九
後ろで、徳兵衛の走り出す足音が聞こえた。
蓮次がそれを追って飛びだした。
ところへ、男が新左衛門の脇を走り抜け、蓮次との間合いをひと息に詰めた。詰めた刹那には、鞘ばしった刀がすでに血に濡れていた。
抜き打ちの凄まじい一撃を背中に喰らって、蓮次がどっと倒れた。口からも背中からも血を流し、瞬時に絶命していた。
徳兵衛夫妻は、すでに街道のほうへむかって走り去っていた。
「蓮次ッ!」
叫びながら、新左衛門は刀を抜いた。
くるりと体をこちらにむけた男が、にやりと笑った。
「言い遅れた、
広瀬が腰を落とし、下段に構えながら名乗った。
新左衛門は刀を八双につけて、相手を見ていた。
――俺に勝てるのか。
身が震えそうなほど寒いのに、背中につっと汗が流れるのを新左衛門は感じた。城下の一刀流の町道場で、どうにかこうにか目録をもらった程度の腕前の俺に、この男が斬れるのか――。
広瀬は、鷲のくちばしを思わせる鼻の横に深い皺をよせて、底光りのする目を三白眼にして新左衛門を睨みすえた。自分が斬られるとは微塵も考えていない、人をあなどり、余裕のある態度であった。
広瀬はじりじりとつま先でにじり寄ってくる。それに合わせて新左衛門は後退した。同時に一歩踏み込めば互いの間合いであった。すぐに新左衛門の踵が道端の枯れ草踏んだ。もうその先は段さがりに畑になっている。
広瀬は好機と見たのだろう、すべるように踏み込んで来た。
下段から白刃が伸びてきた。
が踏み込みが甘かったのだろう、刀の切っ先が新左衛門の腹をかすめただけであった。
広瀬が振りきった刀をひるがえそうとした瞬間、新左衛門は踏みこんだ。踏み込みつつ振り下ろした刀が、広瀬の肩にから胸元まで斬り裂いた。生まれてはじめて人間の肉を裂き骨を断つ感触が、手に伝わって感じられた。
がっという苦悶の吐息とともに血を吐きながら、広瀬が倒れた。
即座に蓮次のもとに向かおうとして、途端、新左衛門はいけないと感じた。腹に手をやると、手のひらがぬるりとしたものに触れた。かすめただけだと思っていた広瀬の一閃は、新左衛門の腹をしっかり裂いていた。恐る恐る目をやると手のひらは地肌が見えぬほど真っ赤に染まっていた。はらわたが飛びださないのが不思議なほどであった。
急に目眩に襲われたが、頭を振ってこらえ骸と化した蓮次のそばにたった。
脇にしゃがみこむと、ふと、蓮次の右手が襟元を握りしめているのに気がついた。なにか執念めいたものを感じさせるほど、力強く握りしめている。なんだろうと手を伸ばしてみると、手に固いものが触れた。小柄で襟の縫いを切ってみると中から渋紙で巻いて細く折りたたまれた書状が出てきた。直訴状であった。
――こんなところに隠していたのか。
訴状を風で飛ばされないように膝の下に挟んで、蓮次の腹に巻いていた晒をほどきはじめた。
――馬鹿にしやがって。
杉谷家老の顔が心によぎった。田村奉行の顔がよぎった。今まで自分を侮蔑してきた奉行所の同僚の顔が次々によぎっていった。
――馬鹿にしやがって。人の命をなんだと思っていやがる。
そうして諸肌脱ぎになると、ほどいた半分血に濡れた晒を、脳裏によぎる嫌な顔を睨むように虚空を見つめながら、自分の腹に巻いていった。晒のまだ蓮次の血がしみていなかったところもたちまち血がにじんできた。
――お前たちが見下していた人間が、その気になったらどんなことをしでかすか、その身で思い知るがいい。
新左衛門は、訴状をつかみ鞘に納めた大刀を杖がわりに立ちあがった。
激痛が腹部を襲い全身に広がった。血がずいぶん流れたせいだろう頭がくらくらするし、視界もぼやけている。
あと少し、あと少しもってくれ、そうつぶやきながら、おぼつかない足取りで歩き始めた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます