第27話 幸せで、泣けちゃいました

 試合の片付けの後は、皆がそれぞれの仕事へ戻った。

 ちゃっかり休みを手に入れていたイーフォとハルムとリニの三人が、フィロメナと騎士の相手を引き受けてくれたおかげで、アズサは久し振りに自分の仕事に集中できた。

 勇一はブラムに連れられて商品開発部へ行っている。

 クルトはリュドと共に自警団の方へ行っていて、執務室内にはヨスとフェナだけ。アズサは奥の小部屋の扉を閉め、一人で作業に集中していた。


 扉を叩く音がして、アズサは顔を上げずに返事をする。


「アズちゃん、もう暗いよ?」

「ほんとだ。なんか見えづらいと思った」


 目をぎゅっと瞑って、大きく息を吸う。深い息を吐いて、疲労を追い出そう試みた。


「ブラムと勇一は?」

「先に帰って良いって言ってたよ。クルトも、今日は自警団の方に掛かりきりみたい。ヨスがアズちゃんのこと頼まれたんだって」

「そっかぁ。帰る?」

「うん。アズちゃんも帰ろう?」

「わかった。すぐ準備するね」


 アズサは手早く荷物をまとめて、部屋を出た。


 夕闇の中を、フェナとヨスと並んで歩く。

 アズサはわざと少し遅れて歩き、二人の後ろ姿を眺めて頬を緩ませた。

 すぐに気付かれフェナに腕をつかまれてしまったが、一瞬でも見られた幸福な光景に、胸がいっぱいになる。


「二人の新居を建てないとだね」

「え? 私たち、あそこは出ないよ?」

「あそこは俺たちの家だからな。子育ても、あそこにいた方が助けてもらえんだろ」

「え! 妊娠っ?」

「まだ! まだだけど! 結婚するまでそういうの、ダメだと思うの!」

「やだもうびっくりしたよ~」


 アズサが拳でヨスの二の腕を殴ると、フェナも真似して同じことをする。


「式は、コーバスが戻ってからだな」

「コーバスはきっと、感動して泣いちゃうね」


 アズサの発言に、フェナとヨスが笑いながら同意した。

 どういう結婚式にするか、部屋割をどう変えようか、そんな話をしながら歩いていたら、あっという間に屋敷に着いた。

 風呂の前に夕飯を済ませようと食堂へ向かうと宴会が開催されていて、三人は目を丸くする。


「おかえりなさい、アズサ! わたくしマノンに教わって料理をしたの! 食べてくださる?」


 頬を紅潮させたフィロメナが駆けてきて、アズサは微笑む。どうやら、とても楽しい時間を過ごしていたようだ。


「何を作ったんですか?」

「エルテンスープという物よ」

「良いですね。お腹ぺこぺこです」


 胸を張ったフィロメナが可愛くて、アズサは彼女の頭を撫でる。

 帰宅に気付いた住人たちのおかえりの声に返事をしつつ、三人は手を洗うためにキッチンへ向かった。

 イーフォはディーデリックと酒を飲んでいて、酒は飲んでいないがハルムも楽しそうに話している。

 リニとマノンとエリーはフィロメナと意気投合したのか、一緒にお茶を飲んでいた。四人のそばにはテオドルスがいて、優しい顔で彼女たちを見守っている。


 フィロメナが作ったというスープと買い置きのパンを持って、食堂へ戻った。


「イーフォは昔から、許すって決めると切り替えが早いよね」


 ディーデリックと肩まで組んでいるイーフォを見ながらアズサが呟くと、フェナが笑みをこぼしながら頷いた。


「イーフォが、っていうか、みんなそうだよね」

「じゃないと、ギルドなんてできてねぇだろ」

「確かに。昔は敵対してた人たちとも、今は仲間として笑い合ってるね、私たち」


 笑みをこぼし、アズサはスプーンですくったスープを食べる。

 エルテンスープはエンドウ豆を潰したスープで、液体というよりは固形に近い。エンドウ豆の甘みとベーコンの塩気が程よくマッチしていて、とても美味しくできていた。

 食べ終わる前にブラムと勇一が帰ってきて、アズサの帰宅時と同様、フィロメナが満面の笑みで駆け寄る。


