第5話 偽物だから、何の力もありません
朝日を感じて目が覚めた瞬間、まずいかもしれないと、アズサは思った。
喉の奥がチクチクする、懐かしい感覚。
「風邪ひいた……」
国が隣国との戦争をやめて、友好条約を結んでから二年。平和に向かう世の中を、皆と共に駆け抜けてきた。
この世界に産まれてからずっと、気を抜くことなんてできないまま、アズサは二十二歳になっていた。よく生き抜いたものだと、自分を褒めてやりたいくらいの人生だったなと思う。
弱れば死ぬしかなかったから、風邪なんてひいた覚えはない。熱を出したのは、顔に傷ができた、一度きり。
平和を肌で感じて、油断したのかもしれない。
やることは山積みで、考えなければならないことは絶え間なく湧き出てくる。
「フェナとクルトにバレないようにしないと……いや、クルトは無理か?」
なんとか朝食をやり過ごし、フランクの所へ行こうと決めた。
最後に風邪をひいたのは、どちらのどの時だっただろうかと考えながら、のろのろ着替えを済ませる。自室の洗面所で顔を洗って歯を磨き、入念にうがいを繰り返した後で、髪を梳かす。
寝癖が直らない。面倒になって、顔の両側でみつ編みを作った。
「……簪、どこだ?」
そういえば昨夜、自室に戻った記憶がない。書庫でクルトといつも通り本を読んでいたことまでは覚えている。
彼の静かな気配は眠たくなるな……なんて幸せを感じて、そこから先の記憶が、ない。
え? 嘘。クルトに抱っこされたってこと?
無言で心の中は大騒ぎ。
あのたくましい腕で抱かれたのかと想像し、顔から火を噴くかと思った。
「だめだ……考えるのやめよう。熱が出る……」
だけど想像は止まらない。
クルトの胸に触れたのか? どうして覚えてないんだ、自分! 触れられもしたのか? どこを触られた? 骨っぽいってガッカリされてたらどうしよう……ヨダレ垂らさなかったかな? 寝言、言わなかったかな? 変な寝顔じゃなかったかな?
なんだか朝から疲労感がひどいと、アズサはため息を吐き出した。
「クルトの大きな手に触れるのだって、本当は毎回心臓痛いのに……」
涙が滲んで、もう一度深く息を吐く。
体調不良は心を弱らせる。気合を入れて、大きく一度深呼吸。よし行くぞと思ったが、すぐに心が折れた。
「あぁダメだ……変なウィルスだったら? 食事も会話も、みんなに伝染す原因になっちゃう……」
へなへなとその場に座り込み、なんだか立つのが億劫だ。
恐らくもう、クルトは自室にはいない。彼は庭で、毎朝鍛錬をしているはずだ。
着替えのために戻っていないだろうか……。
気合いを入れて何とか立ち上がり、助けを求めて隣室に続く扉の前までとぼとぼ向かう。
これは完全に熱があるなと、自分の額に触れて思った。
遠慮がちに扉をノックして、気配を探る。
「…………アズ? どうかしたか?」
開かれた扉。現れた顔に、ほっとした。
「えーっとね、いるかなって……思って」
自分でも、妙なことを口走ったものだと思う。ノックしてみたもののいるとは考えていなかったから、動揺が隠せない。
「まだ、いたんだね? もう食堂に行ってるかと思ってた」
声が上擦る。
クルトも、訝しげに眉根を寄せている。
「これ、忘れたから。アズに返すために取りに来たんだ」
差し出されたのは、昨夜髪をまとめていた簪で、先ほど見当たらないなと考えていた物だった。
両手を差し出して受け取り、胸元へ抱え込む。
「昨夜、私、寝ちゃった? 運んでくれたの?」
「あぁ。……ごめん、部屋に入った」
「全然! 全然大丈夫! 迷惑掛けて、むしろごめんっ」
「アズサ?」
「はい?」
「声、変じゃないか?」
ギクリと肩を揺らして、思い出した。
慌てて口を両手で覆って、一歩下がる。
「あのね、風邪、ひいたっぽくて……みんなに伝染さないように食堂行くのやめようかなって。それで、クルトがいないかなって……思って……」
素早く伸ばされた手が、アズサの首筋に触れた。びくりと体を揺らしたアズサは「おデコじゃないんだ……」と考えながら目を見開く。
いつもは温かいと感じるクルトの手を、ひんやりするなと感じた。
「熱いな」
「やばい?」
「顔、赤いと思ったんだよ」
それは多分、君にドキドキしたせいだよ! という文句は喉の奥で飲み込んだ。
「とりあえず寝てろ。フランク呼んでくる」
「呼ぶなんて、先生忙しいのに。私が行くよ」
「抱っこで良いなら連れて行く」
クルトの両腕が広げられ、アズサの思考は停止する。たっぷり十秒悩んでから、しょんぼりと口を開いた。
「心臓が働き過ぎて死ぬかも。大人しく寝てます」
「そうか。残念だな」
「何がっ」
「もう喋るな。喉、どんどんつらそうになってる」
「……あい」
また着替えないとな、と考えながらベッドへ向かい、当然のようについて来る足音に首を傾げる。振り向く前にベッドの上掛けが捲られ、そのまま押し込められた。ぐるぐると、上掛けで包まれる。
「スカート、シワになっちゃう」
「アイロン掛けてやる」
「簪、鏡台に置いて欲しい」
アズサがそろりと差し出した簪を受け取り、鏡台へ置いてすぐにクルトは戻ってきた。
「寒くないか?」
迷わず頬を撫でられて、嬉しくて、頬が緩む。
「……少し、寒い」
「待ってろ」
長い足で素早く隣の部屋へと消えて、再び姿を見せたクルトの手には綺麗に畳まれた毛布があった。
柔らかな毛布で包まれ、アズサはほっと息を吐く。
「……クルトの匂いがする」
「嗅ぐな。ちゃんと洗ったやつだぞ」
「ふふふっ」
鼻先まで毛布を上げて、アズサは小さく笑った。クルトの耳が赤くなっている。可愛いな。
「ブラムには言うからな。ギルドの仕事はあいつが居れば何とかなるだろ」
「……孤児院、念の為、手洗いとうがいを徹底するよう伝えて欲しい。あと、ヘイスさん達にも」
「わかった。何か食べたい物、あるか?」
「……消化に良い、果物?」
「フランクの所に行くついでに買ってくる。俺が戻るまで、ちゃんと寝てろよ」
「おデコにチュウしてくれたら、良い子にしてるよ」
「アホか」
キスの代わりは、優しいデコピンだった。
静かな足音が離れて行き、アズサは大人しく目を閉じる。クルトの香りのする毛布が暖かくて、うとうと、眠りに落ちていった。
ひやりとした何かが額に触れて、目が覚めた。
「起きたかい?」
「フランク先生……」
「君が倒れたと聞いて、街じゅう大騒ぎだ」
「大袈裟だよ」
「起きられるかい? 診察しよう」
笑顔が優しいフランクは、ゲレンで唯一の医者だ。ガイから聞いた話によると、貴族の三男坊だったらしい。今は勘当されて、貴族ではないと言っていた。
窓から差し込む光で、フランクの柔らかな栗毛がキラキラしている。
もう昼頃だろうかと、アズサは考える。食欲が湧かなくて、体内時計も狂っているようだ。
「君は、働き過ぎだよ」
「……先生だって、働き過ぎだよ」
「僕はだいぶ楽しているよ。君たちのおかげで、診療所にも人手が増えた」
「私だって、みんなに仕事、割り振っているもの」
こつんとアズサの頭を手の甲で小突き、フランクは柔らかに微笑む。
「体が休息を欲しているんだ。眠りなさい」
「はい。……クルトは?」
「彼は意外と冷静だったね。フェナは大泣きしたらしい」
「そうじゃなくて、どこにいるのかな、って」
「大量に荷物を抱えていた。何をするんだろう?」
「えぇ~……気になって眠れないよ」
「大丈夫。すぐに来るよ」
ウィンクが様になる男の人だなと、アズサは心の中で感想をこぼした。
フランクの言った通り、ほとんど間を置かずに扉が叩かれた。だけど音の位置が低過ぎる。まるで、足で蹴ったような音だ。
ベッド脇の椅子から立ち上がったフランクが扉を開けると、両手いっぱいに荷物を抱えたクルトが入ってきた。
一体何事だろうと、アズサは目を丸くする。
「腹は?」
「……食欲は、ないかなぁ」
「これ飲め。喉が痛くても染みないで、すっきりするらしい」
窓辺のテーブルへ荷物をどさりと置いてから、クルトは水差しから赤い飲み物をコップに注いで差し出した。
ベッドの上で座ったまま、アズサはコップに鼻を近付ける。
「甘酸っぱい匂いがする」
「モルスっていうんだって。果物屋のおばさんが教えてくれたから、作ってみた」
「……美味しい」
一口飲むと喉が乾いていたのだと自覚して、ゆっくり全てを飲み干した。
