第6話 全部で三人の、記憶があるんです
熱が高いと妙な夢ばかりを見るものだが、アズサが見た夢も、確かに変だった。
登場人物は見知った人々。だけど場所が違う。
目覚めた場所は誰かの部屋。
目覚まし時計のアラームを消して、眠い目を擦りながら起き上がる。部屋を出て階段を下りると、人の気配。
洗面所で顔を洗い、歯を磨く。鏡に写った顔は、アズサではなかった。
これはそうだ。杉本梓の記憶だと、思い至る。
アズサの名前は、彼女からもらったものだ。
両親と、弟がいた。
母親が用意してくれた朝食を食べると、身支度を整え彼女は仕事へ行く。
同僚に挨拶して、着替える。身に着けるのは可愛らしいエプロンだ。
朝礼に、アズサのよく知る男性が混じっていた。柔和な笑みを浮かべた、栗毛のフランクだ。彼は園長先生らしい。
杉本梓は、幼稚園の先生なのだ。
子どもたちが来る時間になると、続々と見知った顔が現れた。
ブラムとフェナ。二人は手を繋いで、母親と一緒に登園してきた。
年齢差がおかしいのは、夢だからだろう。
「あずさ先生、おはようございます」
生真面目なブラムはきちんと頭を下げ
「あずちゃん先生、おはよ!」
人懐っこいフェナは元気な笑顔。
「ブラム! 来いよ! 遊ぼうぜ!」
「誰が速いか競走だ!」
「ヨス、リュド、待ってよぉ」
バスでの登園組がやって来て、一気に騒々しくなった。
幼稚園バスから真っ先に飛び出してきたのはヨスで、その後に続く体の大きな男の子はリュド。お兄ちゃんたちに遊んでもらいたくて、一生懸命追い掛けているのはコーバスだ。
「フェナお姉ちゃん!」
「あ、こら待ってよエリー!」
「マノンまで走って行っちゃたらリニ一人になっちゃう! ま、いっか~」
今やギルドの顔。受付三人娘と言って可愛がられているアズサの友人たちは、フェナとお人形遊びをするようだ。
「お! 梓先生は今日も綺麗だねぇ」
この声は、ガイだ。
振り向けば、足元には三人の男の子。
「イーフォおにいちゃん。僕、初めての幼稚園、どきどきする」
「だぁいじょうぶだって、ハルム。俺とクルトが一緒にいてやるから!」
「本当? 僕一人、置いて行かない?」
「置いて行かねぇよ。お前は俺たちの可愛い弟なんだから! な、クルト?」
「そうだな。それに、先生は優しいぞ」
「イーフォおにいちゃんとクルトおにいちゃんがいてくれたら、僕、頑張れるよ」
ハルムを真ん中に、三人で手を繋いでいる姿があまりにも可愛らしくて、頬が緩んだ。
そういえばと、思い出す。
出会った頃のクルトとイーフォは、幼いハルムを守っていたなと。
「それじゃあ先生、うちのガキンチョたち、頼みます」
「はい! 任せてください!」
ガイへ返事をしたところで、夢は霞に包まれる――。
次に居た場所は、豪勢な部屋の中だった。
体が、男性だ。
彼が向かった先は、きらびやかな舞踏会。
優雅な音楽。鳴り止まないおしゃべり。
香水の香りが、鼻につく。
気分が悪い。
「――アズサ? 大丈夫か?」
呼ばれて、引き戻された。
目を開けて周りを見回し、混乱する。
ここはどこで、この体は、誰のもの?
