六
まだ夢うつつのなかで新左衛門が、まぶたの裏に染み込んでくるような陽の光に眉をしかめると、同時に誰かのささやくような声が耳の奥に無遠慮に入り込んでくるのだった。
上のまぶたと下のまぶたが必死にしがみついているのを、無理矢理ひらいてみると、行き倒れの子供の、顔の上に覆いかぶさるようにして、蓮次が何かをささやいている。それに対して、子供がぼそぼそと答えを返しているようであった。
「目が覚めたか、坊主」
体を起こしながら新左衛門が訊くと、ふたりが同時にこちらに顔をむけた。
「熱は下がったか」
「うん」
「名前は」
「
「この辺の家か」
「うん」
「どうしてあんなところで倒れていたんだ」
矢継ぎばやに訊く新左衛門を、
「だんな」と蓮次がさえぎった。「そう何度も同じことを訊かれたんじゃ、庄吉だってうんざりしますぜ」
新左衛門はあくびをしながら、ああそうか、と思った。すでに蓮次と自己紹介が進んでいたらしい。
「じゃ、話を続けてくれ」
「庄吉」と蓮次が訊いた。「おまえなんであそこで倒れていた」
「おいら」
と庄吉は蚊の鳴くような声で話した。まだ調子がもどっていない様子であった。
「江戸にいる父ちゃんに会いにいくところだったんだ」
「江戸って、ここからじゃ、まだ十二里はあるだろう。おまえひとりでいくつもりだったのか」
「うん」
「どうしてまた」
「父ちゃんは江戸に出稼ぎに行ってる」そうして庄吉はちょっ言いよどんだ。なにか言いにくいことを言うか言うまいか迷っているようでもあった。
「父ちゃんが恋しいんだろうが、子供ひとりじゃちょっと無理ってもんだ」蓮次が諭すように言った。
「そうだな」新左衛門も翻意をうながすように、「家に帰れ。ここから遠くないのだろう、なんだったら、わしらが送っていってもかまわんぞ」
「いやだ」それまでの弱弱しい声音が急に変じて、庄吉は甲高く叫んだ。
「なぜだ」新左衛門はいささか気色ばんだ。子供のわがままにつきあっているゆとりはないのだ。
だが、庄吉はきゅっと唇をひきむすんでいる。口の中から漏れ出る嫌なものを、必死にこらえているふうであった。
「理由を言わぬか。言わねばわしらとて協力はできかねるぞ」
「家には、嫌な女がいる」
「女?」
「のちぞえだ」庄吉は、どこかで大人たちから聞きかじった言葉であろう、ちょっとたどたどしく答えた。
「継母か。それでも母親は母親だ。女などと呼んではいかん」
「あんなの、母親なんかじゃねえ。なにかあるとすぐにおいらをぶつし、目ざわりとか、邪魔だとか、ひでえことばっかいうんだ。だから家出をしてきたんだ。そしたら突然くらくらしてきちゃって」
「なるほど、父ちゃんところに逃げてく途中だったってわけだ」合点がいったようすで、蓮次が腕を組んでしきりにうなずいている。
「いくら母親に折檻されるからといって、勝手に家出をしてよいものじゃない。ちゃんと家に返さねばならん」
「そうはいいますがね、旦那、こいつにとっちゃ、家にいるってだけで針の筵なんですぜ。生きているのもつらい毎日をおくってるんで。かわいそうじゃないですか」
「えらく肩を持つじゃないか、蓮次。確かに見て見ぬふりというわけにはいかん。わしが母御に、もう庄吉を打擲せんように、しっかりと諭してやる」
「俺たちが、父親のところまで連れて行ってやりましょう」
「馬鹿を言え、へたをすると子さらいに間違われかねんぞ」
「旦那、庄吉が不憫だとは思わないんですか、憐憫の情ってもんはないんですか」
蓮次の小難しい言い回しに、あきれるように腕を組んで、新左衛門は頭をひねった。
「江戸の、どこで父御は働いているな」
「木場ってところ」
「きば?蓮次、お前の頼っていく商家の近所か」
「さ、さあ、さっぱりわかりません」
「庄吉はその場所を知っておるのか」
「しらね」
「ふうむ。こっちから江戸に入って近ければいいんだが」
そうして新左衛門はしばらく黙考したあと、ぴしりと膝を打った。
「ま、袖振り合うも多生の縁と言うしな。よし、連れて行ってやろう」
「ははは、良かったな、庄吉」
「うん」
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