第26話 ご褒美は、甘酸っぱいハニーレモン
ギルド本部の敷地内にある自警団の訓練場には、特設執務スペースが設置された。
執務室で仕事をする幹部の内、ヨスは出場者、ブラムとリュドが立会人で、アズサとフェナは観戦希望者であったため、試合を間近で見ながら仕事をしようということになったのだ。
フィロメナ用には執務スペースの隣に観覧席が用意され、リニとハルムはそこでお茶を飲みながら、フィロメナと勇一と一緒に観戦予定となっている。
テオドルスが主審、リュドが副審を務める試合は、勝ち抜け方式で行われる。勝ったら抜けて、負ければ残る。
負ける気がしないから一対多数の試合でも構わないと宣言したディーデリックに、アズサが提案して決まったやり方だ。まずは発端となった二人で第一試合を執り行い、負け残ればかなりの屈辱を味わうこととなる。
「この試合、俺は関係ないと思うんだが……」
「ブラムの命令なんだから仕方ねぇじゃん?」
「クルトも、あの舐め腐った態度の騎士野郎に実力見せつけとけってことだろうよ」
ヨスとイーフォに加え、クルトも出場者にされてしまったのは、ブラムの決定だった。
アズサのそばにいてディーデリックとは接する機会が多いのだから、この際剣を交えて舐められないようにしておけ。ということらしい。
訓練場には自警団員たちも集まっていて、ギルド本部の窓には職員たちが並んでいる。
ちょっとしたお祭り騒ぎの中、茶と茶菓子を持って、アズサとフェナとリニが建物から出てきた。三人の後ろにはハルムと勇一もいて、大量の書類を抱えている。
荷物をテーブルへ置くと、アズサはフィロメナを探して訓練場を見渡した。
彼女はディーデリックとテオドルスのそばにいて、アズサと視線が合うと、戸惑いで瞳を揺らす。
「フィー。温かい紅茶とお菓子を用意しました。安全な場所で見物しましょう」
歩み寄ってきたアズサの言葉を聞き、フィロメナは騎士の二人を見上げた。
「テオな公正な審判を。ディーは、悔いのない試合をなさい」
「はっ」
二人の返事を聞いてから、フィロメナはアズサと共に観覧席へと向かう。
「わたくし、彼らと共に観ても良いのかしら?」
「フィーがお嫌でしたら、離した場所へ席を作りましょうか?」
「違うの。逆よ」
「その心配は無用ですよ。フィーから歩み寄るのなら、リニもハルムも拒絶はしません。それに、リニと仲良くなっておけば通訳をしてもらえますよ」
観覧席へ着き、リニとハルムに引き合わされたフィロメナは、勇気を振り絞って声を出す。
「あのっ、わたくしも、ひどい態度だったと思うわ。でも、どう接したら良いのかわからなかったのよ」
「そうなんですか? もしかして、フィロメナ殿下って人見知りですか?」
ハルムに問われ、フィロメナはどう答えるべきか悩んでしまう。人見知りだという自覚はないからだ。
「……命令されたからと相手をしてくれる友人はいたけれど、アズサの周りの人たちのようなお友達はいたことがなくて、よくわからないわ」
「へぇー。王族って大変ですね。お菓子食べます?」
「え? えぇ。ありがとう」
リニから差し出されたクッキーを手に取ったフィロメナは、ハルムから勧められた席につく。勇一がフィロメナの隣へ座って、にっこり、笑い掛けた。
フィロメナのことを気に掛けてもらえるよう、勇一にはお願いしてある。一緒にお菓子を食べながら、リニとハルムもフィロメナへ話し掛けているからこの場は大丈夫だろうと判断して、アズサは執務スペースへと向かった。
「始める?」
執務スペースの上にある書類は、風で飛ばないよう重石を乗せてある。
