第24話 お姫様と、仲良くなってみましょうか

「アズサ~!」

「ミア、ピム! 昨日は顔を出せなくてごめんね」


 駆け寄ってきた金髪の子どもたちを両手で抱きとめて、アズサは頭の天辺へ頬を擦り寄せた。アズサの後ろにいるクルトに気付いたピムが、抱っこをせがむ。

 他の子どもたちも集まり始め、見慣れない四人をあからさまに警戒して避けているようだ。


「アズ先生、甘い匂いするー」

「クッキーかなぁ?」

「アズ先生のクッキー大好き!」

「ピムばっかズルいぞ! クルト! 俺も!」

「私もお兄ちゃんに抱っこされたーい」

「ねぇ先生、今日はお歌がいいな」

「算数が良いよ! 九九覚えたんだ!」

「こら。あんまり一気に話すとアズ先生もクルトさんも困っちゃうだろ」


 年長の子に声を掛けられ子どもたちは素直に返事をしたが、アズサの手をつかんで引っ張って行く。クルトも引っ張られ、残されそうになった勇一が慌てて追い掛ける。


「フィーも、行く」


 片言で告げて、勇一がフィロメナの手をつかんで引いた。

 建物に近付くと、院長を含めた孤児院の先生たちが顔を見せる。


「こんにちは、アズサさん。あちらの方々は……もしかして」


 フィロメナと騎士の姿を見て、先生たちの表情が凍った。途端、子どもたちへも不安が伝染してしまう。


「驚かせてしまってすみません。彼らは、王都からいらしたギルドのお客様です。彼女のお母様が王都で孤児院を経営されているとのことだったので、何かアドバイスがもらえればとお連れしました。悪い人たちではないですよ」

「……アズサさんがそうおっしゃるのなら、わかりました」


 気を取り直した院長たちとフィロメナが挨拶を済ませ、アズサはすっかり静かになってしまった子どもたちに向かい合った。


「本物のお姫様と騎士様を連れてきたよ! みんなと遊んでくれるんだって。でも、あんまりはしゃぎ過ぎないようにね」


 明るい返事の後で、元気を取り戻した子どもたちが動きだす。女の子はフィロメナに、男の子は騎士の足元へと集まった。

 ミアもフィロメナのそばで、瞳を輝かせている。


『ユウイチは、ピアノが弾けると言ってましたよね?』

『弾けますけど……簡単なものだけですよ?』

『構いません。この子たち、ニホンの童謡が好きなんです』


 クッキーが詰まった籠は先生たちへ託し、アズサは勇一を連れてピアノが置かれた部屋へと向かう。ピムはクルトのそばにいて、お姫様と騎士に興味を惹かれなかった子どもたちも、後に続く。


「このお兄ちゃんはユウイチ。遠い国から来た旅人なの。特技はピアノだって!」


 子どもたちからの拍手を浴びて、勇一が戸惑いを見せる。


『子どもたちには、ユウイチは遠い国からの旅人だと説明しました。特技はピアノだとも』

『え! ハードル上がってません?』

『まぁまぁ。まずは、何でも良いですよ』

『えーと……じゃあ』


 ユウイチが弾き始めたのは、チューリップ。子どもたちはエフデンの言葉で伴奏に合わせ、色とりどりの花の歌を歌う。


『すごい。翻訳したんですか?』

『この子たちがニホン語を覚える必要はないので、フェナとリニと一緒に、エフデンの言葉に直したんです』


 子どもたちからのリクエストを何曲か弾いた所で、フィロメナと騎士たちが、ピアノの音色に惹かれた子どもたちに手を引かれてやってきた。


『実は俺、教育学部に通ってて……将来は、小学校の先生になりたいんです』

『夢があるのなら、ニホンへ帰らないといけませんね』

『…………はい』


 ピアノは幼い頃、姉と共に習っていたのだと勇一は話す。帰りたい気持ちが刺激されたのか、瞳が微かに、潤んでいた。


 二人のそばにフィロメナがやって来て、自分もピアノは得意だと胸を張る。

 勇一が弾く曲にフィロメナがアレンジを加え、子どもたちが歌う。そうして過ごす内にあっという間に時間は過ぎて、昼食の時間がやってきた。


「……この孤児院、食事も含めて随分環境が良いのね」


 帰る間際、フィロメナがアズサの隣へ来て呟いた。


「王都では、違うんですか?」

「お母様は、改善の努力をされているわ。だけど、予算を十分に回しているのに、それが子どもたちへ行き渡らないことがあるようなの」

「横領ですね」


 こくりと、フィロメナは頷く。


 暇の挨拶をしてから孤児院を後にして、ゆっくり歩きながらフィロメナはまだ、アズサの隣にいた。何か話したいことがあるのだろうと、彼女が話し始めるのをアズサは待つ。


「信じられる人を見つける方法を、貴女はご存じなのね?」

「いえ、知りません」


 フィロメナから疑いの視線を向けられて、アズサは苦く笑った。


「みんな、最初は無関心でしたよ。他人を思いやれるのなんて、生活と心に余裕がある人間の特権です」

「それなら、どのようにして貴女は今の環境を作ったの?」

「お金です」


 目を丸くしてパチパチ瞬きをしたフィロメナの顔をちらと見て、アズサは言葉を続ける。


「私たちは、お金を稼ぎました。たくさん、たくさん、稼ぎました。街の人へ仕事を依頼して、稼いだお金で報酬を払う。それがギルドの始まりです。みんな、地獄から抜け出したいと考えていたから協力してくれました。あなたのお母様とは、始まりも、規模も、何もかもが違います」

「それなら……王都で暮らす孤児たちはどのようにして救えば良いの?」

「ギルドへ依頼していただければ、優秀な担当者が相談をお受けしますよ」

「そういうことも、やっているの?」

「本来は、知恵を貸すのは魔女の仕事です。ですがあなたのその悩みは、ギルドを実際に運営している私たちの方が詳しいので、特別です」

「私たち、というのは……貴女と、誰のこと?」

「ギルドの職員です。経営や経理については幹部たちが詳しいですよ」

「……貴女には、仲間がたくさんいるのね」

「お友達がいなくて寂しいのなら、茶飲み友達にでもなって差し上げましょうか?」

「本当!?」


 そんな物はいらないと、突っぱねられるものだと思って吐いた言葉だった。だが予想外に嬉しそうな声と表情を目の当たりにして、毒気が抜かれてしまう。


「……からかったのね? 笑うなんて、ひどいわ」

「すみません。でも、そうですね……友人として、まずはゲレンでお薦めの店へお連れしましょうか」

「わたくし、お友達と外で食事なんて初めてだわ」

「食事というよりも、買い食いの方が正しいですかね」

「かいぐい、って、何かしら?」

「お店で買った物を食べるんです。残念ながら飲食スペースは設置していないので、買ったらギルドへ持って帰って食べましょう」

「どちらにしろ初めてだわ。なんだかわくわくするわね!」


 目の前の少女は王族である前に、十七歳の女の子なのだと、気が付いた。


「私もユウイチのように、フィーと呼んでも良いですか?」

「許すわ」

「ありがとうございます。フィー」


 呼べばフィロメナの頬が微かに染まり、それを見て、アズサは笑みを滲ませる。


「ユウイチは昨日、そこで働いていたんです」

「そうなの?」


 突然女性二人が振り向いたことで、クルトの隣を歩いていた勇一は驚いたようだ。視線を泳がせ、クルトに何事かを聞いている。

 パン屋に行くらしいとニホン語でクルトが伝えれば、納得したように頷いた。

 勇一も、どうやら腹が減っていたようだ。


『そういえば俺、この世界のお金なんて持ってないんですけど……』


 ふと気付いた事実に、勇一が顔を青褪めさせる。この世界に召喚されて以降、当然のように与えられる物を享受してきた。だが、勇一を強制的に呼び出したフィロメナとは違い、アズサたちには勇一を保護する義務はないのではないかと思ったのだ。


『二日目にして、やっとか』


 クルトが呆れのため息をこぼし、アズサが笑う。


『ユウイチは魔女が受け取った対価なので、最低限の生活は私の方で保証します。ですが全て無償で、というつもりはないので、労働力で払ってもらいます。昨日働いてもらったのはその一環ですよ』


