その夜の宿は、下布田しもふだであった。下布田という宿場は、布田五宿という小さな宿場がつらなるなかのひとつで、ここには旅籠が三軒しかない。

 庄吉は、病み上がりだし子供の脚ではどうかと思ったが、思った以上に堅強な体をしていて、新左衛門と蓮次の後を平然とついて来たのだった。

 ひと晩眠るとさらに体調は快復したようで、庄吉ははやく江戸へと旅立ちたくて、うずうずして落ち着かない。

 旅籠土間で草鞋を履いていると商家の隠居ふうの老人が、不意に声をかけてきた。

「ご一緒してかまいませんか」

 どこか不自然な、ちょっと芝居がかった言いかたに感じて、新左衛門は訝しむ気持ちが働いたが、それは国を出立する時に公儀隠密などという妄想じみた話を聞かされたせいだと思いなおした。

「うん、べつにかまわんが」

「ありがとうございます。妻とふたり旅もいい加減飽きてきたところでして」

「ああ、わしらもまったく不案内だからの。土地の者がいてくれると助かる」

 新左衛門たちは、徳兵衛とくべえと名乗った老人と妻とともに行くことにしたのだった。

 そうして旅籠をでたときにはもう陽がすっかりのぼっていたが、ひどく底冷えのする日で、重そうな雪雲が空を覆っていて、これは今日じゅうに雪がふりはじめるなと感じながら新左衛門は歩き出した。

 徳兵衛は商家の隠居の身の上だということで、妻とともに遊山がてら日野にある在所を訪れ、深川というところまで帰路の途中だそうだ。夫婦が、坊、団子を食べるか、のどはかわいておらぬか、などと庄吉を甘やかすものだから、庄吉自身もすぐになついてしまっていた。

 内藤新宿まであと四里ばかり。

 ともすれば走りだしそうになる庄吉をしかりながら、無理をしないでゆっくり歩いた。茶屋を見かけるたびに脚を休め、広がる田園を眺めてため息をもらした。もうすぐ江戸とは思えない閑静な景色で美しかった。広大な平野に広がる田畑は山に囲まれた国の田畑とは違う明るさが地表からにじみでているようだった。

「この辺は地味が豊かそうだな。飢饉などは無縁なのだろうな」

 役目がら、新左衛門はつい目についた土地を値踏みするように眺めてしてしまうのだった。この土地はどんな野菜を育てるのに適しているだろうか、水はけは良いだろうか、米を育てるのには向いていないが麦か蕎麦なら充分育つだろう――。

「そうでもありません」と答えたのは、徳兵衛であった。「一見ゆたかには見えますが、すべてお天道様しだいで、とれるときはとれるし、とれないときはとれない。毎年毎年豊作が続く土地なぞはありますまい」

 そういって、老人は夫人にまとわりつくようにして歩く庄吉の頭をなでた。

「この坊の父御が働きに出たのだって、今年の収穫がいまひとつだったからでしょう」

「のんきなものだ」とつぶやいたのは蓮次であった。新左衛門に向けて言ったのだった。

「のんきなものか」新左衛門は気色ばんで答えた。「わしだって、土地のことや領民のことは絶えず考えている。丸衣川がたびたびあふれることだって、どうにかしたいと頭を悩ませている」

「考えて、悩ませているだけじゃあ、なにも変わりはしねえですよ」蓮次はもう喧嘩腰の物言いになっていた。

「旦那のまえでいうのもはばかられますがね」

 とはばかるふうは微塵みせず蓮次は、

「侍なんてみんないっしょだ。いつもは領民を守っているような顔をして、いざとなれば苛烈にとりたてる、手に余れば見捨てる。小作たちは自分たちの食うぶんも年貢に供出するもんだから、不作のたびにに村じゃ誰かが死ぬ。死んでいるのに見て見ぬふりだ。百姓がいなくなれば自分たちの、侍の食い扶持を作るもんがいなくなる。そんなこともわからねえ。考えている悩んでいるなんて言いながら、何にもわかっちゃいない。侍は自分で自分の手足をもいでいるようなもんだ」

 新左衛門は返す言葉もなく、むっとして蓮次の言葉を聞いていた。蓮次はさらに続けた。

「この間の出水のときだって、飢え死にが出なかったのは表面だけのことだ。腹の子をおろすかみさんもいたし泣く泣く娘を女郎屋に売った父親もいた。知らないのはあんたら侍だけだ。いや、知っていて知らないふりしてるのかもな」

 完全に言い負かされる形で、新左衛門は憤懣を腹にかかえるようにして歩いた。

 いくら、俺はお前たちのことをいつも考えて上申書で訴えてもいる、と言ってみたところで、結果がまるでともなっていないでは、蓮次のような百姓たちからすれば不満が膨れ上がるのもいたしかたないところであろう。

 ただ、さらに何か言おうとするのへ、

「黙れっ」

 とひどく怒鳴った。武士としての権威で押さえつけるように蓮次の口を封じた。

 なんでえ、と蓮次はそっぽを向いて唾をはくようにぼやいた。

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