「そうだな」
器用に書類の山を捌いていたブラムが頷いた。
フェナはその隣で三人分のお茶を淹れ、執務室で常備しているクッキーを手に取りわくわくした様子で席につく。仕事をする気は、なさそうだ。
フェナが淹れてくれた紅茶を一口飲んでから、アズサはブラムと共に執務スペースの前へと進み出る。
「ちゅうもーく!」
アズサが間延びした声で告げれば、途端にざわめきは収まった。
「これから行う模擬戦は、勝ち抜け戦とする! 負け続ければ、第一試合から第三試合までの連戦となる。試合の合間の休憩は十分。最後まで負け残った者は最弱の汚名をかぶり、さらにはその者にとっての屈辱となる罰を与えるものとする。罰の内容が記載された同意書を確認の上、出場者はこの場でサインをして提出するように!」
ブラムが四人へそれぞれ紙を一枚手渡すと、皆一様に顔を顰めた。
「まぁ、俺は負けねぇから!」
そう言ってさっさとサインを済ませたヨスが最弱となった場合の罰は、ゲレン中のごみ拾いと清掃。ヨスは、掃除が苦手なのだ。
「なぁこの罰おかしくない? 絶対誰かの私情が絡んでるって。……まぁ、負けねぇけどさぁ」
不満げな様子を見せたイーフォの罰は、明日丸一日、本心しか口にしないこと。万が一本心以外を口にした場合、一週間の自警団勤務となる。
「俺の罰が重過ぎる……」
愕然としつつもサインをしたクルト。
イーフォが横から覗いた同意書に書かれていた罰は、一週間アズサの護衛から外される上に会話も接触も、姿を見ることすら禁止。
「これは、絶対勝てよっていう圧力だよな~」
イーフォが楽しそうに笑った。
ディーデリックは無言でサインをして、ブラムへ同意書を渡す。彼の罰は、三日ずつ牧場と農場の手伝いをすることだ。
四人分の同意書が揃い、ブラムがそれをリュドに渡して確認させる。続いて、テオドルスにも確認してもらった。
確認作業を終えたブラムがアズサの隣へ戻ると、いよいよ、試合開始だ。
「第一試合! エフデン王国所属、第一王女付近衛騎士、ディーデリック・ダンメルス! 対するは、ゲレンギルド所属、トラブル解消部リーダー、ヨス!」
アズサが言葉を終えると、大きな歓声が上がった。
自警団員たちの揃った足踏みが、地鳴りとなって空気を振動させる。
アズサとブラムは執務スペースへ戻り、合間時間にアズサは書類仕事を片付けていく。
武器は刃を潰した訓練用の片手剣。
主審と副審が順番に武器の状態を確認してから、出場者の二人へ手渡した。
主審、副審共に、先端に黄色い布が付いた長い棒を持つ。
主審であるテオドルスが棒を振り下ろし、鋭い声で開始を告げた。
ヨスとディーデリックは睨み合い、最初に足を踏み出したのは、ヨスだった。剣がぶつかり合う音が響くと同時、ヨスが口の片端を釣り上げ――嗤う。
「ヨスが勝つな」
ブラムが呟いた。
フェナは両手を握り締め、一心にヨスへと視線を注いでいる。
アズサはブラムの様子を窺ってみたが、フェナの恋する乙女モードには全く気付いていないようだ。彼はまっすぐに、試合へ視線を注いでいた。
甲高い音と共に一本の剣が宙を舞い、剣の先端がディーデリックの首へ突き付けられる。
主審が棒を振り下ろした。
「勝者、ヨス!」
主審であるテオドルスの宣言で、歓声が上がる。
誰にも文句の付けようのない勝利だった。
拍手と指笛が鳴り響く中、審判へ剣を返したヨスが、服の埃を払っているディーデリックへ向けて拳を突き出す。
「まずは一回。馬鹿にした下民に負けて、踏み潰されろ」
更に大きく上がった歓声の中、ヨスが向かったのは執務スペースだ。