「悪い夢でも見たのか? 突然うなされだしたから、起こした」
優しい声が、降ってくる。
黒髪の青年が、青い瞳で心配そうにこちらを覗き込んでいる。
「……くる、と」
声が出しづらかった。喉が腫れているのだろう。
「何か飲むか? モルスで良いか?」
どこかへ行こうとする青年を、慌てて引き止める。彼の服の袖をつかみ、行かないでと、願う。
「……どうした?」
体を起こそうとしたことに気付いてくれて、大きな手が、手伝ってくれる。枕を背中に挟んでくれようと近付いた体に、そっと、身を寄せる。
驚いたのか、青年はピタリと動きを止めて固まってしまった。
「寒いのか? 震えてるぞ」
ためらいながらも背中を撫でてもらえて、ほっと、体から力が抜ける。
たくましい胸板に頬を擦り寄せ、目を閉じた。
「……アズサ?」
「うん」
「大丈夫か?」
「ううん」
「何をして欲しい?」
「このまま、ぎゅってしてくれたら、たぶん、だいじょうぶ」
正しい言語で、話せているだろうか。ここの言葉はどれだったか……。
「わたし、いま、どれだろう?」
「どれ?」
「ここは、どれ?」
「どれって、どういう意味だ?」
「のど、かわいた」
「ちょっと待ってろ」
「はなれる、いや」
「どうしたアズサ? 何か……ヤバイのか? フランク、フランクの所へ行こう」
「あたまがまわるよぅ……」
「そうか! 熱が上がったからか! 待てよ。フランクから熱冷ましをもらったんだ。用意するから、離れてくれ」
「いやッ」
困り果てたのか、抱き上げられ、体が揺れる。
無性に泣きたくなって、しくしく、泣きだしてしまった。
「頼むよアズサ、泣かないで。……ゆっくりで良い。飲めるか?」
薬っぽい味の赤い飲み物を、こく、こく、こくと、飲み干した。ほぅっと息を吐いて、体から力を抜く。
「おねがい」
「何でもする」
「このままでいて」
「わかった」
「そしたら、つぎは、もどってくるよ」
「どこから? どこから、戻ってくるんだ? アズサ?」
「ニホン……カウペル……エフデン……ここは、どれ?」
「エフデンだ。エフデン王国の、キービッツ領、ゲレンの街。ここは俺たちの家だ。仲間みんなで住んでる。お前はアズサだよ。俺たちにとって、俺にとって誰よりも大切な、アズサだ。俺はクルトだよ、アズサ……」
「うん……わかっ、た」
すうっと眠りに落ちたアズサの体を抱き締めながら、クルトは混乱していた。
今のが何なのか、アズサの身に何が起こっているのかがわからず、不安に支配される。
とりあえず、アズサが寒くないようにと毛布を使ってぐるぐる包む。少しでも寝心地が良くなるようにとベッドへ上り、クルトは両脚を伸ばして座った。アズサの体を脚の間に置いて、両手で抱き締める。
クルトは風邪なんてひいたことがない。
孤児が風邪をひけば、拗らせて死ぬしかなかったからだ。
他の仲間たちもアズサの健康管理のおかげか健康体で、こんなことは初めてだった。
恐らく今夜は、屋敷中の誰もが眠れぬ夜を過ごすだろう。
アズサが風邪をひいたと聞いて、フェナは泣き崩れた。アズサが死んじゃうと言って、泣いていた。ブラムが「母さんのようにはならない。フランクがいるから」と宥めていた。
屋敷の中に、どす黒い不安が満ちていく。
「アズサ。戻ってこい……」
先ほどの会話を思い出して、呟いた。
このままでいれば、次は戻ってくると言っていた。だから絶対に離すものかと、クルトは誓う。
アズサは「ニホン」とも言っていた。
他のもう一つに聞き覚えはないが、ニホンはよく知っている。アズサはそこを、こことは違う世界だと言っていた。その場所の知識を何故だか持っているから、活用しているのだと。
もしかしたら、アズサの意識は今、違う世界にいるのだろうか。
クルトが起こしたせいで、ちゃんと戻ってこられなかったのだろうか。
熱のある頬を撫で、唇を寄せる。
――おデコにチュウしてくれたら、良い子にしてるよ。
そう言って笑った顔を、思い出す。
望むだけ、するから。あの笑顔を返してくれ。
熱い額へキスを落とし、何者かもわからない何かに願った――。
※
窓の外から朝日が差し込み、アズサの肩口へ埋めていた顔を上げる。
立てた膝で挟んだアズサの体。熱は引いたような気がする。
汗ばむ額へ唇を押し付け、頬を擦り寄せた。
看病って何をするんだっけと、今更ながら記憶を辿る。街の人たちが、色々言っていた。
食欲がないようならモルスを飲ませろと言われたから、その通りにした。
寒がっているようなら暖かくしてやれとも言われた。
フランクが、熱が上がったら飲ませろと言った薬は飲ませたし、パン屋の店主がくれた果実煮は、恐らくまだ出番じゃない。他の多くの物もそうだ。
あぁそうだ。汗を拭いてやれと言われたなと思い出し、袖口で、額の汗を拭いてやる。
着替えは誰か女性を呼ぶ必要があるが、アズサが戻ってくるまで、離れるわけには行かない。
また声を掛けて、半端に戻ってきてしまうのは困る。
だから、じっと息を潜めて、クルトは待つ。
視線の先で、ひくりと、睫毛が震えた。
ゆるゆると瞼が持ち上がり、漆黒の瞳が、クルトを映す。
ぼんやりとした様子で――アズサが笑った。
「……どういう状況? 過保護なの?」
みっともなく、泣きだしてしまいそうになった。
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