第七章~恋人までの距離(ディスタンス)~⑥

 ティプトリー=アリス・シェルドンが、夫を殺害後に、自らの命を絶ったのは、一九八七年───。

 秀明と亜莉寿が七歳の時である。


「小学校の低学年の時だったと思うけど、その後、両親はあまりティプトリーのことを話題にしなくなったんだ……」


と亜莉寿は語る。


「そっか……ツラい話しをさせてしまって、ゴメン」


 秀明の言葉に、「ううん」とつぶやく亜莉寿。

 彼女の返事を聞いた秀明は、言葉を続けた。


「けど、今日は、『ジャングルの国のアリス』を読ませてくれて、本当にありがとう」


 その言葉を意外に感じたのか、亜莉寿は「どうして?」と聞き返す。


「うん、スゴく面白い内容だと思ったし……それに、ティプトリーの幼少期のことがわかって、『たった一つの冴えたやり方』の主人公コーティのキャラクターが、どうやって生み出されたのか、良くわかった感じがするから」


 秀明の答えに、亜莉寿も応じる。


「それなら、有間クンに読んでもらって、私も本当に良かったな」


 彼女の言葉を聞いて、秀明は、さらに自分が感じたことを語った。


「あと、『ジャングルの国のアリス』を読んでいて感じられたのは、アリスが、お母さんにスゴく愛されているんだな、ってこと。これは、優しい文章で書かれた翻訳の影響も大きいと思うけど……」


 それを聞いた亜莉寿は、


「それは、作者も翻訳者も、仕事冥利に尽きるかもね」


と言って笑った。

 さらに、彼女は続けて語る。


「ねぇ、もう一つ、私の話しを聞いてもらって良い?」

 

 亜莉寿のリクエストに快く応じる。


「何でも、どうぞ! せっかくの機会だし、ぜひ聞かせて!」


 それを聞いた亜莉寿は、


「私ね、将来は映画のシナリオライターになりたいと思ってるんだ! そして――――――まだ、ハリウッドでも実現していない、『たった一つの冴えたやり方』とジェイムズ・ティプトリー・ジュニアの人生を映画化するのが、私の夢なの」


 一気に話したあと、照れた様に、


「他のヒトには、話したことないんだけどね……」


と、つぶやく。


「そっか……うん、吉野さんらしい素晴らしい夢やと思うわ」


 秀明は、正直に想いを口にして、


「それに、『たんぽぽ娘』を借りた時も、ティプトリーの小説を借りた時も、何か工夫して、オレを驚かせたり、楽しませてくれたりしたし……吉野さんには、演出とかストーリー・テリングの才能があると思うな」


と付け加えた。

 亜莉寿は、照れ隠しをする様に、


「う~ん、映画のお客さんが、みんな有間クンみたいに、わかりやすい反応をしてくれるとイイんだけど」


と言って、悪戯っぽく笑う。


「そこは、『シネマハウスにようこそ』の館長の目利きを信用して下さいよ」


 秀明も、そう言って笑った。

 真夏の陽の長さがあるとは言え、亜莉寿の部屋に射し込む西日も、だいぶ傾いている。

 腕時計を見ると、時計の針は午後六時に近づいていた。


「あっ、もうこんな時間か! そろそろ、おいとましないと……」


 秀明が、そう言って立ち上がろうとしたと同時に、吉野家の玄関からドアの閉まる音がした。



「あっ、お母さんかな……?」


と亜莉寿がつぶやき、しばらくして、彼女の部屋がノックされる。


「亜莉寿、誰かお客様が……」


 来てるの? と言い終わる前に、秀明の姿を確認した女性は、質問を変える。

 長い髪をくくっているのだろうか、アップにまとめられた髪で紺色のスーツを着こなし、薄いフレームのメガネ姿が印象的に写り、顔立ちは娘の亜莉寿と似ているものの、彼女よりも怜悧な雰囲気を感じさせる。


「こちらは、どなた?」


「お母さん、高校のクラスメートの有間クン」


 吉野家の母と娘の会話の中で紹介された秀明は、亜莉寿の母・真莉から感じられた雰囲気に、秀明が、直立不動となり、


「吉野さんのクラスメートの有間です。今日は、急にお邪魔してしまって、申し訳ありません」


と彼女に向かって、礼をすると、


「そう。お構いも出来ずにごめんなさい。今度、ウチに来る時は、なるべく事前に教えてちょうだい」


と言い残し、母親は、亜莉寿の部屋のドアを閉め、ダイニングの方に去って行った。

 予想外の亜莉寿の母との対面に緊張していた秀明は、「ふぅ~」と息をつき、


「そろそろ帰らせてもらうね」


と、あらためて亜莉寿に伝える。


(『ジャングルの国のアリス』の翻訳を読ませてもらった時は、優しいお母さんなのかな、って感じたけど、会ってみた印象は、ずいぶんと違うな)


秀明は、そう感じた。

 それでも、彼は


「お母さんに、ご挨拶だけさせて」


と亜莉寿に話してダイニングにむかい、真莉に対して、


「遅い時間まで、お邪魔しました。帰らせていただきます」


と伝える。


「はい、どういたしまして。気をつけて帰ってね」


 淡々とした口調で、返す真莉に、今度は亜莉寿が、


「有間クンを下まで送ってくるね」


と伝えて、二人は玄関にむかった。



 マンションのエントランスまで来たところで、別れ際に亜莉寿は、こんなことを言ってきた。


「ねぇ、有間クン。一つ提案なんだけど……今度から、私のことは、亜莉寿って呼んでくれていいよ」


 突然の《提案》に、秀明は、やや驚いて


「えっ? どうして、急に?」


と、亜莉寿の意図を問う。

 彼女は、照れながら、


「さっき、私の名前の由来を話した時に、《素敵な名前だ》って言ってくれたから……」


「あぁ、そっか……こうして聞くと、かなり恥ずかしいこと言ったんやな、オレ」


と、今度は秀明の表情が赤くなる。


「そうだよ! でも……そう言ってもらえて嬉しかったから」


 亜莉寿が答えると、


「そっか……うん、ありがとう! 『遠慮なく、そうさせてもらおう!』と、思うけど、やっぱり、二人で話す時だけにしようか……? 他の人もいる時に、亜莉寿って呼ぶのは、なかなか勇気がいる」


と苦笑いする秀明。


「確かに、他の人に聞かれて、噂とかされると恥ずかしいし……」


 そう言って、亜莉寿もクスクス笑う。


(ん? どこかのゲームのキャラクターのセリフみたいやな)


と秀明は感じながら、感謝の言葉を口にする。


「今日は、貴重な本を読ませてもらった上に、色々なお話しを聞かせてもらって、ありがとう!亜莉寿さん」


「こちらこそ、たくさんお話し出来て良かったと思う。ありがとう」


 亜莉寿の言葉に、


「そう思ってくれたなら嬉しいな〜。じゃ、また学校で!」


と秀明は答え、エントランスを出て、駅に向かった。

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