第9話 あなたの前では、普通の女の子でいたかったんです
エフデン王国キービッツ領ゲレンの街は、魔女によって統治されている。
先頃キービッツ伯爵からゲレンの自治権を勝ち取ったという噂で、街じゅうが浮ついていた。領主の次は国が出てくるかもしれないが、彼女なら問題なくあしらってしまうのではないかと、皆が自然と期待する。
その正体がか弱い普通の女性だという事実は、ゲレンの外の人間には決して悟られてはならない。
顔に痛々しい大きな傷が刻まれているが、ゲレンの街の人間は皆、見慣れてしまった。本人も気にしていない様子で、隠すことなく明るい顔でいつも笑っている。
ゲレンの街の人々のため奔走する彼女が風邪で寝込んだ時には、まるで火が消えたように街じゅうが暗く沈んでいた。
全快した後は、変わらぬ笑顔で護衛の青年と歩く姿が再び見られるようになり、住民たちはほっと胸を撫で下ろしたものだ。
護衛対象と護衛の二人だが、最近、二人の間に漂う空気に変化があった。
アズサもそれは敏感に感じ取り、クルトがどこか変わった気がすると、様子を窺っている。
アズサの見立てでは、風邪で寝込んだ時、同じベッドで目覚めて襲われかけたことが尾を引いているのではないかと思うのだ。押せば落ちてくれるのではないか。ほんの少しだけ、期待が胸に湧く。
「クルト」
「んー?」
「人差し指出して」
「なんで」
「良いから!」
ピンと立てられた指の向きを調節し、自分の人差し指の先端と触れ合わせる。
「いーてぃー」
「何それ?」
「なんか、ウチュウジン?」
「ウチュウジンって?」
「お友達になるらしいよ」
「誰と?」
「ウチュウジン……」
「なんでガッカリしてんだよ」
ピンと額を弾かれて、アズサはへへへ、と緩んだ顔で笑う。
前と違って、クルトの雰囲気が柔らかくなった気がするのだ。前まではいつでもどこか気を張っていて、眉間の皺が標準装備だった。
笑ってくれることも、増えた気がする。
アズサはそれが、とても嬉しいのだ。
「デコピンよりデコチューが欲しい」
「ん」
「え?」
ちゅ、と軽いリップ音。
額に触れた、柔らかな熱。
「…………アズがしろって言ったんだろ」
見上げた先にある顔は、赤い。多分アズサの顔も真っ赤だ。
クルトは片手で口元を覆って顔をそらしたが、耳まで赤く染まっている。
なんだか胸の奥がムズムズして、アズサも彼から視線をそらす。
「してくれるって、おもわなくて……すごい、嬉しい」
両手で額を押さえながら「今日死ぬのかもしれない」と、アズサは本気で思った。
指先を触れ合わせたのは、故意に触れ合いを持つことでドキドキさせる作戦だったのだが、これは期待以上の結果ではないかと踊りだしたい気分だ。
宇宙人とは何かを、杉本梓の記憶から得た知識で説明しながら歩く。
今日のアズサは働いてはいけない日。
風邪をひいて寝込んで以降強制的に与えられるようになった、定期的な休日だった。自然、アズサの護衛が主な仕事のクルトも休みとなり、二人は書庫で存分に本を読もうと向かっている途中。
街へ出ればどうしても仕事をしたくなるため、家に籠もることにしたのだ。
クルトから言わせれば読書もアズサの仕事ではないかと思うのだが、本人が嬉しそうなので黙っていることにした。
各々読みたい本を積み重ね、窓辺のソファへ腰掛ける。
窓から差し込む光で満ちた書庫の中。ページを巡る音だけが、静かに響く。
この書庫には、エフデンとその周辺国から集められた書物が詰まっている。
歴史書、法律関連、伝承など。幅広く知識を得たいとアズサが望み、各地へ商売で出向くギルドの職員たちが買い集めてきた物だ。
クルトが読んでいるのは歴史書。エフデンの歴史が記されている。
読んでいる途中でふと、違和感が頭を過ぎった。開いたページには、キービッツ領の始まりが書かれている。
「……なぁ、アズサ」
「んー?」
のんびりと返された、気の抜けた声。少し迷ってから、クルトは再び口を開く。
