第7話 なんだか、大変な騒ぎとなりました
「アズサ?」
「あい」
「俺が誰か、わかるか?」
「クルトでしょう?」
「ここがどこかわかるか?」
「……私の部屋?」
「国の名前は?」
「エフデン。……どうしたの?」
はぁっ、と深いため息を吐き出して、クルトは体から力を抜いた。
「良かった……。おかえり、アズ」
「ただいま?」
一晩中起きていたのか、クルトはひどい顔をしている。眠気に抗えないという様子で瞼が下りていき、体から、力が抜けていく。
クルトは、そのまま寝息を立て始めた。
とても心配を掛けてしまったようだと自覚して、アズサはぐるぐる巻きの毛布からどうにかこうにか抜け出し、クルトの大きな体を寝やすいように動かす。
頭をそっと枕へ乗せ、重たい両足をひっぱり寝る姿勢へ整えてやる。
アズサの汗が染み込んだ上掛けと毛布ではなく新しい物を出して、長身を覆ってほっと一息。
汗でベトベトの体を何とかしたくて、自室にあるシャワー室へ向かう。屋敷を建てる時、わがままを言って設置してもらったのだ。水洗トイレもある。
汗を流し、さっぱりした状態で新しいパジャマへ着替えた。
窓辺のテーブルが視界に入り、クルトが持ち込んだ荷物の山を漁る。
水差しにモルスが残っていたから、ゆっくり飲みながら、たくさんの贈り物を確認した。
途中お腹が空いて、鍋の中にあった果実煮を一欠片つまむ。身覚えのある鍋だ。ヘイスが作った物だろうか。
孤児院の子どもたちからの手紙もあった。
もう少し元気になったら、ゆっくり読ませてもらおうと考えつつ、アズサは微笑む。
また眠たくなってきて、クルトが眠る隣へ潜り込んだ。ドキドキしながら手を伸ばし、剣だこのある手を握ってみる。
起きる気配がない。
顔を見たら、濃い隈があった。
「心配掛けて、ごめんね」
指先でそっと隈を撫で、柔らかな黒髪に指を通してみる。
幸せな気持ちになって、目を閉じる。
そのままクルトの手を握り、彼の寝息を聞きながら、アズサはもう一度眠った。
幸福に満たされ目を覚ますと、大好きな人の顔が目の前にあった。
彼も目覚めたのか、青い瞳がアズサを見つめている。
「おはよ、クルト」
あまりにも幸せで、緩んだ顔で笑ったら抱き寄せられた。自然な動作で、額に唇が触れる。
カッと体が熱くなり、アズサは硬直した。
少しカサついた唇が滑り、頬へと押し付けられる。なんだかよくわからない内に体がぐるりと反転。耳を甘噛みされて、鼻から抜けるように変な声が漏れた。
「アズ……」
掠れた声が色っぽ過ぎて、アズサの頭はどうにかなってしまいそうだ。
顔の横にクルトの片腕があって、彼の体重を支えている。
胸から下が、密着していた。心臓の音が、どちらのものかわからない。
脚の間にクルトの片脚があって、アズサの右腿は彼の両膝に挟まれてしまっている。
大きな手が頬を包み、少し開いた唇が、アズサの口を食べようと近付いてくる。
キスされるのだと悟り、ぎゅっと目を閉じた。
……キスは、してもらえなかった。
凄い速さで重みと体温が離れて、急に寒くなったせいで、アズサはぶるりと身を震わせる。目を開けて見えたのは、全身を真っ赤に染めて両手で顔を隠したクルトの姿。
「ごめん! 夢だと思ったんだ!」
言うが早いかベッドから飛び出して、クルトは己の部屋へと駆け込んだ。だけどすぐに顔だけ覗かせて、アズサの様子を窺っている。
「具合、どんな感じ?」
ベッドの上で上半身を起こし、アズサは落ち着かない気持ちでぼさぼさの髪を撫でつける。だいぶ良くなったよと答えれば、クルトはほっとした顔で笑った。
「食欲は?」
「ある、かな。果物煮が食べたい。あの鍋の、ヘイスさんがくれたの?」
「見たんだ? そうだよ。アズが風邪だって言ったら、作って持たせてくれたんだ。すぐに温めてくるから、待ってろ」
「クルトのご飯が先で良いよ。昨夜、寝てないんでしょう? 大丈夫?」
「それなら、フェナかリニか……マノンでも良いか。誰かを呼ぶよ」
「自分でもできそうだけど……」
「それはダメだ」
とんでもない心配を掛けてしまった手前、大人しく言うことを聞こうと決めた。
その後はまた、大騒ぎだった。
ぞろぞろと、黒髪黒目の女性が四人駆け込んで来て、かいがいしくアズサの世話を始める。