「ユウイチ! ご飯をね、作ったの。食べてくれる?」


 通訳せずとも通じたようで、勇一は首を縦に振った。

 勇一はフィロメナに連れて行かれ、一人になったブラムはアズサたちのもとへとやって来る。


「これはどういう状況だ?」


 これ、というのはフィロメナが明るく楽しそうで、ディーデリックがイーフォと意気投合して酒を飲んでいる食堂内の現状のことだろう。


「さぁ? 私たちが帰ってきたらもうこの状態だったから」

「お兄ちゃんもフィロメナ殿下が作ってくれたスープ、食べる?」

「俺が食べて良い物なのか?」

「大鍋に大量にあったぞ。おかわりしても余裕そうだ」


 一杯目を完食したヨスが立ち上がり、ブラムも一緒にキッチンへ向かう。


「フィロメナ殿下がここに滞在するって決まった時はどうなるんだろうって不安だったけど、何とかなりそうだね」


 フェナがほっとしながらこぼした呟きに、アズサは頷きを返した。


「置かれた環境による思想の違いがあっても、わかり合えないことはない」

「アズちゃんのそういう所、大好きよ」

「私もフェナが大好き! フェナたちが私を受け入れてくれたから、私、頑張れたんだよ」

「私たちだって、アズちゃんが引っ張り上げてくれたから、こうして幸せを知ることができたんだよ」

「やだもう……泣く」

「良いよ、泣いて。そういえば私、アズちゃんが泣いてるところなんて見たの、今日が初めてかもしれない」

「フェナだって、泣いたのって私が顔に大怪我負った時くらいじゃなかった?」


 顔を見合わせて、二人で記憶を辿ってみる。


「……私たち、泣いてる暇も、なかったよね」

「泣いたら心が折れる気がして、泣けなかったね」

「でも今は、幸せで、涙が出るね。アズちゃん」

「わかるよぉ、フェナ。あ~……だめだこれ」

「…………お前たちはまた、何故泣いているんだ?」

「なんだなんだ? どっか痛いのか?」


 戻ってきたブラムとヨスに心配されて、二人は泣きながら笑った。


「お兄ちゃんとヨスも、大好き」

「私も。ブラムとヨスが大好き。子どもの頃からずっと、守ってくれてありがとう」

「嫁入り前の、挨拶か?」

「フェナはそうなるけど私はまだだよ、ブラム」


 ハンカチがないからとブラムとヨスの服の袖で涙を拭われたが、涙は次々と溢れてきて、止まらない。

 アズサとフェナが泣いていることに気付いたのか、皆が周りに集まってきた。


「また泣いてんの? どうしたー?」

「誰かに意地悪されましたか? どこか、痛いんですか?」


 イーフォとハルムには、アズサの隣で穏やかな笑みを浮かべているブラムが答えた。


「幸せで、泣けてくるそうだ」


 フェナの隣では、頬杖を付いて二人の泣き顔を眺めながら、ヨスが笑う。


「これまで溜まってたもんが、決壊したみてぇだな」


 泣き続ける二人の背後に立ち、リニが両手で、アズサとフェナを抱き締めた。


「ずーっと頑張ってたもんね。もぉ~、泣け泣け! 存分に泣いちゃえ!」

「なんだか、エリーも泣きそうです」

「私も。アズサとフェナが泣くなんて……二人の結婚式、どうしよう。絶対にハンカチ一枚じゃ足りない気がする」


 リニとエリーが瞳を潤ませ、マノンは鼻をすすりながら目元を拭う。


「あぁもうどうしてこのタイミングであいつはいないんですかぁ! こういう時こそ、アズ姉を包み込むべき時でしょうに!」


 エリーが叫び、笑いが起こる。

 幸せを喜び、涙をこぼしながらも笑い合う光景を、部外者である四人が離れた場所から見ていた。

 勇一は、言葉はわからないなりに表情と雰囲気から、悪い涙ではないことを察して黙って見守る。


「……良い方たちよね、彼ら」


 フィロメナの言葉に、テオドルスが同意した。


