第七章~恋人までの距離(ディスタンス)~⑤

「アイスティーしかないけど、いいかな?」


 そう問う彼女に、


「うん! ありがとう。前にも言ったかもやけど、普段はコーヒーより紅茶派やから」


秀明が答えると、彼の視線が本棚に向いていたことに気づいた亜莉寿は、


「なに? 本棚をじっと見て……」


と、いぶかしげに言う。


「いや、思った通りというか、たくさん本があって、それに大切に読んでそうだな~、って感じたから」


 秀明が、そう答えると、


「そんな大したことはないよ」


と、亜莉寿は少し照れた様に応じる。

 そして、本題を思い出した様に、


「それで、アリス・シェリドンの子供時代が描かれている『ジャングルの国のアリス』なんだけど……」


彼女が切り出すと、秀明も応じる。


「そうやったね。あの、もし英語の原書やったら、自分の英語力では読み通せるかどうか、自身がないんやけど……」

 

 その答えを聞いた亜莉寿は、フフッと笑って、「心配しないで」と言い、自分の学習机の本立てにささっているハードカバーの本を手にする。

 彼女は、その本を秀明に差し出した。


「これは?」


という表情の秀明に、「読んでみて」とだけ答える亜莉寿。

 表紙を見ると、そこには、


『ジャングルの国のアリス』

著:メアリー・ブラッドリー

訳:吉野真莉


と、書かれていた。


 表紙を開くと、最初のページには、本作の主人公アリス宛てに、彼女と親しい大人が書いた手紙と思われる文章が訳されている。


「読ませてもらって良いの?」


 秀明が問うと、亜莉寿は、「ええ、どうぞ」とうながす。

 それなりのページ数なので、読み終えるまでに時間が掛かると考えた秀明は、


「ありがとう! 読ませてもらってる間に、良かったら、オレが持ってきた本を読んで待ってて」


と提案する。


「うん、そうさせてもらおうと思ってた!」


 そう答えた亜莉寿は、「これを借りるね」と言って、秀明の持ってきた紙袋から、早川書房の単行本、大槻ケンヂ著『くるぐる使い』を取り出して読み始めた。

 秀明は、再び単行本に目を通す。

一ページ目から、さらにページを繰ると本編となり、物語は、こんな書き出しで始まっていた。



《第一章~アフリカへ出発~》




 二時間弱の時間を掛けて、秀明は、翻訳された『ジャングルの国のアリス』を読み終える。

 平易な言葉で訳された文章は読みやすく、楽しく読み通すことができた。

 秀明がハードカバーの本から顔を上げると、亜莉寿は、一足先に『くるぐる使い』を読み終えたのか、彼の様子をうかがっていた様だ。


「読み終わったよ」


 秀明が声を掛けると、


「どうだった……?」


と、緊張した声で亜莉寿がたずねる。


「翻訳が良いからか、スゴく読みやすかったし、スッゴい楽しめた!読ませてくれて、ありがとう」


 素晴らしい読書体験直後の、醒めない興奮状態そのままの感想を口にした秀明の答えに、「良かった……」と亜莉寿は、つぶやく。

彼女は続けて、


「この日本語訳の『ジャングルの国のアリス』はね……お母さんが、私の六歳の誕生日の時に、製本してプレゼントしてくれたものなんだ」


と語った。


「じゃあ、お母さんが、この文章を……?」


 訳したのか、という意味で秀明がたずねると、


「うん。ウチの母は、海外の小説や文章を翻訳する仕事をしてるんだ」


「そうなんや。それで……」


 秀明は、読み終えたばかりの文章が、とても読みやすいものだったことに納得する。

 さらに、亜莉寿が言葉を続ける。


「さっき、喫茶店で有間クンが聞こうとしてくれたこと……私の名前はね、有間クンが予想している通り、ジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの本名アリス・シェルドンが由来なの」


 秀明は、「やっぱり、そうやったんや」と、優しくつぶやくと、彼女は答える。


「うん、小さい時は、良く私の名前を名付けた理由を話してくれたんだ」


 さらに、


「ご両親は、ティプトリーという作家に特別な想いがあったのか。そう考えると、スゴく素敵な名前やね。亜莉寿って……」


と語ると、それを聞いた亜莉寿は


「あ、有間クン……良く、そんな恥ずかしいこと言えるね?」


と、表情を紅潮させる。


「え!? ゴメン! オレ、何か変なこと言った?」


 焦る秀明に、今度は少し呆れた様子で亜莉寿は、


「はぁ、まあ、誉めてくれているみたいだから、いいけど……」


と言って、照れた仕草を見せる。


「うん」


と相づちの様にうなずいた秀明の言葉の直後、今度は少し表情を曇らせた亜莉寿は、


「でもね……私が、このプレゼントをもらった次の年に、ティプトリーは……」


 そこまで彼女が言った時に、秀明も思い出した。

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