「キービッツ伯爵に言ったことってさ、どういう意味だったんだ?」
「どれのこと?」
「この土地も民も元は私のものだったって、言っただろ?」
「私って……私?」
アズサは己を指差し、首を傾げている。
自分を指すのに使った人差し指をそのまま顎へ当て、記憶を辿っているようだ。
「もしかしたら、ラドバウトさんに体を乗っ取られたのかなぁ」
「乗っ取られた?」
思わぬ返答を受け、クルトの眉間には皺が刻まれる。アズサはクルトの表情には頓着せず、のんびりと話を続けた。
「カウペルっていう、歴史から消えた国があるんだけど」
カウペル――聞き覚えのある言葉だ。どこで聞いたか、クルトはすぐに思い至る。熱で錯乱したアズサが、ニホンとエフデンと並べて口にしていた、どこかを指す言葉。
「ゲレンの街はね、元々カウペルの王都だったの。だからここの住民って、元を辿るとカウペル人なんだよ」
「ラドバウトとは、何者なんだ?」
「カウペルの王様。エフデンにね、国を盗られて殺された、存在すら抹消された、悲しい王様なの」
「そいつと、アズサの関係は?」
困ったなと、アズサは頬を掻いた。あまり話したくないことなのかもしれないが、聞いておく必要があると、クルトは感じる。
何か、あまり良い予感はしなかった。
「ニホンの話みたいに、楽しくないよ?」
「構わない。乗っ取られたなんて不穏な言葉は聞き流せない」
「そう、だよね……」
話す気になったのか、アズサが本を閉じたから、クルトも体の向きを変えて向かい合う。クルトはソファの座面で胡座を掻き、アズサは、膝を抱えていた。
「私ね、産まれた瞬間から、ちょっと変だったの」
視線を落とし、どこか怒ったような口調だ。落ち着かないのか、前後にゆらゆら、体を揺らしている。
「産まれ落ちた瞬間から、私は、私だった。赤ちゃんなのに、一人の人間だって理解してたの。……気持ち悪くない?」
ちらりと向けられた視線。
漆黒の瞳を見つめ返し、クルトは考えてみる。アズサを気持ち悪いと思うかだって? そんなことは、有り得ない。
「全く。それで?」
「それで……私の中には、私のじゃない人たちの、人生の記憶があったの。それも、二人分」
その内の一人が杉本梓なのだと、アズサは告げた。
「もう一人が、ラドバウトさん」
「そいつがどうしてアズサを乗っ取るんだ? スギモトアズサもそういうことをしてくるのか?」
「杉本梓は、しない。記憶だけが私の中にあって、存在は、感じないもの」
「ラドバウトは、違うんだな?」
アズサは答えず、物思いに沈んでいるようだった。
先ほど絡んだ視線は膝へ落ち、体がまた、前後に揺れている。スカートの中へ両脚を折りたたんだ姿はまるで、幼い少女のよう。どことなく、心細そうに見えた。
「…………魔女の館の、あの部屋」
話す気になったのか、アズサは口を開いた。クルトはじっと、耳を傾ける。
「ラドバウトさんが、息を引き取った場所……なんだよね。あの部屋限定なんだけど、たまにね、感じるの。気配? みたいなもの。あそこで魔女をしてるとたまに……触られる」
「さわ、るって……どこを!」
「どこ? 肩とか、頬かな」
ソファの座面で体を滑らせ、クルトが距離を詰める。
一気にアズサの眼前まで移動したクルトは、アズサの細い両肩や背中をパタパタと叩き、大きな両手で頬を拭う。呆気にとられたアズサの瞳と視線がかち合ったが目をそらさず、柔らかな頬を両手でぐにりと挟んだ。
「何故、そんな場所を選んだ」
「えっとね、地下通路。あれは、エフデンは知らないから。利用しようって、思って。街の人たちも驚いてたでしょう?」
確かにそうだった。アズサは偶然見つけた風を装っていたが、偶然にしては出来過ぎていた。
「私と彼は、利害が一致してるの。ラドバウトさんは、ここの人たちを救いたかったみたいだから」
「アズに、危険はないのか?」
「どうだろう? 多分私は、乗っ取られても自覚がないと思うんだ」
クルトの両手に顔をつかまれた状態では俯くこともできず、アズサは視線だけを、下へと向ける。
