八
やがて街道の両側には田畑のなかに人家が増えてきて、その家家の間隔も歩を進めるたびに狭まっていくようであった。人通りも目に見えて増えている。
「この辺はもう江戸になるのかな」
そう訊いた新左衛門に徳兵衛が、
「江戸のさかいは曖昧なものですが、町奉行所のご支配域はもうちょっと先で、札懸場(変死者や迷子の特徴を記した高札を立てるところ)の範囲としては、この辺りはもう御府内になりますでしょう」
そう話しながら歩くうちにも、大名の抱屋敷や大きな寺社がどんどん迫ってきて、
「もうすぐ内藤新宿ですよ」
と徳兵衛が教えてくれた。そして、
「平井様、大変申し訳ないのですが、ここからちょっと入ったところにある熊野神社に寄ってよろしいでしょうか。この辺りにくると必ず詣でることにしておりまして」
「そこは大きいのか」
「ええ、由緒もあります、けっこうな神社ですよ」
白い物がちらりと新左衛門の視界をよぎった。いつ降るか、いつ降るかと思っていたものがついに空から落ちてきたのだった。家路を急ぐ近隣の商家の者らしい若者が一行のそばをかすめるように駆けていった。さてどうしたものかと、逡巡したが、本降りになるのはまださきだろうと、
「だったら、土産話の種にわしも詣でるかな」
「そうなさいまし」徳兵衛が人の好さそうな笑顔で言った。
新左衛門がちらりと蓮次のほうを見ると、勝手にしろとでも言いたげな顔である。
そうして一行は甲州道中をそれて北へと、田畑の間を抜けるようにして熊野神社に向かって歩いた。「ささ、蓮次さんも」と徳兵衛に誘われて、蓮次も不承不承といった態度で後をついてくる。
そうして細い道を二町ばかりも来たところであった。
道の脇にある銀杏の木の陰から、ひとりの男がふらりと道に出てきた。
三十くらいの胸板の厚いその侍は、腰の大刀に左手を添えて、ぎらぎらと嫌な光をやどした目でこちらをじっと見つめてきた。獲物を見つけた猛禽のような目であった。
「やっぱりこっちだったな」男が言った。「中山道のほうにも人をやってるんだがね。あっちは待ちぼうけだな、ははは」
新左衛門は、その不気味な様子に、警戒しつつ皆をかばうようにして男の前に出、二間ほどの間をあけて立った。
「お前が平井新左衛門だな。どうしてそいつを斬らん」と蓮次に顎をしゃくってから、男は話を続けた。「さっさと斬って例のものを手に入れて、国もとへ帰ってくれれば、こちらはいらぬ手間をかけずにすんだのに、面倒なことだ」
男が言い終わった瞬間、後ろできゃっという子供の悲鳴が聞こえた。
新左衛門が振り返ると、徳兵衛が庄吉を抱えてゆっくりと後じさっていた。
「平井様、この坊は必ず父御のもとに届けますで」
「まて、何をする、どういうことだ」新左衛門は、まったく理解できず、男に訊いた。
「物わかりの悪い男だ。まあ、だからこんな損な役回りをさせられているんだろうがな」男は溜め息まじりに話した。
蓮次は、男を警戒しつつ、体をよじって徳兵衛を見、そして油断なく気を配りながら、
「じいさん達も、あんたとぐるってわけだ」
「ははは、学のない百姓のほうが、侍のお前さんよりもずっと、おつむの出来いいようだ」男は嘲笑を口の端に浮かべた。「簡単な話だ。直訴の阻止は禁じられているのは知っているな。阻止したことが、殿の耳に入ればどうなるか。お前さんだけじゃあなくて、命じた郡奉行の田村さんも、その上にいる家老杉谷様すらも叱責はまぬがれない。殿からの叱責だけですめばいいが、杉谷様を追い落とそうとする連中にどう利用されるかわからない。となれば、直訴を阻んだのは、自分の落ち度を隠そうとした小役人の独断ということにすればいい。そして、その独断に走ったお前さんを成敗すればすべては闇に消える、ってわけさ。な、簡単だろう」
「口封じ、とひとことですむ話だな」新左衛門は歯噛みした。
「ははは、違いない」
新左衛門は、田村奉行と遠目でしか見たことのない杉谷監物老人の顔を思い浮かべ、さらにぎりぎりと歯をかみしめた。男は話しぶりから江戸詰めの藩士に違いない。杉谷家老は――まず間違いなく田村でなく杉谷家老の差し金であろう、国もとから早飛脚でも使って書簡を送り口封じを命じたのだ。
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