「他に、何を持ってきたの? クマちゃんがこっちを見てるけど」
アズサがくすりと笑うと、クルトは籠から顔を覗かせていたクマのぬいぐるみを引っ張り出した。クマをアズサへ押し付けるように渡してから、流れるような動作でクルトの右手がアズサの頬を包む。硬い親指が、そっと目の下を撫でた。
クルトの触れ方が擽ったくて、アズサは目を閉じる。
「フランク。アズサはどうなんだ? 何かの病気か?」
「そうだねぇ……病名は、過労かな」
「カロウ? って、なんだ?」
「働き過ぎということだよ。溜まった疲れが出たんだ。体からのサインだよ。休んでくれというね」
「アズ。眠れてないのか?」
「寝てるよ。むしろ昨夜は、久し振りにぐっすり寝た」
「クルト」
フランクの声がクルトを呼び、柔和な笑みを浮かべる医者へとクルトは視線を戻した。同時に頬を撫でてくれていた手も離れてしまい、アズサはこっそり、がっかりする。
「求められれば求められるだけ、頑張ってしまう子だと知っているだろう? この子の立場は僕も理解している。だけど、アズサは魔女じゃない。神でもない。普通の人間の女性なんだ。酷使すれば、脆く、簡単に壊れてしまう」
「フランク先生っ、違うよ、わたしが」
背後から回されたクルトの手に口を塞がれ、アズサは言葉を飲み込んだ。そんな場合ではないのに、好きな男の手が唇に触れていることに意識が集中してしまう。
「そうだな。わかっていたはずなのに、行動が伴ってなかった。ありがとう。ちゃんと、休ませる」
「そうしてあげて。ギルドの他の子たちには僕が話しに行こう。その方が良いだろう?」
「あぁ。頼む」
「それとね、多分その状態、アズサには酷なんじゃないかな? 君たち、キスもまだなんだろう?」
「は?」
見下ろすと、ベッドへ乗り上げたクルトが背中からアズサを抱き締めるような形になっていて……腕の中にすっぽり収まった彼女は真っ赤になって震え、息をしていなかった。
「え! おい、アズ! どうした!」
「ぶはっ、だ、だって……鼻から息、かかったらなんか、恥ずかしい」
「へ?」
「うぅ~……なんか、熱上がってきたかも」
「マジかよ! フランク、薬はないのか!」
「うん。とりあえず落ち着こうね。クルトはアズサから離れなさい。こちらへおいで」
フランクに手招きされて、クルトは渋々従った。
クルトの体温が離れて、アズサはほっと、息を吐く。だけど心臓はまだドキドキしていて、唇に残った感触は、忘れられそうもなかった。
あんなにしっかりと。クルトの手のひらにキスをしてしまったのと、同じではないか!
「アズサ。その服は寝心地が悪いだろう? 僕はクルトと隣の部屋に行くから、着替えると良い。着替えはできそうかな?」
「大丈夫。一人でできるよ」
「あ、待て。着替えるなら服屋からもらったやつがある」
荷物の山へ歩み寄り、クルトはガサゴソと漁る。
「これ、着心地良くて温かいって」
クルトが取り出したのは上下揃いの、ふわふわモコモコのパジャマだった。
「ねぇクルト。その中身、全部見たい」
「順番に見せてやるけど、まずは着替えろ。何かあったら呼べよ? すぐに来る」
扉が閉まる音がして、受け取ったパジャマへ着替える。肌触りが良くて、心にじんわり、温もりが広がる。
洋服屋の生真面目そうな夫婦。果物屋のおしゃべりな奥さん。それぞれの顔が浮かんで、気遣いが、とても嬉しかった。
荷物の山へ視線を送り、後は何が出てくるんだろうと考えると、幸せな気持ちになる。
クルトがくれたクマのぬいぐるみは、見覚えがある。フェナと一緒に作った、試作品第一号だ。
クマのぬいぐるみを抱き締めて、ベッドに潜り込む。たくさん眠っているはずなのに、不思議と、まだ眠れそうだった。
クルトとフランクはまだ戻らない。二人で何かを話しているのだろう。
過労だなんて、そんなに自分は頑張れたのだろうか。
まだまだ、足りなくはないだろうか。
大好きな人たちは安心して、笑って暮らしていけるだろうか。
つらつらアズサの頭に浮かぶ考えに対する解答は、プレゼントの山の中に、詰まっている。
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