「……普通の女の子だよ、なんて主張してたくせに……やっぱり本当は、普通じゃないんだ、私」
「そんなの、アズサがアズサなら、なんだって良い」
目なんてそらさせない。触れる両手に力を込めて、クルトは断言した。
ためらいがちにアズサの視線が上がり、揺れる瞳が、クルトを映す。
「ほんと?」
「本当。それよりも、
アズサを失いそうな……言い知れない恐怖を感じた。そこでふと、見逃しかけていた疑問を見つける。
「カウペルは、何故、歴史から消えた?」
「それは、わからない」
「わからない?」
「うん。だって、どの国の歴史書を調べても載っていないんだもの。存在した証拠は、私の持つ記憶と、地下通路の存在。あと、ラドバウトさんの幽霊がいることだから。私も気になってずっと調べてるけど、わからないの」
書庫には歴史書が多い。その理由が、ようやっと理解できた。
「そんなに心配しなくても大丈夫だよ。元々魔女は、そろそろおしまいにしようってブラムと話していたの。お金はギルドで稼げるようになったし、領主をおびき出すっていう目的も果たした。もう、貴族たちに会う必要はないから」
「そうか……それなら、良い」
ほっと息を吐き、アズサの頬を挟んでいた両手から力を抜く。離れようとした手をアズサがつかみ、クルトの右手は柔らかな頬に触れたまま、残された。
「好き」
目を瞑りすり寄ってきたアズサのあまりの可愛さに、飢えた獣の如く襲いかかりそうになるのを、クルトは必死で堪える。
危うく理性が崩壊してしまう、いじらしさだった。
――護衛の仕事してるとさ、護衛対象に惚れられるってことも結構起こるわけよ。だけどそれは一時の気の迷いみたいなやつでさ、危険から守られた時のドキドキと、恋のドキドキを勘違いしちまうんだ。だから、こっちまでその気になんてなったら大火傷。お前も気を付けろよ、ガキンチョ。
何度も反芻してきた、己を戒める言葉。
子供の頃にガイから聞かされた話は、クルトの記憶に焼き付き離れなくなっていた。
クルトは本気で、心からアズサを愛しているから。気の迷いでしたなんて言われたら、立ち直れる気がしない。
クルトがアズサの想いを受け止められないのは、自分が傷付きたくなかったからなのではないか。
俺は、色々と難しく考え過ぎているんだな。
クルトは心の中で、呟いた。
抗わず、望むまま触れてしまっても良いのではないか。好きだと伝えたら、アズサはどれほど喜んでくれるだろう。
アズサは、アズサだ。
優しくて、他人を見捨てることなんてできなくて、頑張り過ぎてしまう女性。
街のみんなを大好きで、街の皆が、大好きな人。
アズサの瞼が持ち上がり、上目遣いで、クルトを見上げた。
右手を動かそうとすれば、手の甲に触れていたアズサの両手は離れていく。落胆が滲む漆黒の双眸を見つめながら右手を滑らせ、愛らしい耳に指先で触れた。
アズサの両肩がびくりと跳ねて、白い頬が鮮やかな朱色に染まる。
漆黒の瞳から落胆は消え去り、純粋な驚きが、そこにある。
クルトは左手を背もたれへ置き、ゆっくり、アズサの体温へと体を寄せていった。
アズサはあの夜のことなど、フランクが言っていた通りすっかりさっぱり忘れてしまっているようだから。もう一度はっきり伝えなければと、口を開く。
「アズサ、俺――」
書庫の扉が開く音で、咄嗟に言葉を飲み込んだ。
「アズサ。ここにいるか?」
ブラムの声だ。
「い、いないッ!」
アズサが妙な返事をしたが、クルトは素早く身を離し、必死に平静を装う。が、二人揃って顔の赤さを隠せない。
本棚の向こうから姿を見せたブラムは、窓辺のソファで両端に座るアズサとクルトを見つけると、気まずそうに視線を泳がせた。
「……すまない。邪魔だったな」
アズサもクルトも、何も答えられない。
「休みなのに悪いんだが、トラブルだ」
そうしてクルトの告白は、機会を失った。
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