第2話 孤児院で、先生してます
アズサの朝は、早い。
自室にある洗面所で顔を洗い、歯を磨き、化粧水で肌を整える。
基本的に化粧はしない。
必要な時にはするが、普段は必要性を感じないからだ。化粧に時間を費やすよりもやるべきことが、彼女には多くある。代わりに髪は丁寧に梳る。
ふくらはぎまでの長さで膨らまないスカートは、最近の流行。
着替えを終えたアズサは部屋を出て、向かうのは裏の畑だ。
廊下を進む途中で同居人たちと顔を合わせて、朝の挨拶を交わす。
料理と畑の水やりは当番制になっていて、朝食は必ず皆で食べるというのがここのルール。アズサはこの日、朝食当番なのだ。
「おはようございます。アズサさん」
「おっはー。アズちゃん」
「ハルム、リニ。おはよう」
同じく朝食当番の二人と合流して、畑の水やりと食べ頃になった野菜の収穫、卵を生む鶏の餌やりなどと、手分けして朝の仕事をこなす。
朝食には、野菜と卵をたっぷりと、ベーコンやソーセージを使うことが多い。
パンはたまに、時間がある時に誰かが焼いたりもするが、最近では街に作ったパン屋が焼いてくれるパンを買って常備するようになった。
食卓を囲む人数が多く、体力を使う仕事をする男たちもいるため毎朝大量に作るから、朝食当番は朝一番の大仕事。
朝食ができる頃には食堂にわらわらと人が集まり、全員揃った所で席につく。
アズサが掛ける号令「いただきます」が、食事開始の合図だ。
食事中に前日の報告を聞き、一日の予定も確認する。急ぎでアズサの判断が必要なものは、この時間で指示を仰がれることもある。
食事を終えると使った食器はそれぞれで片付け、各々仕事へ向かうのだ。
「クルトごめん! すぐに食べちゃうから!」
「いいよ、慌てるな。この時間はアズが一番忙しいんだから」
歩み寄ってきた護衛の青年――クルトは、アズサの斜め左前にある椅子を引いて腰を下ろした。アズサがいるのはいわゆるお誕生日席だから、その位置が一番近い。
食べる所をじっと見つめられるのはいつものこと。慣れっこのアズサは気にせず、皿の上の朝食を腹におさめていく。
この日の朝食は豆のスープと、葉野菜とベーコンを使ってキッシュを作った。
食べ終わり、ぺろりと唇を舐めると、クルトの視線が気になった。
青い瞳が唇に向けられている気がする……
「ついてる?」
聞いてみれば彼の右手が伸びてきて、親指で口の端を拭われた。
「ありがと」
「ん」
食器を重ねてキッチンへ向かったアズサの背中を眺めつつ、クルトは右の親指で自分の唇を撫でる。
戻ってきたアズサをクルトは何食わぬ顔で迎え、二人は連れ立って食堂を後にした。
向かった先は、歩いて十分ほどの場所にある孤児院。
道中、すれ違う人々とアズサは笑顔で挨拶を交わす。クルトは無言だ。愛想がないのはいつものことと、誰も気にしない。
「アズ先生だ!」
「顔の怖いお兄ちゃん、また来たの?」
「アズ先生のこと、好きなの?」
二人が敷地内に入ると、庭で遊んでいた子どもたちが駆け寄ってきた。
クルトは無言のまま、アズサから距離を取る。ちらりとその様子に視線を向けた後で、アズサは子どもたちに向き直った。
「アズ先生は院長先生にご用があるから、その間はクルトが遊んでくれるよ!」
「おい、アズサ」
「クルトにも子供時代があったんだから。できるって、信じてる」
頑張れと拳を掲げて声援を送り、アズサはその場を離れる。
毎日のようにアズサと共に顔を出しているのだ、そろそろ子どもたちにもクルトの存在に慣れてもらわなくては困る。クルトは優しい人だから、きっかけさえあれば子どもたちともすぐに打ち解けるだろう。
「アズサさん、今日も来てくださったのね」
老齢の女性に迎えられ、アズサは微笑み頷いた。
「ギルドの方は私の手から仕事がほとんど離れたので、午前中は好きに使って良いことになったんです。前より頻繁に顔を出せると思います」
「子どもたちが喜ぶわ」
「何か困っていることがあれば遠慮なくおっしゃってください。我々の取り組みが円滑に進むのは、院長先生のような協力してくださる方々のおかげですから」