「勝ったぜ」
「さっすが~」
アズサが拍手で出迎えて、無言だがどこか緊張した面持ちのフェナへ肩をぶつける。
「お疲れ様、ヨス。アズサがね、勝者へのご褒美だって」
「なんだ、これ?」
甘酸っぱい香りが、風に乗って周囲に漂った。
「疲労回復に最適なんだって」
頬を染めたフェナが、指でつまんだレモンの蜂蜜漬けを差し出す。
「早くっ、蜜が垂れちゃう!」
「へ? お、おぅ」
がぱりと開けられたヨスの口腔に、フェナが輪切りのレモンを落とした。
レモンの蜂蜜漬けを咀嚼するヨスと、ヨスのそばで頬を染めてたたずむフェナ。そんな二人を隣で眺め、いたずらっぽく笑ったアズサがヨスへと告げる。
「それね、初めてのキスの味らしいよ」
「そうなのか? こんな味、しなかったけどな」
な、とヨスから視線を送られたフェナの顔が、ぶわりと赤く染まった――
「おい、まさか」
椅子に座ったままのブラムが呟いたと同時、ヨスがフェナの手首をつかみ、蜜のついた指先へ口付けた。ちゅ、と蜜を吸い取り、己の唇を舐める。
驚きと衝撃で固まってしまったフェナを、愛しげな眼差しで見下ろしてから、ヨスが晴れやかに笑った。
「ブラム。フェナは俺が嫁にもらう!」
ヨスに肩を抱き寄せられたフェナは、突然の宣言に戸惑っている様子。事前の相談があったわけではないようだ。
フェナの瞳には涙がせり上がり、今にもこぼれ落ちてしまいそうになっている。泣きそうなその姿は嫌悪ではなく、喜びに満ちていた。
「……アズサ。人の妹を景品にするな」
「私が与えたのはレモンの蜂蜜漬けだけだよ。背中は押したけどね。ほらブラム、ちゃんと向き合って」
アズサに促され、ため息と共に立ち上がったブラムは、ヨスとフェナの前に行き腕を組む。
「突然、何だこれは?」
不機嫌に顔を顰めた友人をまっすぐ見つめ、ヨスは真面目な表情で、口を開いた。
「フェナがお兄ちゃんには言うなって言うから、これまで黙ってた。けど、最近許可が下りたからさ。フェナには、俺の隣で笑ってて欲しいんだ」
「フェナ、お前の気持ちは?」
「わ、私も、ヨスのお嫁さんになりたい!」
「……わかった」
一度閉じた目を開き、ブラムは長年の友と最愛の妹を瞳に映す。
「フェナを泣かせるようなことがあれば、両腕をへし折るからな」
「怖ぇこと言うなよ。泣かせる、の詳細を教えてくれ」
離れた場所から見ている自警団員やギルドの職員までは声が届いておらず、執務スペースの様子を遠目に見て首を傾げていたり、そもそも注目していなかったりで騒ぎにはならなかった。
だが、微かに聞こえる声と共に一部始終を目撃していたイーフォは、クルトの隣で顔を引きつらせる。
「なんか、嫌な予感がするんだけど……お前、アズサに何も言ってないよな?」
「言ってない。だが、アズサは勘が鋭いからな」
「俺にとって、勝っても負けても同じになるやつな予感」
「もしかしたら怒ってるのかもな。喧嘩に乗り気だっただろ? お前」
「うわマジかー。付属品とはいえ、あれも客には違いないもんなぁ」
「負けてよりも、勝っての方が格好良いと思うぞ」
「だよなぁ。たまには、男を見せちゃおっかな」
第一試合の終了から十分が経ち、イーフォとディーデリックが、訓練場の中心へと進み出る。
負けたことにより隠すことをやめた闘志を瞳に宿したディーデリックを前に、イーフォは冷めた笑みを浮かべた。
「あんた、自分を過信しない方が姫様のためだと思うぜ?」
無視されたが、イーフォは気にしない。
「アズサー! 俺の肩書き叫ぶのやめてねー! 恥ずかしいからー!」