「まだまだ若い彼らがあれだけの組織を運営し、見事に統率している。相当苦労したはずです」


 ディーデリックが主と上司の元にやって来て、憂い顔で、言葉を紡いだ。


「国に仇なす組織と考え警戒していましたが、彼らからすれば、我々は恨まれて当然なのかもしれないと、考えてしまいます」

「ディーの言う通りだわ。……お祖父様とお父様のお考えについて、城へ帰ったら知る必要がありそうね」

「何故ゲレンが放棄されるに至ったか、ですか」

「テオは、何かを知っているの?」

「いえ。当時私はまだ十代の前半でしたので、詳細は知りません。ステファヌス様が下したというゲレンに関わる決定に関しては、フェリクス殿下からお聞きしました」

「それなら、お兄様たちは何かを知っているのね。……わたくしも、王族として自覚を持たなくてはいけないわね」


 アズサとフェナの涙が収まると今度は、酒が飲める者たちで酒を酌み交わす会が始まった。テオドルスとディーデリックも巻き込まれ、食堂内は更に賑やかになる。

 二十歳未満のフィロメナ、勇一、エリー、ハルムは一箇所に集まり、お茶を飲みながら笑い合う。


 クルトとリュドが帰宅しないまま夜は更けて、女性陣と男性陣はそれぞれまとめて大浴場で風呂を済ませてから、自室へと引き上げた。



 灯りを落とした自室のベッドへ寝転がり、体内に残る酒の余韻を感じながら、アズサは暇を持て余していた。そろそろ眠っても良い頃合いだが、この時間になっても、クルトとリュドが戻らない。

 何かがあれば報せが来るはずで、何もないということは、問題に巻き込まれたというわけではないのだろう。もしかしたら、団員たちと食事にでも出掛けたのかもしれない。

 ガイは、団員たちと酒を飲んでから帰ってくることは、よくあった。

 うとうとしていると、クルトの部屋から物音が聞こえた。帰ってきたんだなと思いつつ、アズサは本格的に眠りに入るために目を閉じる。


 遠慮がちに扉を叩く小さな音が聞こえて、目を開けた。


 叩かれたのは、クルトの部屋との間にある施錠されていない扉。眠りに入り掛けていた状態で起き上がるのは億劫だ。どうぞと答えれば、音もなく扉が開かれた。


「寝てたか?」


 クルトの部屋から漏れる灯りで、彼の姿が見える。風呂上がりらしく、髪が濡れていた。


「おかえりなさい」

「ただいま。……イーフォから泣いていたと聞いて、気になって。何かあったのか?」


 何故かクルトは扉のそばに立ったまま、ベッドで横になっているアズサに近付こうとはしない。


「クルトがここまで来て、抱き締めてくれるなら話す」


 逡巡する間があって、クルトは足を踏み出した。ベッドの端に腰を下ろし、アズサを見下ろしている。

 誘うように両手を伸ばしたが、クルトはそこから動かない。仕方がないのでアズサは起き上がり、彼の首へと両手を回した。


「お酒の匂いがする」

「リュドに誘われて、飲んできた」

「二人だけ?」

「いや。団員たちも数人、一緒だった」

「楽しかった?」

「まぁな」

「良かったねぇ。私もね、楽しかったよ。ディーデリックさんとテオさんも一緒にね、みんなでお酒を飲んだの」

「……泣いたのは?」

「その前。フェナと話してたら、今がなんて幸せなんだろうと思って、二人で泣いちゃった」

「イーフォの奴……泣いたとしか言わないから、何かがあったのかと、心配した」

「わざとだろうね」

「そうだろうな」


 触れてこようとしなかったクルトの手が、アズサの腰に添えられる。もう片方の手はベッドの上にあって、だらりと力が抜けていた。


「なぁアズ」

「んー?」

「俺、もらってない」

「何をー?」


 クルトの腕の中にいる安心感。温もりと大好きな人の香りに包まれて、アズサはうとうと、眠ってしまいそうになっていた。だから、彼の言わんとしていることがすぐにはわからない。