「ここで働く者たちは……私を含め、己の子どもを守れなかった後悔を抱えていました。だから感謝しているのです。生き甲斐を、与えてくださったことを」
アズサが院長と会話をしていると、子どもたちの楽しそうな声が聞こえてきた。
振り向いた先では、クルトの体を子どもたちがよじ登っている。
「子どもたちのみならず、この街の者たちが皆健康で笑顔で過ごせるようになったのは、ギルドの皆様のおかげです」
「……あの時代は、地獄でしたね。ですが地獄を知るからこそできることがあると、私たちは信じています」
孤児院の経営に関して院長との話が終わると、孤児院の一室でアズサは子どもたちに勉強を教える。
以前から、どんなに忙しくとも必ずこうした時間を取るようにしていた。普段は孤児院で働く先生たちが子どもたちの勉強を見てくれているのだが、彼らが教えられるのは簡単な計算や国語に一般常識など。アズサが教えるのは、それらよりも少し高度な内容だ。
十三になると、子どもたちは己の進む道を選ぶ。孤児院は、それまでの羽休めの場所。彼らはこの場所で、心と体を育てている。
昔は路地裏の広場で、孤児の仲間たちを集めて勉強会を開いていた。
その仲間たちは今もアズサと共にいて、毎日一緒に朝食をとっている。
昼食の時間になり、栄養バランスの良い食事を取る子どもたちを見守ってから、アズサは孤児院を後にした。
クルトの気配を背中に感じながら歩く日常。
昼休憩がてら、今度は街の中を見て回る。
感謝と同じだけ、アズサは多くの恨みも買っていた。
はじめの頃は率先してトラブルの渦中へ身を投じ、己の怪我など気にせず駆け回っていたのだが、ある日クルトを大激怒させたことがある。「頼むから大人しく守られてくれ」と言われたが、頷きはするもののなかなか行動を改めることはできなかった。
長いことそういう風に生きてきたアズサには、「守られる」というのはよくわからなかったからだ。
他の仲間たちからも、頭が潰れたらギルドは瓦解すると怒られた。
アズサを失ったからとダメになってしまうほど、仲間たちは弱くない。だけど、大切に想ってくれている気持ちは、伝わってきた。アズサが彼らの立場だったならきっと、頼ってもらえないことは悲しいだろうと思う。
それまでも決して頼っていなかったわけではないのだが、アズサは、肩の力を抜く方法を覚えた。
以降は護衛対象として、しっかり、守ってもらっている。
「こんにちは~。調子はどうですか?」
顔を出したのは、一軒のパン屋。
この国の中で唯一、平民でも食べられる柔らかなパンを焼いて売っている店だ。
「アズサさん! ちょうど来る頃合いかと、お待ちしていました!」
「お、なんですか? 新商品ですか?」
アズサを笑顔で迎えた売り子の女性が厨房へ声をかけると、店主が顔を出した。その手には、籠いっぱいの試作品のパンがある。
「わぁ! コロッケパンじゃないですか! ホットドッグもある! 食べて良いですか?」
「はい! ぜひ、感想を聞かせてください」
営業の邪魔をしないよう店の奥へと入り、アズサは手に取ったコロッケパンにかじりつく。
使われているソースは、ギルドで販売しているものだ。このパン屋で使う物は全て、ギルドが卸している。
「コッペパンの柔らかさ、ソースが染みた衣とジャガイモのほくほく感……これです! これが食べたかったんです! クルトも食べて!」
背後に控えていたクルトへ振り向き、大きく開けられた口に食べかけのコロッケパンを突っ込む。半分ほどを一口でかじり取り、クルトはもごもご咀嚼した。
「……うまっ」
「でしょ? ホットドッグも私が描いた通りの見た目ですね。味は…………うん! やっぱりこのソーセージ、ホットドッグにぴったりでしたね! そうだ、コッペパンが成功したなら作って欲しい商品が他にもあって――」
背後から伸びてきた手に手首をつかまれ、アズサがかじったホットドッグはクルトの口腔へと消える。
店主もアズサも見慣れた光景だと、気にせず新商品の相談をしている間に、クルトがアズサの両手に残っていたホットドッグとコロッケパンを完食した。
その間クルトは自分の手を、アズサの手首をつかむ以外で使用しなかった。