 今日の孤児院での演奏もその一部だと言われ、勇一はほっと胸を撫で下ろした。


「ねぇ、何のお話?」


 フィロメナに問われ、アズサが答える。


「ユウイチが、自分が無一文なのだと、この世界に来て初めて気付いたみたいです」

「あら、そうなの? ユウイチの世界のお金は、ここでは価値がないのかしら?」

「珍しさ、という意味での価値はありそうですが、あちらの物をこちらで消費すると、帰った時に無一文で放り出されて結局ユウイチが困ることになるかもしれません」

「……ユウイチは、やっぱり帰りたいのよね?」

「フィーも、突然言葉も通じない知らない世界へ放り出されれば、帰りたいと思いますよね?」


 こくり、と縦に動いた頭を無意識に撫でてしまってから、アズサは自分で自分の行動に驚いた。

 フィロメナは不快ではなかったようで、むしろ少し嬉しそうだ。

 それを見て、アズサはふむと呟いた。


「光明が見えた気がします」

「何のお話かしら?」

「フィーを可愛いと思えて、正直、ほっとしました」

「わたくしも、少しずつだけど貴女のこと、怖くなくなってきているわ」

「それはお互いに、幸運なことですね」


 ヘイスのパン屋でパンをたくさん買って、ギルド本部へ向かう。道中は午前中とは打って変わって、和やかな雰囲気だ。

 ギルド本部へ着くと応接室へ入り、お茶の支度を手早く済ませると食事をして待っているよう伝えてから、アズサは一人で執務室へ向かった。そこにはブラムとフェナとヨスがいて、忙しそうにしている。不在にしているコーバスとガイの、仕事の皺寄せのせいだ。