「アズちゃん、良かった。生きてる~」
泣きながら抱きついてきたのは、フェナだ。
「ほんっと心配したんだよ、アズちゃん! もう起きて平気? フェナちん邪魔じゃない?」
言いながらベッドへ乗り上げてきたリニに、髪を梳かされる。
「あそこの布の山は洗濯物? 片付けてきまーす!」
女性陣の中での最年少であるエリーが、上掛けとアズサが脱いだパジャマを抱えて出て行った。
「これ、クルトから頼まれたの。食べられそう?」
マノンの手には器があって、柔らかな湯気が立ち上っている。食べると答えたが、何故か渡してもらえない。
ベッド脇に腰掛けたマノンが、スプーンを握る。息を吹きかけ冷ました物が口元へ差し出され、アズサはパクリとスプーンを咥えた。
スプーンが引き抜かれると同時、温かな果物が舌の上へと落とされる。ゆっくり咀嚼して、飲み込んだ。
じんわり甘くて、少しピリリとして、後味はすっきり。
「おいしい」
「良かった。これ、喉の痛いのとってくれるんだって。たくさん食べてね」
「うん。でもまだ、たくさんは無理そうかなぁ」
「食べないとダメだよ、アズちゃん! お母さん、ご飯食べられなくなって死んじゃったんだから!」
「わかった。ごめんね、フェナ。私は大丈夫だから」
「本当?」
「本当。それより、風邪って伝染るんだよ? みんなに伝染ったら大変だから、もう良いよ。一人でできるから」
声を揃えて「イヤだ」と拒絶された。
「食堂にクルトが来ないから、すっごく心配で」
「私たち、朝、覗きに来たんだよね~」
「そしたらクルトはアズサのベッドで寝てて。驚いて、慌てて扉を閉めちゃった」
「みんなアズちゃんの心配してたのに、クルトばっかり独り占めしてズルいよ! 昨日は仕事があったから我慢したのに。フランク先生に怒られたから、我慢したのに!」
フェナが唇を尖らせ、リニとマノンも同意している。
クルトとの添い寝を見られたことが恥ずかしくて、アズサは何も答えられない。真っ赤な顔で押し黙っている間に、自動的に口へ運ばれる果実煮を完食して、寝癖が付いていた髪はサラサラに梳かされ、荷物の山は整頓された。
まだ寝てなさいとベッドへ押込められ、静かになった部屋で、一人になる。
換気のために開けられた窓から爽やかな風が入り込み、カーテンを揺らしていた。
「明日には復活しないと……」
大きなあくびが漏れ出して、柔らかな微睡みに包まれる。
何度か人の気配を感じたが、覚醒には至らない。
誰かが頭を撫でてくれる。冷たい布が額に乗せられたのが、気持ち良かった。
「昨夜、そんなことが?」
「あぁ。フランクなら、わかるか?」
「そうだねぇ。熱せん忘、かもしれないね。脳の温度が上がり過ぎて、錯乱状態になるんだ。ひどいと窓から飛び降りるなんて症例もあるから、君が一晩中そばにいたのは良い判断だよ」
「何か悪い影響が残ることは、あるか?」
「熱も下がってきているから、大丈夫だと思うよ。本人は覚えていないことが多いから、君が動揺しなければ問題ないかな」
「そうか……。わかった」
ほっと息を吐く音がして、硬いが優しい手が頬を包む感触。
「良かった。あのまま失うんじゃないかって、怖かったんだ」
「……何かあれば、夜でも良い。呼びにおいで」
「ありがとう。あんたがいてくれて、本当に助かるよ」
「街じゅう、まるで光を失ったみたいだ。ギルドの子たちも、すっかりしょげて元気がない。――ゆっくり休んで、また笑ってね。僕らの可愛いアズサ」
優しい話し声が心地良くて、また、深い眠りへ落ちていく――。
目が覚める度、誰かが必ずそばにいた。
「アズサ。何か飲むか?」
「……ブラムに名前を呼ばれるの、久し振りな気がする」
滲むような微笑を浮かべ、ブラムは飲み物を手渡してくれる。
「弱ったお前は初めて見るから、新鮮だ」
「意地悪だなぁ。……クルトは、ちゃんと寝た?」
「あぁ。お前が元気になってもあいつが倒れたら、泣くだろう?」
「心配掛けて、ごめんね。早く元気になるから」
「そうしてくれ」
小さな子どもにするように、頭を撫でられた。
気付けばまた眠っていて、誰かが額の汗を拭ってくれる。
「ヨス? くすぐったい」