「……ホットドッグ、甘くないか?」
「これは子どもも食べられるようにケチャップだけだからね。でも、クルトがそう言うならやっぱり、辛いホットドッグも作りましょうか。最近ギルドで新しい香辛料を仕入れたんですけど、使ってみますか?」
「ほぉ! ぜひお願いしたいです!」
「では、戻ったらすぐに手配しますね。レシピの提案を添えて、届けさせます」
売り子が淹れて持ってきてくれたコーヒーを受け取り、クルトとアズサがそれぞれ啜る。
「コーヒーの無料サービスを始めてからの売上はどうですか?」
「格段に伸びましたね。ここがアズサさんの店だというのは周知の事実ですので、皆ルールを守り、平和に浸透し始めています」
「コーヒーはただのきっかけです。ヘイスさんの作るパンは美味しいですからね。あなたに出会えたのは僥倖でした」
アズサがにっこり笑うと、店主であるヘイスは嬉しそうな照れ笑いを浮かべた。
ヘイスは街の外から来た人間だ。
元々は他の街で貴族お抱えの料理人をしていたらしいのだが、彼の能力に嫉妬した上司にはめられ、職を失いこの街へと流れ着いた。ヘイスのように仕事を探してこの街へ来る人間は、年々増加している。
パン屋はアズサ個人の持ち物で、アズサの望むパンを作ってくれる料理人を探している時に、ヘイスと出会った。
開店して数カ月。腕の良い料理人と出会えたおかげでアズサの望みは叶えられ、街の人々は、気軽に美味しいパンを食べられるようになった。
「ユリアさんも、いつもありがとうございます。街の人からの評判も良いようです。これからも、よろしくお願いしますね」
売り子のユリアはこの街で生まれ育った人間で、父親と二人暮らし。幼い頃に母親を流行り病で亡くしている。
アズサより五つ年上のユリアは、古くから街に住む者たちに顔が利く。街の外から来た人間が焼くパンが受け入れられているのは、彼女の力があってこそなのだ。
「はい! アズサさんのお役に立てるなんて光栄です! 頑張ります!」
帰りがけに売り子にも声を掛け、アズサはパン屋を後にする。入った時に持っていなかった籠には、仲間たちへの土産が詰まっていた。
「持つ」
「これくらい平気だよ。護衛は両手空けておかないとじゃないの?」
「いいから、寄越せ。」
結局籠は、クルトに奪い取られた。
「ありがと」
返事はなかったが、アズサは口元を綻ばせる。
パン屋に寄ると、毎回たくさんの試作品を口にする。あまり多くを食べられないが捨てることなどできないアズサのために、クルトはいつも残りを食べてくれるのだ。
クルトの優しさは、いつもぶっきらぼうに与えられる。
「コロッケパンとホットドッグ、どっちが好きだった?」
速度を落として隣に並び、頭一つ分高い位置にあるクルトの横顔を見上げた。
「コロッケ。あれだけで食べたい」
「クルト、試作で揚げたコロッケもパクパク食べてたもんね。コロッケ単体で売るのもありだけど、人手が足りないかなぁ。人を増やすならもう少し利益を上げておきたい。メンチカツも作りたいけど、牛肉を流通させるのは難しいなぁ」
「なあ」
「んー? なぁに?」
「ホットドッグって、どういう意味?」
クルトからの質問に、アズサはきょとんとした表情を浮かべて立ち止まる。
それに気付いたクルトも歩みを止め、振り返った。
「どうした?」
「直訳するとね、『熱い犬』なんだけどね」
「何、残酷な話?」
苦笑を滲ませ、アズサは首を横に振る。
「そういえば知らないやって話」
「ふーん」
小走りでクルトの隣に並び、二人は再び歩を進める。
「ダックスフンドっていう犬の見た目に似てないこともないかな」
「犬、食うの?」
「食べる国もあるけど、材料じゃないよ。『ソーセージパン』でもわかりやすくて良いかもだけど……私の中ではあれは『ホットドッグ』なんだよね。だから、『ホットドッグ』って名前で売りたい」
「良いんじゃねぇの」
こうして会話しながら街中を平和に歩けるようになってから、やっと二年が、経とうとしていた。
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