 急ぎの案件を確認してから、アズサはブラムへフィロメナからの依頼について相談した。


「助言は簡単だが、彼女に活かせるのか?」

「その辺も、話しの中で確認してみる。私の分の書類をちょうだい。フィロメナ殿下の話を聞きながら処理するから」

「契約を交わすなら俺も行く。ユウイチはどうする?」

「うーん……教える余裕があるなら、ブラムに任せたい」

「承知した。アズサでは思いつかないような発想がないか、話してみたかったんだ」

「じゃあユウイチはお願いするね。ヨス、リュドは今自警団の方だよね? 問題はなさそう?」

「あ~……元々あいつは向こうも手伝ってたから、大丈夫だろう。だがクルトにも来て欲しいとは言ってたぜ」

「わかった。フィロメナ殿下の相談が終わったらそっちに行く」


 話が一段落したところでアズサが書類を取りに行くと、待ち構えていたフェナに顔を覗き込まれた。


「お昼ご飯、食べた?」

「まだこれから。応接室にパンがあるんだ」

「一人で抱え込むのは、無しだからね?」

「うん。ありがとう」


 フェナにぎゅっと抱きついて、元気の充電。


「フェナの顔見たら、お腹減ってきた」

「もう、アズちゃんったら。ちゃんと水分補給もするんだよ?」

「はーい」


 書類を抱えて、アズサはブラムと共に応接室へと向かった。


   ※


 慌ただしい一日が終わり、湯浴みと夕食を終えたアズサは、自室ではなく書庫へと向かった。

 なんだか、とても久しぶりな気がする。

 窓辺のソファへ腰を下ろし、ほっと息を吐き出した。自室よりも書庫の方が安らげる気がするのは、何故だろう。


 扉が開く音がして、聞き慣れた足音が近付いてくる。


「アズサ、大丈夫か?」


 閉じていた目を薄っすら開けて、右手を伸ばす。歩み寄ったクルトがその手を取って、隣へ座った。甘えるように、クルトの肩へ頭を乗せてみる。


「クルトだって、見張りばかりで疲れたでしょう?」

「俺はアズより体力がある」


 気が緩んだ時のクルトが、無意識に「アズ」と呼ぶのが、好きだ。


「……これが、好きの距離かぁ」


 自然と笑いが込み上げて、アズサの頬が緩む。

 クルトがどんな表情をしているのかが気になって、下から覗いてみた。


「真っ赤。かわいい。好き」


 フィロメナが勇一へするように、腕を絡めてぴたりと身を寄せてみる。

 クルトの体が、強張った。


「……いや?」

「嫌なわけ、あるか」


 幸せな笑いが込み上げて、繋いだままでいたクルトの手の甲を、もう片方の手で撫でる。

 昔はアズサの方がクルトよりも背が高かったのに、すっかり大人の男の人になったんだなと思うと、しみじみと感じ入るものがあった。


「ねぇ」

「……なんだ?」

「今朝、キッチンでの会話。どこから聞いてたの?」


 しばらく沈黙があって、ぼそりと、クルトは答える。


「ガイの、護衛の教訓あたり」

「結構聞いてたんだね。逃げ出そうとしたのは、どの辺?」


 今朝の出来事について、クルトは淡々と説明した。


 ブラムとヨスと共に庭での鍛錬を終わらせ、シャワーを浴びた後で食堂へ入った三人は、首を傾げた。いつもなら誰かがいて、慌ただしく皿を並べている時間だったのに、食堂には誰もいない。

 キッチンからの声に気付き、三人はキッチンへ向かった。そこで聞こえた話の内容に、クルトはぴたりと足を止めた。

 漏れ聞こえた話を聞いて状況を理解したヨスが、ニヤニヤ笑いながらクルトを羽交い締めにして素早く口を塞ぎ、ブラムは呆れを顔に浮かべてクルトへ振り返り、そのままの状態でイーフォの話を聞かされたのだという。

 静かに暴れて逃げ出そうとしたが、ブラムとヨスの二人がかりではそれも叶わず、イーフォに声を掛けられるまでクルトは捕らわれていた。


「捕らわれのウチュウジンみたいだったよね」

「ウチュウジン好きだな、アズ」


 アズサはくすくす笑って「私が好きなのはクルトだよ」と答える。それを聞いたクルトは耳まで赤く染めて「そうかよ」とそっけなく返した。


「リュドとイーフォが言ってたことって、本当?」


 しばらく沈黙があって、アズサがクルトの顔を見上げてみれば、ばつの悪そうな表情を浮かべている。

 青い瞳がアズサへ向けられて、クルトが小さく、頷いた。


「私の好きが、唐突過ぎたせいだね」


 アズサがクルトへ想いを告げたのは、半年ほど前のこと。街の見回りの最中何の脈絡もなく「私、クルトが好き」と告げた。

 その時のクルトはただただ驚いていて、じわじわ顔が赤く染まっていく様を見ながらアズサは、可愛い人だなと思っていた。


「焦っちゃったんだよね。女の子たちの間で、イーフォ、ハルム、クルト、ブラム、ヨスを愛でる会があってね」

「何だそれ」

「あ、リュドとガイもあるんだけど」

「ちょっと待て。話が見えない」

「フランク先生もあって……でも残念ながら、コーバスはないみたい」

「おい、アズサ」


 黙って聞け、と言うように、アズサの人差し指がクルトの唇へと押し当てられた。

 至近距離にある漆黒の瞳と好きな女性の指の感触に、クルトの心臓が胸の中で暴れ回る。


「伝えなきゃ、取られちゃうって思ったの。クルトの隣で私以外の女の人が幸せそうに笑うのなんて、耐えられない。だって、ずっと――大好きだったのに」


 漆黒の瞳が物憂げに伏せられて、クルトがアズサの手首へそっと触れた。抵抗することなく、アズサの指はクルトの唇から離される。


「ずっとって、いつから?」


 静かな声に問われ、アズサは、青い瞳を見つめ返した。


「気付いたのはね、この、怪我の後」


 アズサの手が顔の傷を撫でる。


「ブラムたちにすっごく怒られて、ヨスもリュドも、すごい怒ってて……フェナとリニには泣かれたなぁ。コーバスも、泣きながら怒り狂っててね」


 懐かしそうに目を細めたアズサの声を、クルトは黙って拾う。


「どうしてそんなことをしたんだって聞かれて、自分でも、なんであんな真似したんだろうって考えて、思ったの。――あぁ私、クルトが好きなんだって。クルトを、失いたくないんだって」


 気付いた後は、どんどん想いは募った。


 クルトがガイのもとで訓練を受けるのも、こっそり覗きに行った。

 アズサの護衛を決める話し合いでクルトが志願してくれた時は、嬉し過ぎて目眩がしたぐらいだ。それから毎日そばにいて、喧嘩したり怒られたりもあったけど、そばにいるのが当たり前なのが、幸せだった。


