昼頃から降り始めた雪はまたたく間に本降りになって、塊のような重い雪が、落ちてくる音が聞こえそうなほどの勢いで降って、夕頃には景色を白く覆っていった。

 厚い雪雲を通った灰色の光のなか、大手門を出た行列はぬかるんだ道を、足元を確かめるようにゆっくりと進んで行った。

 酒井雅楽頭さかい うたのかみの屋敷のかどを折れてしばらくしたころであろうか、田沼意次たぬま おきつぐは駕籠に揺られながら、ふっと誰かの声を聞いた。最初空耳かと思った。このところ城に詰め切って政務にあたっていたから、疲れがたまっているのだろう。

「おい」意次は駕籠のそとに向かって声をかけた。

「はい」とすぐに供の返事が返ってきた。

「今、何か言ったか」

「いえ、誰も」

「確かに聞こえたようだったが」

 そう言って意次はとめろと命じた。

 行列がとまり、駕籠の戸を自分で開けた。すると、行列はすでに田沼の屋敷の塀ぎわまで来ていて、その道端に人が端座しているように見えた。

「あれは何だ」

 供の若い家士が目線を追った。そしてはじめて気がついた様子で、

「人のようですな」

「そんなことは見ればわかる。なぜあんなところで座っているのか、ちょっと見てこい」

 はい、と家士はちょっと迷惑そうな顔で小走りに走っていくと、すぐに戻ってきた。

「懐に訴状がございました。直訴のようですな。すでに腹を切っておりました」

 そう言って訴状を意次に手渡した。握りしめたようなしわくちゃの訴状であった。まだ少し温もりがあるのは、男が死んでさほど時が経っていないからだろうか。

 駕籠訴のしきたりも知らんのか、しかもこんな場所まで入り込んでくるなど、と思いつつ意次は訴状を開いて、供のさしだした提灯の暗い明かりのもとで、ひと文字ひと文字を掬うようにして読んだ。

 ――川の改修?春原藩?

 どこの藩であったろうと意次は記憶をたどった。美濃の、喜多山式部少輔の二万七千石ではなかったか。吹けば飛ぶような小藩ではないか。百性の訴状に思えるのになぜ侍が直訴におよんだのか――。

 いくつも疑念ばかりが浮かんだが、さて、とちょっとの間思案した。

「お取り上げなさいますので?」

 供の者が不安げに聴いた。

「さて、どうするか」意次は皺の寄った顔の眉間にさらに深い皺を寄せた。「お前、春原藩の屋敷まで行って報せてこい」

「なんと報せましょう」

「ありさまをそのまま伝えてこい、それでいい」

「かしこまりました」そう言って供侍は尻さがりにさがっていった。

 意次が戸を閉めたのを合図に駕籠が持ち上がった。

 これでよかろう、と意次は思った。この訴状、持っておればなにかの折に役立つかもしれぬ――。

 行列は静かにうごきだす。

 新左衛門の頭に積もった雪がわずかにとけていく。水滴が一条の筋となって頬を伝い、しずくとなってこぼれ落ちた。




(了)

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雪のしずく 優木悠 @kasugaikomachi

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