「えー! 締まらなくてつまらないじゃない!」
「第一試合敗者対、イーフォ! これで良くない?」
「まぁいっかー」
イーフォとアズサの気の抜けたやり取りを聞き、ディーデリックは顔を歪めた。かなり不愉快そうだが、文句は言わなかった。
ギルド本部の建物から、黄色い声援が飛んでくる。
「イーフォさーん!」
イーフォが手を振れば、彼女たちは嬉しそうな声を上げた。と同時に、自警団員たちがイーフォに対して殺気を放つ。
第一試合とは違い、イーフォへの声援は職員がメインだった。
主審と副審が確認した剣を受け取り、ディーデリックとイーフォが向かい合う。
テオドルスが出す合図で、試合が開始された。
イーフォが駆け出し、ディーデリックが迎え撃つ。素早く剣が打ち合わされる様は、まるで舞踏のようだ。
打ち合わせた刃ごしに睨み合い、二人は一度、距離をとる。
剣を構えるのとは反対の手を上向けて伸ばし、四本の指を二度曲げる仕草でイーフォがディーデリックを挑発した。
表情を変えず、ディーデリックが足を踏み出す。
一合、二合と斬り結び、力で押されているのかイーフォが後退していく。
振り下ろされた剣を滑らかな動作で躱し、イーフォがディーデリックの背後を取った。
振り向くより早く、刃が潰された剣が頚椎へと押し当てられる。斬れ味の鋭い本物の剣であれば、ディーデリックの首は落ちていただろう。
「勝者、イーフォ!」
職員からは歓声が、自警団員からは落胆の声が上がった。
「井の中の蛙大海を知らず、って言うらしいぜ?」
イーフォが言い捨て、剣を返却して去って行く。
二連敗となったディーデリックは悔しげに剣を振り、待機場所へと戻って行った。
「心が邪な人と道について語ることができないのは、ある教えに囚われているからだ」
「何それ?」
「イーフォが言ってたやつの続き。一部抜粋」
「あの騎士を囚えてるのは、貴族特有の選民意識かねぇ?」
「そうだろうね」
勝利報告のために執務スペースへやってきたイーフォはアズサと言葉を交わし、そのまま去って行こうとする。
「イーフォ」
アズサに呼び止められ、イーフォはギクリと立ち止まった。
「勝者へのご褒美。食べる?」
「いや、俺、甘酸っぱいのとか苦手だから、いらない」
「そっかぁ、残念だなぁ、リーニー!」
「どうして呼ぶんだよッ」
「どうして焦るんだよ」
アズサに呼ばれ、リニがハルムと共に歩いて来る。イーフォは平然を装い、片手を上げた。
「イーフォさん、お疲れ様です」
「おっつー、イーフォ! 勝てて良かったねぇ」
ハルムとリニが順番にイーフォとハイタッチをして、勝利を祝う。
「あのね、これ、疲労回復に効くんだ。イーフォは甘酸っぱいの苦手だって言って食べてくれないの。リニとハルムは食べる?」
「さっきヨスさんがフェナにあ~んされてたのってこれ? 食べる食べるー」
「僕も食べたいです」
フォークを手に取り、一切れずつ取って二人はレモンの蜂蜜漬けを口に入れた。
「甘酸っぱいけどほろ苦で、僕好きです。おいしいです!」
「イーフォ、これ絶対お酒に合うよ。もらっておけば?」
リニから勧められたイーフォは、釈然としない表情をアズサへ向けた。ハメられた気がする、と呟いた後で、パカリと口を開ける。
「……何してんの?」
「さっき、ヨスはフェナから食べさせてもらってた」
「だからってどうして私なん? ちょ、ハルムっ」
「いやいやいや! 僕はダメです! リニさんじゃないと!」
「なんでよ!?」
「察してくれ」
「察せるわけないでしょ!」
「…………リニが良いからだよ」