「フェナやコーバスとか、他のみんなが危ない状況でもきっと私は同じことをしたと思う。だけどね、クルトに対する好きは、種類が違うの。……触れたくて、触れて欲しくて。せつなくて苦しくなる。心臓はいつでも騒がしくて、だけど、不思議と心地良い。そういう、好き」


 クルトが、嬉しそうにくしゃりと笑った。この表情も大好きなんだよなぁと、アズサは思う。


「アズサ、好きだよ」

「いつから?」


 クルトがしたのと同じ質問を返したら、優しい顔で、彼は微笑む。


「ハルムを助けてくれた時があっただろう? あの後お礼を口実に、アズサを探したんだ」


 最初に会った時も、二回目も、危険に巻き込まれていた女の子が気になった。

 見つけた彼女はまた一人でふらふらしていて、心配になってしまったのだ。それで、よく声を掛けるようになった。


「同じ背丈の女の子を見掛けると、アズサかなって追い掛けて、違っているとガッカリした。いつしか、後ろ姿だけでアズサだってわかるようになってさ」


 当時のことを思い出したのか、クルトが恥ずかしそうに、笑みをこぼす。


「アズサの可愛い笑顔を、俺が守りたいって思った。だから、仲間に入ったんだ」


 なのに、と言いながら、クルトの指先がアズサの顔の傷を辿った。


「こんな怪我、負わせて、ごめん」

「……目立つところに傷を負っちゃってごめん。気になるよね」

「いや。傷があってもアズサは綺麗だ」


 途端、アズサの顔が真っ赤に染まる。


「独り占めしたい。俺がいないとダメになるほど、甘やかしたい。他の男が触れるのは嫌だ。ブラムにもヨスにも嫉妬してる」

「ぶ、ブラムとヨスはお兄ちゃんみたいな存在で……それにヨスは、フェナに夢中だからね」

「知ってる。――攫って、隠して、甘やかして。アズにはただ、ヘラヘラ笑ってて欲しい。だけどちゃんと、わかってるから」


 クルトの手が頬に触れて、指先がアズサの耳たぶを撫でた。


「みんなのために走り回って、頑張り過ぎて、上手く泣けないアズサも好きだ。資格がないなんて、嫌われるのが怖い言い訳だった。だけどもう――逃さないって決めたからな?」

「へ?」


 いつの間にやらクルトの体は完全にアズサの方へ向けられていて、クルトの両腕と片脚が、やんわりとした檻を作っていた。

 ゆっくり距離が縮まって、アズサの視界は、クルトでいっぱいになる。

 全身をクルトの温もりに包まれて、幸せで、泣きたくなった。


「大好きだ」


 クルトの吐息が、耳を撫でる。


「もう我慢してやらないから、気を付けて行動しろよ?」

「み、みみみみ耳元で言わないでっ」

「アズ」

「ひゃいっ!」


 くすぐったくて、驚いて、変な返事をしてしまったことが恥ずかしくて、アズサの全身が熱を帯びる。


「かわいい」


 くすりと笑う気配の後で、体温が離れた。

 最後にちゅ、と。可愛らしい音と共に額へ唇が押し付けられた。そこは――傷痕の先端。


「明日が食べ頃か……」


 唇へと注がれる視線に、アズサの思考は、沸騰する。


「あ、あの時は恥ずかしがってたくせに!」

「人前で言うからだろ? ……好きな女にキスしたいと思うのは、当然だ」

「好きな女っ」

「繰り返すな!」


 アズサの頬をつまんだクルトの、耳が赤い。


「……寝るか?」

「……寝ようか」


 二人同時に立ち上がり、クルトの手が差し出された。アズサは迷わずその手を取って、笑みをこぼす。

 手を繋いだまま書庫を出て、入口を施錠して、階段を上り部屋の前に着くと、するりとクルトの手が離された。


「んな寂しそうな顔をするな!」

「いてっ」


 力強い指先がアズサの眉間を突き、アズサはへらりと笑う。


「おやすみ、クルト」

「おやすみ。……何かあったら、呼んで良いから」

「うん。ありがとう」


 自室で寝る支度を整えてからベッドへと潜り込み、アズサは一日の出来事を反芻する。

 興奮して眠れないかもしれないと思ったが、胸いっぱいに広がった幸福感が心地よくて……恐ろしい夢の影は忍び寄る隙もなく、アズサは穏やかな眠りについた。

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