目を開けた先には、頑丈そうな男の顔があった。
「あぁ悪ぃ。生きてるかと思って」
顔をくしゃっとさせて笑ったヨスはどうやら、アズサが息をしているか確かめていたらしい。
「……お腹、空いた気がする」
「何が良い? 何なら食える?」
「……おかゆ」
「何だそれ? フェナならわかるか?」
「わかんない」
「とりあえず、これ食って待ってろ」
切った状態で置かれていた果物を渡されて、ヨスが素早い動作で部屋を飛び出して行った。彼は、リュドと二人でギルドの荒事担当。闘う人の身のこなしだ。
シャクリとかじった果物は、甘くて美味しい。
ゆっくりぼんやり果物を食べていると、ヨスが開けたままだった廊下側の扉から、ひょこりとコーバスが顔を覗かせた。
「起きられるようになったの? アズサ」
「うん。まだ眠いけど」
「俺が君を困らせたせいで病気になったの?」
「違うよ。……こっち、おいで。食べる?」
「いらない。全部、君のだ」
遠慮がちに部屋に入ってきたコーバスは、先ほどまでヨスが座っていたベッド脇の椅子へ腰掛ける。
「大好きだよ、アズサ。早く元気になってね」
「うん。わかったよ」
ご飯ができたら起こして欲しいと告げて、アズサはベッドへ横になる。どれだけ寝ても眠いのは、見えない場所でアズサの体が頑張っているからだ。
ふわり、懐かしいような香りがして、目を開ける。
クルトと、フェナと、ヨスがいた。コーバスもいるようだ。
「おかゆってやつ、クルトが知ってた」
歯を見せて笑ったヨスの手には、大きな鍋。
「お米、前に仕入れたでしょう? これで合ってるのかな?」
不安そうなフェナは、数人分の食器を持っている。
「たまごがゆ? だっけ? 前にアズサが話してた通りに作ったけど、すごく……大量にできたんだ」
クルトは水差しとコップを抱えていた。
ほかほか湯気が立つたまご粥。鍋から器によそって、スプーンを添えて渡される。
息を吹きかけ冷ましてから、パクンと一口。
「おいしい……」
嬉しくて笑みをこぼしたら、見守っていた三人が安心した顔で、笑った。
クルトとヨスとフェナとコーバスも、ここで一緒に食べるようだ。一つしかない椅子にはフェナが座り、男性陣は立ったままで、初めてのお粥を物珍しそうに食べる。
「
「どこで会った人?」
フェナの疑問は、アズサにも答えがよくわからない。相応しい答えは――
「記憶の中、かな。ケチャップも、ソースも、コロッケも全部、その人の記憶からもらったんだよね」
「ニホンの人ってこと?」
フェナの言葉に、アズサは頷いた。
「彼女が風邪をひいて寝込むと、その人のお母さんが、お粥を作ってくれていた」
お母さんという存在に、この場の誰もが複雑な想いを抱いている。
フェナの母は病気で亡くなっていて、ヨスは親を知らない。クルトは、ゲレンの街へ連れてこられて放り出された。コーバスは隣国の兵士に、目の前で家族を殺された。
アズサもアズサで、名前すら付けてくれない両親だった。劣悪な環境でなんとか生き抜いたのに、値段が付く年齢になると、すぐに人買いへと差し出された。
生まれ待っていた不思議な記憶がなければ、きっとアズサは、とうに野垂れ死んでいたことだろう。
「杉本梓は、すごく幸せな世界で生きていたの。私はね、その世界を目指してる。みんなにもあんな世界を、見せたい」
その世界にだって問題はあった。だけどアズサたちの産まれた地獄のような場所より、比べようもないほど、恵まれている。
「なら、たくさん食って早く元気になれよ。アズが気の緩んだ顔で笑っててくれねぇと、なんか、変なんだからさ」
鼻を啜ったヨスが、空になっていたアズサの器にもう一杯、お粥をよそってくれた。
「そうだよ。あのお兄ちゃんですら、そわそわうろうろして……私もなんか、この辺が、変な感じ」
フェナは鳩尾の辺りをさすって、ブラムの失敗談を教えてくれた。いつも隙のない彼が、書類の束をひっくり返したらしい。
クルトは、何も言わなかった。コーバスも、黙ってお粥を頬張っている。
大好きな人たちが作ってくれたお粥はとろとろ優しくて、お腹の底から、体が温かくなった。
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