「ご褒美。俺にはくれないの?」

「ご褒美……?」


 何だっけ? と考えて、思い出した。


「キッチンだ。取りに行く?」

「いや。勝手に食べた」

「受け取ってるじゃない」


 微かな笑みを漏らした直後、クルトの温もりが動き、柔らかな感触が口に当たる。


「どうだ? 味はしたか?」

「え、わかんない」


 キスをされたのだと自覚すると同時、再び唇が重なって……一回目よりも長い触れ合いに、心臓が高鳴り過ぎて目眩がした。


「まだわからないなら、味がわかるキス、するか?」

「だ、だめですいっぱいいっぱいです」

「俺はしたい」

「ま、待たれよ!」

「やだ」


 腰に添えられていた手に力が込められて、二人の体が更に近くなる。クルトのもう片方の手は、いつの間にかアズサの頬を包んでいた。

 ふにりと、唇に柔らかな感触が押し当てられる。味なんて全くわかりそうにない。

 濡れた何かが唇を撫で、甘い香りが、鼻をくすぐった。本当に食べてきたんだなと、頭の片隅で考える。


「アズ……」


 クルトの息が、甘い。蜂蜜と、爽やかなレモンの香り。それとほんの少し、お酒が香る。


「も、だめ。心臓、破れそう」

「その顔、すごくかわいい」


 とろけるように笑ったクルトが、アズサを食べようとしている。

 触れるだけのキスを繰り返し、たまに舌先が、唇を撫でる。触れられている腰の辺りがぞわぞわとして、徐々に思考が、溶けていく。


「レモンの蜂蜜漬け、うまかった。また作って」


 すぐ触れられる距離で、クルトが笑った。


「…………一緒に寝るか?」


 掠れた声は、危険な予感。

 咄嗟にアズサは首を横に振る。


「や、やめとく」

「残念」


 とろりと笑う彼は可愛いのに、不思議な色気をまとっていた。


「よ、よよよよ酔ってるよね!?」

「違う。拗ねてたんだ」


 話が噛み合わないのは、酔っている証拠だ。


「どうして、拗ねたの?」

「俺のために作ったんだと思ってたから」

「だって、レモン丸々一個は多いでしょう?」

「そんなことない。キスする度に一切れ、食べれば良い」


 冗談っぽく笑って、最後にアズサの鼻先へキスすると、クルトは離れる。


「眠れそうか?」

「無理」

「今夜添い寝したら、俺は絶対アズサに襲い掛かるけど良いか?」

「け、結婚するまでそういうの、ダメだからね!」

「襲えって言ったりダメって言ったり……」

「だって、キスしたらなんか……一気に現実味を帯びて、なんか……心臓が危険っ!」

「アズの心臓が壊れたら困るから、今夜は我慢する。いつ結婚する?」

「い……いつ?」

「しないのか?」

「する! これ、プロポーズ?」

「予約。正式なのは、ちゃんと考えるよ」


 左手が持ち上げられて、手の甲に口付けられた。

 顔を上げたクルトがアズサの瞳を覗き込んで、微笑む。


「愛してるよ、アズサ」

「わ、私も、クルトを愛してる!」


 言葉と同時に、抱き付いた。


「あー……幸せだ」


 耳元で、大好きな人の声が、しみじみ告げる。


「だね」


 クルトの耳の下の窪みへ頬を擦り寄せ、アズサは幸福の吐息をこぼす。

 そのまましばらく、二人は抱き合っていた。

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