「わっ、わかった」
リニが握ったままだったフォークでレモンの蜂蜜漬けを一切れ取り、ぷるぷる震えている手で、イーフォの口元まで運んだ。
リニから食べさせてもらったレモンの蜂蜜漬けを噛んで飲み込んだ後で、イーフォが呟く。
「どうして泣いてんだよ」
フォークをつかんだままのリニが、顔に両手を押し当て、泣いていた。
「好きだ馬鹿ッ」
「……俺もだ阿呆」
イーフォの片腕で頭を抱き寄せられて、リニは声を上げて泣く。
ハルムも瞳を潤ませ、フェナとアズサも泣いていた。
「どうしてお前たちまで泣いているんだ?」
ブラムがハンカチを差し出しながらアズサへ問う。フェナの涙は、ヨスが服の裾で拭ってやっていた。
「感極まった……。子どもの頃は、こんなに幸せになれるなんて思ってなかったから。みんなで頑張って、良かったなって」
「そうだな」
ブラムの手に導かれて、アズサはブラムの肩へ頭を乗せる。ブラムから借りたハンカチを目頭へ押し付けて、涙を吸わせた。
「そろそろ時間だ。クルトが寂しそうにこちらを見ているぞ」
「本当だ」
噴き出して笑い、アズサは鼻を啜る。
一度大きく深呼吸をしてから、立ち上がった。
「偏見の塊の騎士様の鼻っ柱、うちのエースにぶち折ってもらいましょうかね!」
イーフォとリニとハルムは観覧席へ向かい、アズサとブラムは訓練場の中心へと進み出る。
観戦者たちが、固唾を飲んでアズサの言葉を待っている。
アズサは大きく息を吸い込み、声を張り上げた。
「最終戦! エフデン王国所属、第一王女付近衛騎士、ディーデリック・ダンメルスと、ゲレンギルド所属、自警団副団長クルトの対戦を始める! 両者、前へ!」
湧き起こった歓声は、今までで一番大きかった。指笛、足踏み、名を呼ぶ多くの声が響き渡る。
クルトは職務上、自警団員とも職員とも交流があるからだ。
歓声の大きさに、ディーデリックが眉根を寄せた。
剣を手にした両者は向かい合い、アズサとブラムは執務スペースで試合開始を待つ。
「なぁ。喧嘩売る相手を間違えたことは痛感しただろう? 降参して、謝って、素直に罰を受けて終わらせたらどうだ?」
クルトの呼び掛けに、ディーデリックは首を横に振る。
「剣を交えねばわからぬこともある」
「……それなら、殺す気で来てくれ」
ディーデリックは剣を構え、クルトは両手を下ろして力を抜いた姿勢のまま。
棒が振り下ろされ、開始の声が空気を震わせた。
観客たちが息を飲んで見つめる中心で、二人は動かない。どうやら、クルトから仕掛ける気はないようだ。
それを察して、ディーデリックが動いた。
素早く間合いを詰めたディーデリックが剣を突き出すが、足捌きだけで躱される。
斬り上げ、斬り下ろし、横一線に剣を振り抜くも、剣で受けられることなく紙一重で全て避けられる。
悔しさで歯軋りすれば、真上から剣が振り下ろされた。咄嗟に顔の前で受け止めたが、あまりの重さに腰が沈む。
視界の隅で動く物に気付き、腕と足で脇腹を守るも体が横へ飛ばされる。足を踏ん張り体勢を立て直す前に――黒い影が目の前にいた。
青い瞳がディーデリックを見ている。
恐怖から剣を突き出せば、相手は後方への宙返りで距離を取る。
「恐怖を感じたら、気持ちで負けるぞ」
試合ではなく、稽古を付けてもらっているようだとディーデリックは感じた。
ディーデリックの息は上がっているのに、クルトは全く息を乱していない。
大きく息を吸い、ディーデリックは走り出す。
数手繰り出し斬り結ぶも、軽くいなされる。
たまに急所を狙った攻撃が襲ってくるが、すんでのところで止められる。
