がいた。
確かに治療院で一緒に働いていた看護士。
けれど今は見違えるように美しくなり、そして、お腹の辺りはそれと分かる程張り出していた。
ロシェルダの見開いた目を見て彼女は勝ち誇ったように口元を吊り上げた。
「あ……お子様……が……」
「あ、ああ」
少しだけ困惑した様子でオランジュは口籠る。
一つ息を吐いてから、ロシェルダは笑顔を向けた。
「おめでとうございます」
その顔に一瞬驚いた顔をした後、オランジュもまた笑顔を見せた。
「ありがとう」
ロシェルダはほぼ意地で笑顔を作った。
踏みつけられボロボロの自分。過去の苦い失恋。
誰よりもそんな自分自身から目を背けたくて取り繕った。
けれどオランジュはそんなロシェルダに優しくふわりと笑いかけた。
「その……君の気持ちに気づかなくてごめん。僕は、実は以前君に嫌われていると思っていたんだ。だから最後に会ってくれないのかと。……応える事は出来ないけれど、その気持ちはとても嬉しい。だからありがとう。そして君にも良い出会いがあるように願うよ」
「……」
折角取り繕った表情から力が抜けるのを感じる。
どうして彼は……いや、だから彼を、だろうか。
ロシェルダはそのままくしゃりと顔を歪めた。
「オランジュ様。私はあなたに会えて、幸せでした。私こそ、本当にありがとうございます」
そういうとオランジュは少しだけ困った顔をして、うんと口にした。
だが次の瞬間彼は横に飛んでいった。
はっと息を飲む間も無いままに、彼は先程のロシェルダのように地面にうつ伏せで倒れている。
「……なっ」
慌てて駆け寄ろうとするロシェルダの腕を、後ろで誰かが捕らえた。
その誰かを見たであろう、オランジュの妻の顔が喜色に染まる。
「まあ! ソアルジュ様!」
思わず振り返れば、怒気を孕んだソアルジュの顔が間近にあった。
◇
「ソル……?」
うつ伏せのまま顔だけ持ち上げ、オランジュは口にした。
「オル! ここには来るなと言った筈だ! 忘れたのか?!」
「まあ、ソアルジュ様。何を怒ってらっしゃるの? お久しぶりですわ、サレリアです。以前あなたに美しいと言って頂いた。その節はそっけない態度を取ってしまって申し訳ありませんでした。私はまだ貴族の作法には慣れておらず、あなたに王族の血が流れているだなんて知らなくて。それに熱のある眼差しに、つい勘違いしそうになってしまったのです」
恥ずかしそうに扇をいじり、サレリアは少しずつソアルジュに、ロシェルダに近づいてきた。
だからこそロシェルダは困惑した。オランジュが、彼が害され未だ倒れたままなのに、妻であるサレリアは彼で無くソアルジュしか見ていない。
ロシェルダはオランジュに駆けつけたい衝動のまま、身を捩ってなんとかソアルジュの手を解こうとした。なのにソアルジュはロシェルダの腕をしっかりと握り締め、その力は全くぶれない。
睨みつけるべく振り向こうとした瞬間、ロシェルダの頬に衝撃が走った。
「は……」
息を吐くように声が一つ落ちる。
見上げればサレリアが扇を握りしめ、冷たい目でロシェルダを見ていた。
「いい加減その見苦しい姿をソアルジュ様に晒すのをやめなさい! ……ソアルジュ様、この者の処遇をあなた様自らが行う必要はありませんよ。この女はつい今程私の夫を誘惑していたいやらしい
困ったように笑い出すサレリアをソアルジュは眉間に皺を寄せ見下ろした。
「そのお人好しの夫は後ろで転がったままのようだが? お前は手を貸してやらないのか?」
「そんなの貴婦人のする事ではありませんわ」
にこにこと笑いかけるサレリアにロシェルダの腹に怒りが込み上げた。
こんな、女に……
歯を食いしばった瞬間、ソアルジュがロシェルダを両腕で囲い、きつく抱きすくめた。
「オル……お前とは長年良い親類関係を築いてきたと思っていたが、それも今日限りだ。……もう二度と会わない。会いたく無い。私の前から消えろ」
耳元で唸るように口にするソアルジュがどんな顔をしているのかは分からない。けれどオランジュの顔が驚きから悲痛なものに変わり、ロシェルダの心も軋んだ。
「そんな! ソアルジュ様!」
喚くサレリアには目も向けず、ソアルジュはロシェルダを抱えるようにしてその場を後にした。
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