強者に甚振られるとはこの事か、という思考が脳裏を過ぎった。
どうにかして、一太刀浴びせてやりたい――。
なりふり構わず、拳に蹴り、足払いも織り交ぜぶつかっていくが攻撃は当たらない。隙も見当たらない。
ギリリと奥歯を噛み締めれば、砂の味がした。
「そろそろ、良いか?」
呑気な声に腹を立てる間もなく視界が反転し、背中を襲った衝撃に息が詰まる。
目を開けた先、目の前には剣先があった。
クルトの左手がディーデリックの胸元の服をつかみ、腕で首を締めるように押さえつけられているため身動きが取れない。両手も踏み付けられていて、動かせそうになかった。
殺されるのだと思った。
「勝者、クルト!」
聞き慣れた上司の声で己が息を止めていたことに気付き、慌てて空気を肺に取り込む。
すぐに拘束が解かれ、目の前に手が差し出された。
「大丈夫か?」
「…………何なのだ、あなた達は」
素直に手を取ったディーデリックが立ち上がると、クルトは笑う。
「ガキの頃から命懸けで生きてきただけだ」
「たかが三年戦場を経験したからと、勝てる相手ではなかったのだろうか」
「さぁ? 俺は、地獄は知っていても戦場は知らない。ガイなら両方知っているが、今は王都だ」
「……ガイ・マウエンは、戦場の英雄だろう?」
「そういえば、そんな名だったな。だが、十年以上前の話だ」
「あなたの師は、彼なのか?」
「師匠なんて、呼んでやらないけどな」
「なるほど。強いわけだ」
力の抜けた表情で、ディーデリックは告げた。
話しながら、二人は執務スペースの前へと辿り着く。座ったまま二人を迎えたアズサを見据え、ディーデリックは深く、頭を下げた。
「あなた方を侮り失礼な態度を取ったことを謝罪する。罰も、謹んでお受けしよう」
「鼻っ柱はへし折れましたか?」
「……粉々だ」
「それは良かったですね」
微笑み、アズサは立ち上がる。
「では、閉めましょうか」
訓練場の中心へ、主審と副審と、出場者たちが集められた。
アズサの隣にはフィロメナがいて、アズサから手渡された物を見て笑いを堪えている。
「皆さん! 正々堂々良い戦いでした! もしまた喧嘩をしたくなったら申し出てください! 最弱決定戦をやりましょう! では、第一回最弱決定戦、敗者に証を授与します!」
アズサに促され、フィロメナがディーデリックの元へ歩み寄った。騎士服の胸元に何かを付けると、己の騎士を見上げて破顔する。
「今度は負けないよう、ゲレンに滞在する間訓練に参加させてもらってはいかがかしら?」
「いえ、自分は殿下の護衛ですので……」
「もし訓練に参加したいならやりようはあります。こちらとしても、普段と違う相手と訓練できるのは良い経験となりますから構いませんよ」
アズサがパチンと手を打ち鳴らし、大きな声で叫んだ。
「てっしゅーう!」
職員たちは窓から離れて仕事に戻り、自警団員たちは後片付けに動き始める。
ヨスとイーフォがディーデリックの胸元を覗き込み、腹を抱えて笑いだす。
若い騎士の胸元にはフィロメナが付けた勲章が輝いていたが、一見格好良い勲章の中には「ごめんなさい」と書かれていた。ディーデリックもそれに気が付き、苦い笑みを浮かべる。
「互いにわだかまりを残さない結果へ導く、見事な采配でした」
テオドルスから声を掛けられたアズサは静かな笑みをたたえただけで、何も言わない。
そうして、険悪な空気で始まった試合は和やかな雰囲気で、幕を閉じたのだった。
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